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紺碧の書 ~アトランティスの幽霊船~  作者: 蒼十海水
第二章【蟻地獄と呼ばれた島】
8/18

【Story.07】

ほかほかと暖かな湯気が、銀製の深皿から立ち昇っている。

その皿を満たしているのは、海鮮類やトマトペースト、それに採りたてのキノコで彩られた具沢山のスープだった。

それは先程、アクアとフレアが船のせま苦しい厨房を借りて作ったものだ。

今も青年の横ではすでに、レイス船長が上品な音を立ててスープを啜っている。


「…で、何が不満なんですかー。」


先程から一向にスープに手をつけようとしない青年に、痺れを切らしたアクアが尋ねる。彼は別に嫌いな物が入っているとか、そういう表情すらもしてはいなかった。

ただ、出された物に対して何の反応も示さないだけだ。勿論アクアの問いかけにも答えようとはしない。


「美味しいよ。あっさりしてて。」


怪我人だから、気分が悪いとでも思っているのだろうか。さり気なくフォローを入れる船長の言葉にも、青年は微動だにしない。その顔色といい怪我の状況といい、体が少しでも栄養を欲しているのは明らかなのに。

このままではまた、いつ倒れられてもおかしくないという周囲の反応も、本人はどこ吹く風だった。


「俺は葡萄酒さえあれば…。」


「それは飲み物!!主食にはなりません~!!」


そしてようやく口を開いたかと思えば、こんな事を平然と言ってのける。

いい加減、口に無理やり突っ込んでやろうかとアクアがいきり立っていると、青年の横に座ったフレアが、問題の皿をすっと自分の方へと引き寄せた。


「姫…?」


そんなフレア姫の行動に、席を立ちかけていたアクアが目を丸くする。見れば船長も、今は手を止めて事の成り行きを見守っている様子だった。

フレアは青年の為に用意されたスプーンを手に取ると、何の躊躇いもなくそれを使い、スープを口にする。

断わっておくが、姫とアクアは先程すでに、一足早い夕食を終えていた。

これは、また口移しでもしてしまうのかとハラハラ状況を見守るアクアだったが、今回はそんなことも無いようだ。

フレアは何度かスープを口にすると、中身を掬い直し、今度は青年の口元へ向かって差し出した。


「…。」


当の本人は動かない。どうせ、また先程のように無反応を決め込むつもりなのだろうと、その場に居る大多数の者達は考えていた。

次の瞬間、青年が差し出されたスープを口にするまでは。


「ええええええ―――!! 食べたっ…!?」


「へえ…」


続けて彼は二口、三口とスープを味わい、やがてフレアからスプーンを受け取る。

そんな相手の行動がまったく理解できないアクアは、訝しげな反応をすることしか出来なかった。

確かに、フレア姫に「あ~ん」なんてされたら、自分ならどんな凶悪な物体でも食べる自信はあるが…。それにしても、青年が同じ思考を持ち合わせているとは考えにくい。


「ね、美味しいでしょ。」


「…ああ。」


「毒なんか入ってないよ?」


「そのようだな。」


―――なるほど。そんな二人の会話を聞いて、周囲はようやく事の顛末を知ったようだった。

ようするに青年は警戒していたのだ。自分の皿に、スプーンに、毒物の類が混入されていないかを。


「でも、好意で出された物は無下にも出来ないから、困ってたんでしょ。」


さらりと言うレイス船長。こちらは、もしかしたら青年の考えも少しは予想していたのかもしれなかった。

それでも、船長自身は何のためらいもなくスープに口をつけている。

何と言うか、これに関してだけは"毒なんぞ"でこの船長がどうにかなりっこないとか、そんな確信に近い予感がした。それは船長に限らず、船員たちにも言えることだが。


(はいはい、そーですか。そういうわけでしたか。)


