迫りくる決着の時
頬を撫でる冷たい風を感じ、サキはその寒さに身を丸め、顔が隠れるくらいに上掛けを引き上げた。
誰だか知らないが、窓を開けるのは止めてほしい。
未だ微睡みの中にある意識でそんなことを考えていると、不意に声が降って来た。
「そろそろ起きろ」
その言葉にのろのろと目蓋を上げると、視線の先に知った顔が見えた。
「ウェルダさんがいる……」
「寝惚けている場合か。早く起きろ。正午になっても知らないぞ」
「正……午!?」
サキは勢いよく飛び起きると、掴みかからんばかりにウェルダに詰め寄った。
「今何時ですか!?」
「まだ正午まで時間はあるが、交渉に向かう前にやる事があるだろう? それを考えるとギリギリだな」
「何で起こしてくれなかったんですか!?」
サキは慌てて寝台から飛び降りると、開け放たれた窓から入ってくる陽の光に陽が昇ってからの時間の経過を悟った。
「こんな大事な日に寝坊とかあり得ないっ」
緊張感がないにも程があるだろうと自分自身に悪態を吐きながら、サキは勢いよくウェルダの腕を掴んだ。
いくら寝惚けた頭で混乱していようと、この場所が公爵邸ではないという事は承知している。
「待て待て。とりあえず顔を洗って来い。話はそれからだ」
「そ、そうですね。分かりました」
サキはウェルダの腕からパッと手を離すと、急いで部屋から飛び出し、神殿の敷地内に在る井戸へと向かった。
公爵邸の一室。
サキとウェルダは公爵の目の前に突如として現れた。
「あわわわわっ」
「……何故お前が慣れないんだ」
毎回空中に放り出されていようと、サキはそれに慣れる事がなかった。空中に放り出される事は既に承知しているが、咄嗟の受け身などとれないのだ。
そうして今回もバランスを崩して倒れそうになったのだが、それはウェルダに腕を掴んでもらった事で免れた。
「サキ様!?」
驚くようなその声にそちらを向けば、そこにはラウラディアンと数人の侍女の姿があった。
ラウラディアンたちはサキとウェルダが突然現れた事に驚きを隠せないという雰囲気でそこにいたが、すぐさまその場は慌ただしく動き出す。
「迎えの者をやったのですが、なかなか来られないので心配しておりました」
「来るのが遅くなってすみませんでした!」
サキは勢いよく腰を折って謝罪すると、ラウラディアンは少々面を喰らったような表情をしていたが、すぐにその表情を緩めていた。
「どうか顔を上げてください。まだ時間はございますから大丈夫です」
今日という日がこの場にとってどれだけ大切な日なのかを知りながら、それでも寝坊してしまったのだ。人の命がかかっているこの大事な時に、呑気に寝ていられた自分が信じられない。
サキは本当に申し訳なくて、床に頭を擦りつけて土下座したいくらいだった。
「早速で申し訳ないのですが、現在の状況をお話しします」
その言葉にサキはグッと表情を引き締め、ラウラディアンの話を聞いていった。
ラウラディアンの話によると、今朝方、ナヤル軍から使者が来て交渉場所を提示してきたらしく、その関係でレオンハルトとアヴァンオスローは先に自陣へと戻り、準備を進めているという事だった。
「その場所と言うのは?」
「戦場です」
「戦場ですか!?」
サキは予想もしていなかった指定場所に耳を疑った。
サキは向こうに出向いて交渉するものだと思っていたのだが、どうして戦場の真中を指定して来たのか理解出来なかった。
「本来ならば両軍にとって不利益にならない場所が指定されるのですが、今回ばかりはこちらに不利な交渉場所となってしまいました」
「……そう来たか」
そんな言葉を漏らすウェルダに、サキはどういう事だというように視線を受けた。するとウェルダが説明を返してくる。
「レイヴァーレ王国軍は劣勢だった。そんな戦況の中、たった一日でも猶予があれば軍を立て直す事は可能だ。それはナヤル軍も承知していたはずだ。だから、交渉場所が戦場なんだ」
