意味のある無駄なこと
まだ日も昇らない早朝。サキは目を覚ますと寝台を出た。
欠伸をしながら身支度を整えると、ふと机の上の一輪ざしに目が行った。
この一輪ざしには今、何も活けられてはいない。
「今日は、何か持ってこようかな」
ふと力なく呟くと、サキは王宮に戻って来た時の一輪ざしを思い出した。
机の上に置かれた一輪ざしには、これでもかと花が活けてあったのだ。庭に咲いているその花々を一体誰が活けていたのかというのは、聞かなくても分かった。
毎日活けに来ていたのだろうかと思うと、それだけで心が温かくなった。
その花たちは全て押し花にしてとってある。その作業をしていた時間はとても幸せだった。
「さて、今日も頑張りますか」
サキはそう言って気合を入れると、小屋を出た。
まだ暗く、誰もいない王宮の庭を一人で歩いていたサキは、ふと人の姿を見つけた。サキの進行方向にいるその人影は、静かにそこに佇み、ずっと同じ方向を見つめていた。
このまま進めば、邪魔をしてしまうだろうかと思ったが、詰め所に行くにはこの道が一番の近道なのだ。少しでも早く朝食の用意をしなければならないサキは、他の道に回っている余裕はなかった。
邪魔をしないように通り過ぎようと決め、そのまま進んで行くと、人影もこちらに気づいたようで、ふと顔を向けてきた。
「お、おはようございます」
サキはとりあえず挨拶をした。挨拶は友好の第一歩だ。
「おはようございます。お早いのですね」
次第にはっきりしてくるその人物は、とても可愛らしい少女だった。
その服装は上等なものだと一目で分かったので、決して使用人ではないことはすぐに理解した。
「もう朝は冷え込みます。そんな薄着では風邪を引いてしまいますよ」
少女は絹のような素材の簡素なドレスに羽織を一枚だけ着ているというような格好だった。日中はまだ温かさが残っているとはいえ、朝晩の冷え込みは、もう冬の到来を思わせるほどだ。そんな格好では寒いだろうと、サキは心配になった。
「ありがとう。もう戻りますから」
少女は胸元に宛てた両手を寒そうに握りながら、先ほど見つめていた方向に再び視線を向けた。
そんな少女の様子を見つめていたサキは、ふと少女の胸元にある手が何かを握っている事に気がついた。
「……手紙?」
上質そうな白い封筒が確かに見える。サキはそれを確認すると、少女の視線の先に目をやった。
その先には、騎士の詰め所がある。
「もしかしてアデルリーデ様、ですか?」
少女はゆっくりこちらを向くと、淋しそうに微笑んだ。
「ええ」
まさかこんなところでアデルリーデに会うとは思っていなかったサキは、少々戸惑った。
昨日の事を思うと、できれば会いたくなかったと胸の奥で思った。会えばきっと、自分はその罪悪感で余計な事をしてしまう。それが分かっていても、出会ってしまったサキは口を開かずにはいられなかった。
「その手紙はクランシエルさんに宛てたものですか?」
「え……」
手紙を掴むアデルリーデの手にきゅっと力が入る。それを認めたサキは、やっぱり、と小さく息を吐いた。
「その手紙、私が届けましょう」
アデルリーデは後宮に入ってしまった。王の妃となる事が決まってしまったその身では、もう二度とクランシエルに手紙を出すことはできないのだ。それが分かっているからこそ、朝早くに自ら手紙を持ってこんなところまで来たのだろう。
「どうして、ご存じなのですか……?」
疑いの眼差しを向けられたサキは、申し訳なさそうな微笑みを返した。
疑う気持ちは最もだろう。たった今会ったばかりの人間に最大の秘め事を言い当てられれば、誰だって警戒する。
「クランシエルさんから聞きました。私は決して他言は致しません」
これだけ言えば、それでよかった。
クランシエルはアデルリーデの事をとても大切に想っている。そんな彼が、アデルリーデに不利益となることを進んですることはない。
それをきっとアデルリーデも知っている。
「あの方が信頼なされた方ならば、私も信じます」