ただ、アクアからしてみれば、多少やるせない気分になってしまうのも仕方のないことかもしれない。

そういう背景を考えてみると、無理に食べさせようとした自分の方が悪者に思えてくるのだ。

そうならそうと初めから言ってくれれば…いや、言わないことが青年なりの誠意だったらしいが。

それでも毒を疑われたことに関しては、不思議と腹も立たなかった。誰が、という訳ではない。こういう物に警戒するべき立場の者は、すべての状況すら疑ってかからねばならないからだ。それは自分も、幼い頃より姫の傍で学んできている。きてはいるのだが…


「あ、アクアがいじけてる…。」


「机の下にもぐって犬撫でてるよ。」


「狼のフレキだ。敵では無いと認識すれば、襲いはしない。」


飼い主と違って、こちらは真っ先になついてきた狼に、アクアはもう目の前の癒しを求めて撫でるしかない。

そんな光景を見て、流石に少しは悪いと思ったのか、青年が狼の名前を口にした。

途端、見守っていた周囲の男達が微かにざわめき出す。

…というか、ペットより先に自分の身元を明かせと。


「狼のフレキ君は分かったけど、あなたのお名前は?」


『ナイス!! 姫さん!!』


「…オーディンだ。別に隠すほどの名でもない。」


淡々とスープを口に運ぶ青年・オーディンは、どうやら船員達からは孤高の存在というか…懐かない犬扱いされているようで。それでも、その殺気に似た冷たい視線と、超一級品の整った顔立ちと謎多き風貌が相まり、皆興味はある様子だった。

それは船長が仲間だと認めてからすでに、フレア姫が男達のアイドル的存在となっているのと同じことかもしれない。

一方で、すでに何の隔たりも無く男達と打ち解けているアクアはきっと、新入りAくらいのものだろう。


「オーディン…北の方の神の名前だね。」


「で、さっきから窓の外にとまってる二匹の鴉は?」


「フギンとムニン。」


「すげ、鴉にも名前あんだ!?」


ここは船内にある食堂だが、壁には窓も取り付けられている。そんな窓の外に二羽の鴉が大人しく止まっているのを見て、皆パンの欠片だのを窓の隙間から投げている最中だった。どこまでも面倒見の良い連中だ。

まあ、会話の成り立つ人そのものが少ないから、それ以外にも自然とそうなるのかもしれないが。


「じゃ、俺達持ち場に戻るから、皿洗いよろしくな~新入り。」


「あーはいはい。やらせて頂きますとも。」


アクアは投げやりに返事をすると、ようやく机の下からもぞもぞと這い出す。

部屋にはすでに、姫と船長とオーディンの三人の姿しかなかった。ペットは別として。


「アクア、私も手伝うよ。」


「いえ、姫は…そこのわんこ達に着いててあげて下さい。一応怪我人もいるし。」


どうやら、アクアの中では(フレキ)が主体に切り替わったらしく、オーディンの方は"わんこの飼い主"程度の認識にしたようだ。その方が円滑な人間関係を築けると踏んだのだろうか。


その事にいち早く気付いたフレアは、ここでは苦笑するしかなかった。








+++++



夕食の後、という気の抜けやすい時間帯だからだろうか。本来なら夜に最も真価を発揮するこのアトラス号も、今の船内は静かで、耳を澄ますと豪快ないびきすら聞こえてくる。

―――さて、どうするか。

これからの段取りをぽつぽつと考えつつ、ある人物を求めて厨房へ行ってみたはいいが、片付けはとっくに終わっている様子だった。

灯りを着け、一応食事台の下まで覗いてみたが、酒のつまみにチーズをかじりに来た骸骨と目があっただけだ。

仕方なく食堂を後にすると、甲板へと続く階段を上がっていく。やがて階段の終わりに差しかかり、上に通じる扉を開くと、真っ先に視界に飛び込んできたのは満天の星空だった。

