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彼女と兄と弟と

 窓から差し込む光が茜色に染まり始めている。外に目を向ければ、もうすっかり陽は傾いていた。


「これで終わりっと」


 最後の長机を拭き終わったサキは、やれやれというように一度伸びをした。

 先ほどまで騎士たちでごった返していた食堂は、今はもう誰もいなくなり、外から虫の鳴き声が聞こえてくるほど静かだった。


「役に立ててよかった」


 そう一人言を呟く。

 サキが作った料理は、有り合わせの野菜を適当に入れて作ったスープと刻んだだけのサラダだった。それに作り置きしてあったパンを付けて騎士たちに振る舞った。

 ジークフリードとアヴァンオスローの手伝いがあっても、味付けは全てサキに任されていたため少々不安だったが、調味料の類はサキがいた世界と似たようなものばかりだったので、何とか作ることができた。騎士たちはそれを美味しいと食べてくれたので、サキは少しホッとしていた。

 空腹なら何でも美味しく感じだろう。たとえそれが多少不味くても。


「夕ご飯まで頼まれたらどうしようかと思ったよ……」


 サキはそう言って小さく息を吐いた。

 夜はどうするのかと思って一応聞いてみると、夜はみんな町の酒場に行くという事だったので、サキは片付けが終わったら庭仕事を再開しようと思っていた。しかし、昼食を作りはじめた時間が午後のお茶の時間と同じくらいだったために、思いのほか遅くなってしまった。


「少しくらいなら、まだできるかな」


 窓の外を見ながら呟いたその時、入口の方から声が聞こえた。


「少しいいだろうか」


 そう言って入って来たのは、二十代半ば程の青年だった。貴族風のきっちりした衣服を纏っているところを見ると、ここの騎士ではない事が分かる。


「……」


 サキは一瞬その青年に目を奪われた。

 少し癖のある髪は栗色で、穏やかそうな目元から覗く瞳は翡翠色。その整った顔立ちは、完璧という言葉を遥かに超えている。温厚そうなその顔で微笑まれたら、見る者を卒倒させる威力が有りそうだ。

 青年を食い入るように見つめていたサキに、ふと声がかけられる。


「私の顔に何かついているのかな?」


 そう苦笑する青年に、サキはハッと我に変える。


「い、いえ。すみません」


 咄嗟に視線を落として謝罪するサキは、頬が熱くなるのを感じていた。

 一体今日はどれだけ頬を赤くすればいいのだろうかと、サキはため息を吐きたくなった。


「少し君と話がしたいのだが、いいだろうか」


 視線を上げれば、そこには柔らかく微笑む青年がいた。

 サキはその微笑みに、ある人の面影を見つけた。


「……私も、お話したいと思っておりました。――イルヴェルト様」


 聞かなくても分かった。その微笑みはレオンハルトにとてもよく似ていたのだから。


 目の前の青年は、レオンハルトの兄、イルヴェルトその人だった。






「どうぞ」

「すまないね」


 食堂の長机に座るイルヴェルトにお茶を差し出し、サキもその正面に腰かけた。

 こう言っては何だが、イルヴェルトがこの食堂にいるのは違和感しかなかった。それくらいにイルヴェルトは庶民的な雰囲気が似合わない。おそらくレオンハルトがいてもそう思うのだろうなと、サキは秘かに思った。


「君のそういうところをハルトは気に入ったのかな」


 クスクス笑っているイルヴェルトを前に、何の事だと首を傾げたサキだったが、とんでもない事に気づいて勢いよく立ちあがった。


「す、すみません! イルヴェルト様と同じ席につくなんてっ」


 イルヴェルトの許可なく席についただけでもあり得ないことなのに、同じ席につくなど言語道断だ。貴族であってもそんな事は許されないのだ。使用人風情のサキなどは許す許さない以前に、問答無用で首が飛ぶ。