アデルリーデはそう微笑むと、スッと手紙を手渡してきた。サキはそれを受け取ると、その手紙に視線を落とした。
「本当は、もう手紙を書くのは止めようと決めていたのです」
たとえ正式な後宮入りではなかったとしても、いずれは後宮に入らなければならない身の上だったのだ。抱いた淡い気持ちはここへ来ると同時に閉じ込めたのだと、アデルリーデは話してくれた。
「昨日、レオルヴィア殿下にお会いしたんです」
その名前にサキの心臓は跳ねた。
昨日の犬はアデルリーデの犬だった。その犬を返しに行った時に話をしたのだろう。しかしそれが分かっているのに、何を話したのかとても気になった。
「きっぱり言われてしまいました。私は側妃にすらなれないのだと」
サキはそれを黙って聞いていた。
正式ではなかったとしてもアデルリーデは後宮に入ったのだ。それなのにそんな事を面と向かって言われてしまっては、傷つくのは目に見えている。
それが分からないレオンハルトではないはずなのに、本当にそんな事を言ったのだろうか。
サキは、にわかには信じられない気持ちでアデルリーデを見つめた。
「私はそれを聞いた時、嬉しかったんです」
「……え?」
予想外の返答にサキは一瞬キョトンとしてしまう。そんなサキをアデルリーデは苦笑しながら見つめていた。
「レオルヴィア殿下には既に寵姫がいらした。ですから私は、ずっとクラン様を想い続けることができるのです」
本当に嬉しそうなその笑みは、サキの心にチクリと痛みを走らせた。
たとえ結ばれることが叶わなくても想い続ける事ができる。それがとても幸せなのだというように、それだけで満足なのだというように、彼女はその愛らしい顔を綻ばせていた。
そんなアデルリーデの笑顔が眩しすぎて、サキはそっと視線を落とした。
「その事を伝えたくて手紙を書いたのです。どうか、クラン様に届けてください」
受取った手紙には大切な気持ちがいっぱい詰まっているのだろう。それだけに、この手紙はとても重く感じた。
「お任せください。ですからアデルリーデ様はもうお戻りください。本当に風邪を引いてしまいます」
「ありがとう。もう戻ります」
アデルリーデはそう言うと、小走りに去っていった。
サキはそれを複雑な思いで見送った。
誰もが幸せになれればいいのだが、そんな方法はこの世に存在しない。
この手紙をクランシエルに届けても二人が結ばれることがないことは分かっている。しかしそれでも、この手紙を届けることは無駄ではないと思いたい。
これが、会うことすら叶わない二人のためにできる、精一杯のことだった。
朝食が終わり片づけも終わると、サキは勝手口から外に出た。そしてそこで待っていた人物に声をかける。
「お待たせしてすみません、クランシエルさん」
その声にクランシエルは、気にするなと微笑みを返してくれた。
「話って何? 昨日の事ならもう――」
「これを」
サキはクランシエルの言葉を遮り、預かった手紙を差し出した。
「これは?」
「アデルリーデ様からの手紙です」
クランシエルは驚きに目を見開き、サキを凝視していた。
サキは今朝アデルリーデに会った事をクランシエルに話した。
「私では、これが精一杯です」
これくらいしか出来ないのだ。しかしそれすらも余計な事なのではないかと心のどこかでは思っていた。
こんなことをすれば、悪戯に二人の気持ちを苦しめるだけなのではないかと不安になる。
「サッちゃん」
クランシエルは手紙を差し出すサキの手をそのまま握った。その手の強さにサキはクランシエルを見上げた。
「ありがとう……っ」
泣きそうなその微笑みは本当に嬉しそうに見えて、サキはよかったと思う反面、罪悪感が増した。
こんなことをしても誰も幸せにはなれない。
一時の幸せが、永劫の苦しみに変わることだってあるのだ。
サキはただ、そうならないことを祈ることしかできなかった。
「私はバカか……」
サキは手に持っている手紙に視線を落とし、長いため息を吐いた。
今日の仕事が全て終わり王宮に戻って来たサキは、現在後宮の庭に来ていた。
