似ているモノ、違うモノ
昼食の片づけが終わると、少しだけ時間に余裕ができる。
サキは窓際にある長机の席に座り、どんより曇っている空を窓越しに見上げていた。
「余計落ち込むわ……」
重苦しく厚い雲は一筋の光も地上に落とすことはなく、意地悪く辺りを暗くしている。そんな空を、サキはただボーっと見つめていた。
昨夜の事を思うと、今でも胸が痛かった。
伝えたいことはちゃんと言えたはずだが、いつ寝てしまったのか全く記憶がなかった。レオンハルトに抱きしめられたまま泣きじゃくり、気づけば寝台で眠っていたのだ。
目を覚ました時、そこにはもうレオンハルトの姿はなく、どうしようもなく淋しくなった。
「これで、良かったんだよね……」
伝えてしまった。もう後戻りはできない。
どんな結果になったとしても、サキはそれを受け入れる覚悟を決めていた。
後宮から出されることは決定事項だ。それはサキ自身が望んだことなのでそうなってもらわないと困る。
問題はその他の事だった。
自分が王宮から追い出されるくらいなら問題ない。生活力はある方だ。何処でだってやっていける。それは自業自得の事なので甘んじて受ける。しかしクランシエルとアデルリーデの事はどうにかして罰せられる事がないようにしなければならない。
手紙のやり取りに発展したのはサキのせいだった。サキが余計なお節介をしなければ、二人の想い合う気持ちが知られることはなかったのだ。
レオンハルトはそれを知ってしまった。後宮に入っている令嬢が次期王以外の人間に想いを寄せていることが露見すれば大問題だ。この事実を公にされることはないだろうが、二人には何らかの処罰が下されるのではないかと思うと、気が気じゃなかった。
もう一度レオンハルトに会ってちゃんとこの事を話しておかなければと思っていたサキは、近づいて来る人影に全く気付いていなかった。
「サッちゃん」
「うわっ!? ……っと、クランシエルさんですか」
サキは、ビックリした、と胸に手を当てて、一つ息を吐いた。
「どうしました? 今日のお手伝い当番ってクランシエルさんじゃないですよね?」
「うん、無理矢理変わってもらった」
「無理矢理って……」
何故そんな事を、と思いながら、クランシエルには二人の手紙のやり取りがばれてしまった事を詫びておかなければならなかったので、この機会に言っておこうと思った。
「あの実は――」
「ごめんね、サッちゃん」
サキの言葉を遮ったクランシエルは、力ない笑みを向けてきた。サキはそれを見上げ、何の事だと首を傾げた。
「隣いい?」
「どうぞ」
断りを入れてくるクランシエルに短く答える。了承を得たクランシエルは椅子に腰かけ、サキに向いた。
「あれ、なんか頬腫れてませんか? 大丈夫ですか、冷やした方が」
何か冷やすものを探しに行こうと腰を浮かせたサキを、クランシエルは止めた。
「いいんだ。これ、昨日のだから」
もう痛みはないというクランシエルに、サキは、そうですか、と再び腰を下ろした。
「サッちゃんこそ目元が赤いよ? 泣いたの……?」
「これは、泣ける長編物語を読破した証です」
「嘘ばっかり」
クランシエルはサキの言葉に苦笑を返すと、視線を落として口を開いた。
「昨日、副団長にこっ酷く叱られたよ」
何処か気落ちしているような雰囲気のクランシエルは、サキに視線を向けると申し訳ないとでも言うような表情を向けてきた。
「サッちゃんを殺す気かって」
その言葉に目を見張った。手紙のやり取りの事をレオンハルトは知っていた。だとすると、ジークフリードがその事を知っていたとしてもおかしくはない。
二人には迷惑をかけたくないと思っていたのに、あちらは同時に事を為していたのか。
それを思うと、自分の行動の遅さに自嘲が浮かぶ。
愚か過ぎて呆れてしまう。自分は何処まで考えが甘いのだろうか。
レオンハルトともう一度会って話す前に、きっと事は済んでしまうだろう。それくらいに、あちらは迅速で、こちらは鈍足だ。
「もしかしてその頬は……」
「サッちゃんが気にすることはないよ。これは当然の報いだ」
腫れは引いているようだが、まだその名残は残っている。
殴られたのだろうことは一目瞭然だった。
「ごめんなさい。私が余計なことしたから……っ」
「謝ることはない。君は身の危険を冒してまで僕らの手紙を届けてくれたんだから。それなのに俺は、自分の事しか考えてなかったんだ……本当に、ごめんね」
「そんな事ないです……っ」
要らぬお節介だったのだと自分の行為を悔いた。あの時、アデルリーデの手紙の存在を無視しておけばよかったのだ。そうすれば、クランシエルがジークフリードに殴られる事もなかった。
