動き出す時間
「彼女に会いたいのだが」
男は、隣で植木の葉を切り揃えている庭師に開口一番にそう言った。庭師はその言葉を受け、手を止めることなく返事を返してくる。
「どうぞ」
その呆気ない返答に、男は少々眉根を寄せた。
「いいのか?」
「何で?」
手を止めた庭師がこちらを向く。
陽の光を受けて不思議な色合いを見せるその瞳は、未だに何色なのか分からない。
「もう隠すのは止めたのか?」
その言葉に、庭師の瞳が少しばかり揺れたように見えた。
「……怒ってる?」
「そんな事はない」
実際、男は彼女の存在を知らなかった。男だけでなく、王宮で働いている者は皆、彼女を知らない。完全に隠されているわけではないが、彼女の存在はそこにいるという事以外は誰の記憶にもほとんど残らないようになっている。
それを仕組んだのは、この庭師だ。
「お前が彼女を隠してくれているなら、その方がやりやすい」
「……そう」
庭師は言葉の意味を正確に読み取ったようで、返事は短かった。
「もう、終わりにしようと思う」
真っ直ぐ庭師を見つめ、男は告げた。
失うことも、手放すことも、その全てを、終わらせてしまおうと決意した。
それを決意したのは、彼女の存在を知ったからだった。
「だからその前に、彼女に会っておきたい」
この目で、彼女を見極めておきたいと思った。
彼女がどうしても必要だった。彼女でなければならなかった。
彼女が、この世界でたった一人の『最愛』になったのだから。
「きっと気に入るよ」
庭師はどこか誇らしそうにそう言った。この庭師は彼女の事を余程目にかけているらしい。
男はフッと笑みを浮かべると、庭師を見つめた。
「会うのが楽しみだ」
それは心からの言葉だった。
男は、失うことを覚悟し、手放すことを決めた。しかし彼女は、失うことを認めず、手放すことを許さなかった。それがどれだけ難しい事なのか、男は知っている。だからこそ、彼女が取り戻してくれた弟の心を大切にしてやりたいのだ。
「セルネレイト」
男は、庭師に最高礼を取った。
「永久の約定は決して違える事は致しません。祖父と父の過ちは全て私が負いましょう。ですから、どうか彼女は我が弟の傍に――」
「……やっぱり、知ってたんだね」
彼女が隠されていた事実を知った時、同時に悟った。
彼女がいずれいなくなってしまうことも。
それを庭師が知っていることも。
「イルヴェルト」
名を呼ばれ、イルヴェルトは顔を上げる。
目の前には、この世でただ一人の、最も尊い男が立っていた。
「この世界は彼女に『災い』しかもたらさない。それを『幸い』に変えられるかは君たち次第だ」
もしそれが叶わなかった時は、彼女はここからいなくなる。
庭師は暗にそう言っていた。
「僕は君たちを信じてる」
その微笑みはもういつもの庭師のものだった。イルヴェルトは庭師に笑みを返すと、いつものように話しかける。
「その信頼を決して裏切りはしないと誓おう、――セルネイ」
誰かを犠牲にする『最善』ではなく、今度こそ皆のための『最善』を。
思いは口にしなくても、庭師には届いている。
「頑張って。僕も力になるからね、イル」
イルヴェルトは庭師に、ああ、と短く返した。
そうしてその会話を最後に、イルヴェルトは踵を返し、庭師のもとを去った。
それを見送ったセルネイは、小さく呟く。
「大丈夫。きっと、君たちなら……」
その言葉はもうイルヴェルトに届く事はなかった。