現状、ナヤル軍は優勢だった。しかし一日の休戦を承諾した。もし停戦交渉が失敗すれば、ナヤル軍にとっては何の利益も発生しない事は明らかだった。たとえ人質を取ろうとそれは変わらない。それはむしろ敵に塩を送るような行為であり、本来ならありえない事だった。
しかし何の気紛れかルダフィオルテはサキの申し出を受けた。そのため、レイヴァーレ王国軍が下手な小細工をしないように手を打つ必要があったのだという事だった。
「場所を指定してきたのは、お前を戦場に立たせることによってこちらの動きを封じるのが目的だろう」
戦場で行われる停戦交渉が決裂してしまえば、そのまま戦は再開される事になる。ルダフィオルテの狙いは正にそこにあった。
「あの王弟は、お前も斬るつもりだ」
ウェルダの硬い声音が耳に届く。その事実に、サキは小さく息を呑んだ。
交渉が決裂し、このまま戦が続けられることになれば、また多くの死傷者が出ることになる。その時、サキの能力はナヤル軍側からすれば驚異と成り得るものとなるのだ。現に、ナヤル軍側はサキの能力のおかげで戦力を然程失うことなく戦い続けていた。その恩恵を今度はレイヴァーレ王国軍側受けることになるのだ。
サキがレイヴァーレ王国側の人間だと知ったナヤル軍がサキをどうにかしようと考えるのは当然の事だった。
「この停戦交渉は、ナヤル軍からしてみれば絶好の機会だったというわけだ」
労せずサキを始末するための。
その言葉は敢えて告げられなかったが、事実そうなのだろうとサキは思った。
「こちらから場所の変更を要求してはみたのですが、現状、我々は従わざるを得ない状況ですので、場所の変更は叶いませんでした」
申し訳ないというように告げてくるラウラディアンに、サキの方が申し訳なくなった。
停戦交渉はサキがルダフィオルテに願い出たものであるため、ナヤル軍側が優位に立っているのは仕方のない事だった。
「私をどうにかしたいなら、どうしてジークさんを人質になんて……」
サキはルダフィオルテに対価を求められた時、自分の命を差し出すと申し出た。しかしルダフィオルテはその申し出を受け入れなかった。
最初から『サキ』を始末しようと考えていたのなら、この命を対価として受け取っていたほうが話は早かったのではないかと、サキは思った。
しかしその考えはウェルダの言葉で否定される。
「それはお前を逃げられなくするためだろう」
あっさり返ってくる回答にサキはグッと奥歯を噛んだ。
サキ以外の人間を人質として取ったのは、サキが必ず思い付いた案を持って交渉の場に出てくるよう仕向けるためだった。
誰かの命がかかっているというのなら、サキは必ずその誰かを助けようとする。そんなサキの性格をルダフィオルテは既に把握していたのだろう。
「あちらは失敗した時の用意を万端にしているように見えますが、あちらが貴方の交渉案に興味を示しているというのは確かです。貴方をこちらに戻した事が何よりの証拠です」
公爵の言葉に、ウェルダも同意する。
「あの王弟は最初からお前に興味があったみたいだしな」
『花の娘の再来』と呼ばれていた黒目黒髪の少年の噂はルダフィオルテの耳にも入っていた。サキはナヤル軍の自陣に飛んだ時に初めてルダフィオルテの存在を知ったのだが、あちらは既にサキの事を知っており、その稀な能力を持つが故に興味を持っていたのではないかという事だった。
「貴方の御身は殿下方が必ずお守り下さるでしょう。ですからどうかご心配なさらず。貴方は貴方のやるべき事をなさってください」
サキは胸の前に置いた手もギュッと握った。
サキがやらなければならない事。それは交渉案を提示し、ルダフィオルテを必ず納得させる事だ。そして無事にジークフリードを解放させ、戦を終わらせる。
サキはその大役に体が震えるも、やり遂げるのだという意志を心に強く抱いた。
「私にはこの町を護る義務がございますので、貴方と共に行く事ができません。どうかお許しください」