誰かのためを思っても、それは結局自己満足で、自分勝手な行為でしかなかった。それを分かっていたはずなのにやめることができなかった自分は、それだけ愚かな人間なのだ。
サキは申し訳なくて俯いた。クランシエルの腫れた頬を見ていられなかった。
「サッちゃんのところには、レオルヴィア殿下が来たんじゃないの?」
サキはそのまま黙って俯いていた。クランシエルはそれを肯定と受け取ったようで、言葉を続けた。
「そっか……。ごめんね」
サキは、謝らないで欲しいというように首を横に振った。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
この先、どうなってしまうんだろう。
膝に置いている手を、サキは力いっぱい握った。
「聞いてもいい?」
不意に質問されたサキは力なく頭をあげると、何を、視線を向けた。
「サッちゃんは、何で殿下と一緒になれないの?」
サキはすぐには何も言えなかった。
一緒になれない、という言葉が重く伸し掛かる。
それはきっとクランシエルも同じなのだ。
その淋しそうな笑みはサキの心を締め付ける。
「私には身分はありませんし、魔力だって……」
魔力なんて持ってはいない。それは身分がないことより、重大なことだった。だからこそ、自分ではダメなのだ。先の未来に光を見出だせない自分の存在は、早く消えてしまったほうがいい。
そうして、サキは力なく項垂れた。
「俺と、少し似てるね」
確かに似ている。しかし全く違う。
その考えはクランシエルも同じようだった。
「どうして俺たちが君を『サッちゃん』って呼んでるか知ってる?」
「それはアヴァンオスローさんが、そう呼んでるから……」
「違うよ」
クランシエルは首を振って否定した。
「君を愛称で呼んでいるのは、そういう『命令』があったからだ」
「『命令』……?」
どういうことだろうかと首を傾げると、クランシエルから苦笑が返ってきた。
「君のことは『サッちゃん』と呼べと団長から命令があって、俺たちには君の名前は知らされていない。最初は団長が悪乗りしてるんだって思ったけど、君のことを知って、ようやくその『命令』の意味が分かった」
思えば騎士たちは皆、勤務初日からサキのことを、アヴァンオスローと共に『サッちゃん』と呼んできた。別にどうよばれようと構わなかったサキは、それに自分の名前を返したこともなかったのだ。だから、皆が『サキ』という名前を知らなかったと言うのは初耳だった。
サキの名前を騎士たちが知らなかった意味。
それはサキが『花姫』だったからだ。
「団長と副団長は最初から君が『花姫』様だって知ってたんだ。だから、君の名前を伏せて愛称で呼ばせていたんだよ」
『花姫』が誰なのか知られないように。
『サキ』という娘が見つからないように。
そうしてサキは王宮にいながら、その存在は隠されていた。
サキはずっと守られていたのだ。
「俺と君との決定的な違いは、君が女の子だってことだよ」
クランシエルに視線を向ければ、そこには優しげな微笑みがあった。
「殿下は君をとても大切になさってる。きっと、何からも君を守ってくれるよ」
クランシエルとの違いは正にそれだった。
守ってもらっているのだ。予想し得る様々な危険から。
今思えば、王宮に戻ってきてからレオンハルトにベッタリ張りつかれ、レオンハルトがいなくなると今度はジークフリードが傍にいた。その二人がいないときは、セルネイかユイが傍にいてくれた。
どうして気づかなかったのか。どうして分からなかったのか。
サキは自分の鈍感さに泣きそうになった。
その全ての想いを、サキは無駄なものに変えてしまったのだ。
「俺は男だから殿下の気持ちのほうがよく分かる。大切な女は、自分の手で守りたいよ」
どんなに結ばれない現実があろうとも、その想いは変わらない。
クランシエルの言葉は、そのまま彼の想いだった。
「殿下に、君のこと守らせてあげてよ」
自分は叶わないから。
クランシエルの淋しそうな笑みから、そう聞こえた気がした。
「……ダメなんです……っ」
素直に頷けない自分が悲しい。
そうできない自分が悔しい。
どうにもできない現実が憎らしい。
「大丈夫だよ、殿下なら――」
「『殿下』だからダメなんです……っ」
そう言って俯いた瞬間、手に雫が落ちた。
もしレオンハルトが貴族だったなら、まだ救いはあっただろう。しかし王族では、望みは皆無だ。
『サキ』という魔力を持たない者が次代の王に嫁ぐわけにはいかないのだ。そんな事をしてしまえば、ようやくもとの姿を取り戻しつつあるこの国を、再び混乱させる原因になってしまう。
国のために身を犠牲にしてきたレオンハルトのためにも、それだけは何としても避けたいのだ。
「私ではダメなんです……私では……っ」