辺りはすっかり暗くなっており、外灯に灯されている火の光だけが辺りを淡く照らしている。
そんな中、サキは植え込みに隠れるようにして、辺りを窺いながら慎重に歩みを進めていく。
これでは完全に不審者だ。
サキは庭師なのだから堂々と進んで行けばいいのだが、こうして進んでいるのには訳があった。
後宮にはアデルリーデの犬がいる。それを考えると、後宮に近づくことすらしたくなかった。しかしそうも言ってはいられない。
「会えればいいけど……」
ため息を吐いて途方に暮れるサキは、ようやく後宮に建物の近くまでやって来た。そして一度持っている手紙を見つめると、自分のお節介心を呪った。
その手紙はクランシエルからアデルリーデへの手紙だった。
アデルリーデの手紙を渡した後、クランシエルからも手紙を届けて欲しいと頼まれてしまったのだ。それを断りきれなかったサキは、こうして後宮にまで足を運ぶことになってしまった。
犬がいるのに。
「犬……出て来ないでよ」
外から灯りが点いている部屋を確認する。しかし灯りが点いている部屋が予想以上に多かった。これでは部屋を絞ることができない。
サキはどうしたものかと悩んでいると、ふと二階にある窓が一つ開いた。サキは咄嗟に植木に身を隠したが、その窓から見えた人影を認めるとすぐさま植木の陰から飛び出した。
「アデルリーデ様」
努めて小声で叫んでみる。するとその声が届いたのか、アデルリーデが視線を落とした。サキはその視界に入るよう移動すると、アデルリーデと目があった。
「あ」
アデルリーデが口を開こうとするのを、サキは口元に指を立てる仕草で制した。
部屋の中には侍女たちがいるだろう。できればアデルリーデ以外には見つかりたくはない。
サキは持っていた手紙を分かるように少し持ち上げ、何をしに来たのかを示した。するとアデルリーデはすぐさまそれを理解し一つ頷きを返して来ると、再び部屋の中へと消えた。それを確認したサキは、アデルリーデが出てくるであろう後宮の出入り口に向かって足を進めた。
「それはあの方の手紙ですか?」
アデルリーデは少し息を弾ませながら、開口一番にそう聞いてきた。急いで来たらしい事が分かるその様子に、サキは何処か翳のある笑みを浮かべた。
「そうです」
サキはそう言うと、アデルリーデに手紙を渡した。それを受け取ったアデルリーデはその手紙を大事そうに両手で握ると、胸の前で抱いた。
その顔は本当に幸せそうだった。
それを見つめていたサキは、これでよかったのだと自分に言い聞かせ、浮かび上がる不安を押し込めた。
「もうお戻りください。怪しまれてしまいます」
「分かりました」
サキの言葉にアデルリーデは素直に頷いた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
アデルリーデは去り際に何度も礼を言いながら戻っていった。それを見送りながら、サキはその表情を切なげに歪めた。
「ごめんなさい……」
どっちつかずの状態のままではいけない。はっきりさせておかないといけない。そう思いながらも、それをする勇気が持てなかった。
サキは必ず後宮入りを取り下げてもらえる事実を持っている。それを告げればいいだけの話なのだ。何も難しいことはない。
あの二人が互いの事情を認めているように、自分も認めなくてはいけないのだ。
あの二人のように、想うだけでいいと思えるだろうか。あの優しい温もりを手放せるだろうか。
そうして、アデルリーデの姿が完全に見えなくなると、サキも踵を返し、足早に後宮を去った。
走り去るサキの背中を、一人の人影が静かに見送っていた。
「あまり深入りすると怪我をしますよ」
外灯の灯りに照らされて浮かび上がるその人影は、外灯の光を受けて幻想的に煌めいている灰白色の長い髪を風に遊ばせ、二藍の瞳でサキの姿が見えなくなるまで見つめていた。
「『花姫』様」
人影は小さく呟くと、サキが消えた暗闇をしばし見つめていた。