ラウラディアンはこの鉱山都市一帯を治めている貴族だ。もし停戦交渉が失敗し、戦いに巻き込まれ命を落としてしまう事にでもなったら大変だ。
それはサキも分かっているため、大丈夫だとラウラディアンに返す。
「心配しないでください。必ず停戦させてみせますから!」
サキは自分を奮い立たせるようにそう告げる。
必ず成功させる。それがこの事態を招いたサキにできる、唯一の事だった。
「では、俺がお前と行くという事だな」
不意にそんな事を口にするウェルダに、サキは焦った。
「いくらなんでも、戦場にまでウェルダさんを連れて行くわけにはいきません」
「ではどうやって戦場に行くつもりだ? のんびり歩いていく暇はもうないぞ」
ウェルダがいうように既に陽は高く昇っており、正午が近い事を知らせている。しかしまだ時間は残っている。
「走れば間に合いますよ」
「それは無理です」
サキの言葉に異を唱えたのはラウラディアンだった。
「ルダフィオルテ殿下から親書を受け取っている以上、これは正式な国同士の交渉となります。たとえ交渉場所が戦場となっていようとも、相手側への礼を欠く事は出来ません。そのため、貴方には身支度をする時間が必要です」
ラウラディアンに言われ、そんな事を全く考えていなかったサキはグッと言葉に詰まった。
相手はナヤル国の王族だ。失礼がないようにと配慮するのは当然の事なのだ。それなのに、その時間を考慮するどころか寝坊してしまった自分がこの上なく恥ずかしい。
「ですから、貴方の能力を既に承知しているウェルダ殿に同行をお願いするのがよろしいかと」
サキの能力は治癒だけではない。この時代に生きる人々が使う事ができない『魔術』も使う事ができるのだ。その事はあまり公にしない方が良いという配慮から、事情を少なからず承知している者が同行したほうが良いだろうという事だった。
サキは最後までウェルダに迷惑をかけてしまうのかと思うと、心苦しかった。
「すみません、ウェルダさん」
「気にするな」
ウェルダは、いつも面倒そうにしている割には関わりを疎んではいない。ナヤル軍で救護活動をしていた時もそうだったが、面倒だと言いながらも、手を抜いたり途中で放り投げたりするような事は決してしなかった。
責任感が強いというわけではないが、ウェルダは自分が関わった事に対しては中途半端な事ができない性質なのだろう。
しかし今回の事はサキが巻き込んでしまっただけの話なのだ。それなのに、最後まで付き合おうとしてくれているウェルダに、サキは大いに感謝した。
「もし何かあれば、私がウェルダさんを守りますから」
戦場の真中に行くのだ。何があるのか分からない。
交渉が成功すればいいが、もし失敗なんて事にでもなれば、ウェルダも危険に晒される事になる。その時は自分を盾にしてでも皆を守ってみせるとサキは強く思っていた。
しかし、そんなサキの意気込みを余所に、ウェルダからいつものように面倒そうなため息が聞こえてきた。
「逆だ」
そう短く告げられ、サキは少々首を傾げる。
すると途端に真面目な顔つきになったウェルダが真っ直ぐに見つめてくる。
「何かあれば、俺がお前を守ってやる」
その言葉を聞いた途端、サキは何故か胸がギュッと締め付けらる感覚を覚えた。
嬉しいような、切ないような、よく分からない感情が胸の中に広がっていく。
泣きたくなるような激しい気持ちとそれを冷静に感じている自分の意識を、サキはどこか滑稽に感じていた。
「時間も迫っております。早くお支度を。お前たち、サキ様を」
公爵がその場にいた侍女たちに指示を出すと、侍女たちはそれに応じるようにサキの周りを取り囲んだ。
「サキ様、これは今朝届いたイルヴェルト様からの手紙です。交渉に役立つ事が書かれていると思いますので、出向く前にお読みください」
ラウラディアンに差し出されたその手紙を受け取ると、緊張のためか手紙を持つ手が震えた。
サキは一度短く息を吐き自分を落ち着かせると、ラウラディアンに分かりましたと言葉を返し、侍女に促されるままに部屋を後にした。