この先の未来に光を見出だせない『サキ』ではダメなのだ。
「どうして……。サッちゃんだって殿下のこと――」
クランシエルの言葉はサキの涙を更に呼んだ。
本当は、気づくことなく王宮で生きていきたかった。レオンハルトとの約束を違えることがないように。
レオンハルトの隣に他の女が立とうと、傍で見守っていけるように。
「俺にはどうしてサッちゃんが拒んでるのか分からないけど……。殿下はその理由をご存じなのか?」
「昨日、話しました。後宮入りの話も取り下げてもらうよう頼みました……」
返事をもらう前に眠りに落ちてしまったので、まだ了承を得たわけではない。しかし魔力を持たないサキをそのまま後宮に入れておくわけがないのだ。話してしまった以上、近いうちにサキは後宮から出ることになるだろう。
もともと後宮には足を踏み入れたことがないので、生活自体は全く変わることはない。それでもきっと心は、淋しい、と涙を流すのだろう。
「ねえ、サッちゃん。もしかして俺と彼女のこと気にしてるの? もしそうなら――」
「違いますよ」
サキは袖口で涙を拭うと、赤くなった瞳をクランシエルに向けた。
「もともと後宮入りの話はお断わりしてたんです」
王宮から出ていたとき、迎えに来てくれたレオンハルトと後宮に入る入らないで少々揉めた。そして一向に引かないレオンハルトに、サキのほうが根負けしてしまったのだ。
あれ程我を通すとは予想していなかったサキは、収拾がつかない事態に承諾せざるを得なかった。
そうして承諾を得て満足したらしいレオンハルトを王宮に返し、サキはそれから半月後に王宮に戻った。
王宮に戻って来ると、レオンハルトは約束通り庭師を続けさせてくれた。それどころかサキの王宮での生活は何も変わらなかった。
決して無理強いせず、いつも隣にいてくれたレオンハルトの好意に、サキはずっと甘えていたのだ。これは束の間の幸せで、手放さなければならない場所なのだと知りつつも、それを先延ばしにしてしまった。
レオンハルトの隣は居心地がよくて離れがたかった。このままずっと隣にいたいと願ってしまった。
それは叶わないと、最初から分かっていたのに。
「私には……何もないから……っ」
サキは次第に嗚咽を漏らし、流れる涙を何度も手で拭った。
「……こんな自分、大嫌い……っ」
何もない自分がずっと嫌いだった。
全てを忘れ、全てを失くしたサキは、それから何も手に入れることはなかった。
思い出も居場所も自分のことも、全てを諦め手放し続けた。
そうするほうが、楽だった。
「一緒に……いたいのに……」
『レオンハルト』の事だけは諦めたくなかった。手放したくなかった。
ずっと隣にいたかった。
「サッちゃん……」
クランシエルの手がサキの頭を優しく撫でる。
気持ちは分かる。そう言って、しばらく黙って傍にいてくれた。
求めることは、こんなにも辛くて苦しいものだった。それを知った今、サキにはもう、諦める道しか残されてはいなかった。
「ねえ、サッちゃん」
少し落ち着きを取り戻したサキに、ふいにクランシエルから声がかけられる。
「明日休みになったんだよね?」
その確認に、サキは頷いた。
今朝、泣き腫らした酷い顔のまま厨房に立っていたサキに、アヴァンオスローから休暇の申し出があったのだ。たまには息抜きをしておいで、と言ってくれた騎士団長の優しさを、サキは有り難く受け取ることにしたのだ。
こんな気持ちのままではいけないのだと思っているサキは、その休暇の間に気持ちを切り替えようと考えていた。
「明日、俺とデートしようよ」
「ええ!?」
サキは驚きすぎて涙がピタリと止まってしまった。
いきなり何を言い出すのかと思い、驚いた表情のままクランシエルを見つめた。するとクランシエルはそれに微笑みを返してきた。
「明日は俺も非番なんだ。だから町の方まで一緒に行かない? 吹っ切ろうよ。お互いに、さ」
クランシエルはもうアデルリーデと手紙のやり取りをすることができない。それどころか、その事実が知られてしまった以上、クランシエルはこの王宮にはいられなくなるかもしれないのだ。
その結果を生んでしまったのは、他ならぬサキだった。
それなのに、クランシエルは元気づけようとしてくれているのだ。それが分かってしまったサキは、再び目に涙を溜めた。
「……ありがとうございます。是非、ご一緒させてください」
二人への罪悪感は、二度とこの心から消えることはないだろう。それだけの事を自分はしてしまったのだ。それでも優しく声をかけてくれるこの騎士に、何かしてあげられることはないだろうか。
サキは、明日の約束をクランシエルと交わすと、夕飯の準備をするべく、クランシエルと共に席を立った。