「構わないから席につきなさい。君は未来の義妹なのだから」

「は……え!?」


 流されて、はい、と言ってしまいそうになったが、今とんでもない単語を聞いた気がする。

 サキは立ったまましばらく茫然としてしまった。


「後宮に入ったのだから、その可能性は大いにあり得るだろう?」


 どこか企むような笑みを浮かべているイルヴェルトを前に、サキは嫌な汗をかいていた。

 どう考えても逃げ場がない気がするのは、全力で気のせいだと思いたい。


「とりあえず座りなさい」


 サキは言われるままに再び席についた。

 カップから立ち上る湯気の向こうにイルヴェルトがいる。本来なら会うことすらできない人物なのだ。それでもサキは一度ちゃんと会って話がしてみたいと思っていた。


「お話とは何でしょうか?」

「君の方が、私に言いたい事があるのではないか?」


 その言葉に視線を上げると、力なく微笑んでいるイルヴェルトと目があった。それだけで、イルヴェルトが何故自分のもとに来たのか、サキは分かった気がした。

 言いたいことは確かにあった。しかし、こうしてイルヴェルトを目の前にした今、それはサキの中で消えた。


「では遠慮なく」


 サキは一つ息を吐くとイルヴェルトを真っ直ぐ見つめた。


「実は、欲しい花があるんです」

「……は?」


 キョトンとした顔をしているイルヴェルトに、サキは言葉を続けた。


「図鑑で見たんですけど、『セラ』っていう凄く綺麗な花なんです。でもこの国にないみたいで。どうにか入荷してもらえませんか?」


 サキはこれ幸いと、かねてからの願望をイルヴェルトに訴えた。

 こんな機会は滅多にないのだ。国のトップの承諾を得られれば、それは確実に手に入ること間違いなしだ。


「ダメですか?」

「……検討しておこう」

「やった!」


 サキは机の下でグッと拳を握って喜んだ。


「セルネイさんに言ったら、イルヴェルト様かレオンハルト様に聞いてみてって言われてしまって。レオンハルト様には言えないし、どうしようかと思ってたんです」


 たとえ検討という形であっても、手に入る確率が跳ね上がった事には違いなかった。

 サキはその事を嬉しく思いながら、頬が緩むのを止められなかった。


「何故ハルトには言えないのか聞いてもいいか?」


 不思議そうに見つめられたサキは、それに苦笑を返すと口を開いた。


「その花はレオンハルト様のために欲しいんです」


 その花の香りには安眠効果があるそうで、いつも眠そうにしているレオンハルトのためにどうしても手に入れたいとあの夏の日からずっと思っていたのだ。

 それを正直に話すと、イルヴェルトは、そうか、と小さく返してきた。


「贈り物ってわけではないですけど、やっぱり驚かせたいじゃないですか。だから本人には内緒にしておいてください」

「分かった」


 笑い声が混じる返答に、サキは照れたように笑みを返した。

 すると、不意にイルヴェルトの表情から笑みが消えた。その代わりにどこか悲しそうな色が浮かぶ。


「私は何を言われても構わない。君は、言いたい事を言えばいいんだよ」


 サキはそんなイルヴェルトを真っ直ぐ見つめた。


「私にとって、それは意味のない事ですから」


 そう苦笑を浮かべると、イルヴェルトは少々目を見張っていた。

 イルヴェルトが何をしにここに来たのか、サキには分かっていた。分かっていたからこそ、イルヴェルトが予想していたであろう話はしなかった。

 サキには、それがもう無意味な事だと分かっていたから。


「会いに来て下さって本当に嬉しかったです」


 心からそう思った。

 イルヴェルトはちゃんとレオンハルトの事を想ってくれていた。それが分かっただけでもイルヴェルトと話せた事はサキにとって大きな事だった。


「レオンハルト様のために来て下さって、本当に嬉しいです」


 何とも思っていない人のために動く人はいない。そこに何かしらの想いがあってはじめて人は動くのだ。

 イルヴェルトはサキを呼びつけることもできた。しかしイルヴェルトは自ら足を運んでまで会いに来たのだ。

 そこにはそれだけの想いがあったのだと、サキは感じていた。


「レオンハルト様のお兄様が、優しい人でよかったです」


 確かにレオンハルトに『レオルヴィア』になれと命じたのはこの人だ。しかしイルヴェルトはきっとそれを容認していたわけではなかったのだろう。

 自分から使用人に会いに来るくらいだ。イルヴェルトはきっとレオンハルトの事を大切に想っているのだと信じられる。


「私はこれからもずっと、レオンハルト様の傍にいたいです。だから花の件、よろしくお願いします」


 サキはにっこり笑ってイルヴェルトを見つめた。


「君という人が分かったよ」


 イルヴェルトは見極めに来たのだ。

 レオンハルトのために、レオンハルトを見つけたサキを。


「これがハルトの『最愛』か」


 その呟きはサキには聞こえなかった。

 イルヴェルトにとって『サキ』という人物はどう映ったのだろうか。それはサキ本人には分からない。しかしサキにとってそれは重要な事ではないのだ。

 イルヴェルトがレオンハルトの事を蔑ろにするような人ではなかったと知ることができた。それだけで、サキは心に蟠っていたものが晴れていくような気がした。

 イルヴェルトはスッと視線を上げると、サキを真っ直ぐ見つめてきた。


「どうかこれからもハルトの傍にいてやって欲しい」


 その微笑みは本当に慈しむ優しさに満ちているようで、サキはその微笑みに心が温かくなった。

 だからサキも心からの笑顔を返す。


「当然です。レオンハルト様とも約束しましたから」


 どれだけの事ができるのかは分からない。それでもできる事があるのなら、傍にいて力になってあげたい。


「ありがとう」


 夏の日の出来事で知った真実はあまりにも残酷で悲しいものだったけれど、レオンハルトのまわりにはちゃんと彼を思ってくれている人たちがいた。サキはそれがとても嬉しかった。

 一人の辛さも、孤独の淋しさも、サキは嫌と言うほど知っている。だからこそ、誰もいない悲しさを他の誰にも味わわせたくはないのだ。


「時間を取らせてしまったな。……そろそろ見つかる頃だ」

「え?」

「見つけた」


 突然声が聞こえてきたと思ったら、入口付近にレオンハルトの姿を見つけた。

 レオンハルトはズカズカと食堂に入って来ると、サキの後ろに回り込みそのまま抱きついた。


「探した」

「……いや、仕事しましょうよ」


 一体いつ仕事をしているのかと本当に疑問だった。王子なのだからそれほど暇ではないだろうに、いつもやって来ては一緒に草を毟っている。

 サキは、それで大丈夫だろうかと心配しつつも、ため息を止められなかった。


「イルのバカ」

「ぶっ!」


 面白そうにこちらを見ながらカップに口を付けていたイルヴェルトは、レオンハルトの突然の言葉に茶を噴き出しそうになっていた。


「覚えてろよ」


 レオンハルトは何処か剣呑な雰囲気を漂わせながらイルヴェルトを睨んでいる。一体何があったかは知らないが、レオンハルトは何故か拗ねているように見えた。


「もう、そんな顔しないでください」


 サキはレオンハルトの頬とムニっとつまんで引っ張った。その綺麗な容姿が崩れる様は少々面白かった。


「いひゃい」

「お兄様にそんな顔しちゃダメです。仲良くしましょうよ」


 レオンハルトの頬から手を離したサキは、何も考えずにそう言葉を紡いだ。しかしイルヴェルトとレオンハルトは揃ってその動きを止めた。

 その様子にサキはどうしたのかと首を傾げた。


「私を兄と認めるか。そうかそうか」

「サキが俺のお嫁さんに」


 ニヤつく兄王子と頬を赤らめる末王子。そのぶっ飛んだ会話に、サキはこの上なく慌てた。

 決してそう言う意味で言ったわけではないのだが、その失言にサキは人生稀に見る非常事態を味わう事になった。


「ちょ、違、誤解です! そういう意味で言ったわけでは」

「義妹もいいものだな」

「俺はサキに似た娘が欲しい」

「何処まで想像かっ飛ばしてるんですか! このスカポンタン兄弟が!」




 窓から入る茜色の光は次第になくなり、月明かりが辺りを照らしはじめる。

 サキは誤解を解くのに必死で、陽が完全に落ちたことには気付かなかった。


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