海上や街の停泊場ではもっぱら霧に包まれるこの船は、こんな風に夜空を眺めることが出来るのも、人気の無い無人島くらいだ。


(とは言っても、それも船の防御システムのうちなんだけど。)


古代文明都市アトランティスの遺産であるこの船には、通常の海賊船には無い、便利すぎるシステムがいくつか組み込まれている。

これまで渡ったどんな危険な海でも沈まずにやってこれたのは、海神が齎した幸運でも冥府の力でもない。滅びた文明の力だ。

とはいえ、流石にこんな島を出るには、一筋縄ではいかないらしい。

アントリオン島。自分が引き継いだ膨大な航海日誌の中には、確かにそんな島の伝承も残されていた。

"決して出ることの敵わぬ島"とか"大海の蟻地獄"とか。―――馬鹿馬鹿しい。そんなことを書き記すより、具体的に試してみた脱出方法を記しておけば良いのに。


「―――アクア。」


船内よりも静かな甲板を進んでいくと、船首に近い辺りに彼女は立っていた。

夜の闇によく溶ける黒髪。腰に携えた細剣。―――自分が探していた人物だ。

彼女は前方に広がる果てなき海を眺めたまま、振り向くことはしなかった。ただ小さく返事をした後に、すっとある場所を指さす。


「あそこ、潮の流れが変わってる。」


「へえ、夜目が利く方なんだね。確かに、この島の周りは大分変な流れだ。」


そのままアクアと一緒に潮の流れを観察していると、先程まで穏やかだった海面が急に渦巻き始めた。かと思えば今まで波が荒かった辺りが急に穏やかになったりと、相変わらずの異常な変化ぶりが見て取れる。

副船長(サフラン)の話によると、どこへどんな風に船を出しても、結局は島に引き寄せられてしまうらしい。

それも、そんな流れは相当広い範囲で起こっており、まず脱出ルートは特定できないとのことだった。


「おまけに、今日は"偽星"が多い。星の位置で方角は読めないね。」


「そうなの?俺は元々星なんかあてにしないからなあ。」


この海には、海賊に限らず"世界を渡る者達"を惑わすものが、いくつか存在する。

それは美しい歌声で男達を惑わすセイレーンだったり、霧で視界を遮るゴースト達だったりするが、あの"偽星"もまた然り。熟練の航海士ですら手を焼く、夜空に留まる偽りの光なのだ。

だからこそ、本来ならば羅針盤やコンパスの役割が重要になってくる。


「で、どんな感じかな。出れそう?」


「……レイス船長。」


先程も確認したが、相変わらずコンパスはぐるぐると回り続けたままだ。

すでにいつでも出港できる準備は整っているが、今はもう、彼女の合図を待つしかない。


「今なら、出れる。出港しよう!!」


まるで悪戯っ子のように目を輝かせ、アクアがはっきりと告げる。

こんな絶望的に近い状況の中で、それは信じられない程の前向きな力だった。

それを疑う余地など、ありはしない。


「起きろお前ら!―――さあ、出港の準備だ!!」


闇にまどろんでいた存在達が、ざわり、と一斉に目を覚ましていく。

瞬きする程の間に甲板に出現したのは、冥府の海賊達だった。

オオオォォン――――と、風の唸りにも似た魍魎(もうりょう)達の声が響き渡る。

ばさりと夜空に踊る大きな帆は、海風を受けて瞬時に膨れ上がっていった。


船が、動き出す。


アクアを連れだって移動した船の後方に、舵を取る舵輪をしなやかに回せば、それは導くように手によく馴染む。

なるほど。こんな夜は船の調子も良く、気持ち良い航海になることがほとんどだった。


「東…あっちの方に向かって。…少しずつ外側へ行くように、島の周りを半周してく感じで。」


それが彼女の癖だろうか。東と言った瞬間に、額に指をあてる仕草が見えた。

言われた通り船を出すと、アトラス号はまるで生きる意志を持つかのように自然と進んでいく。

船の動きに気付いたのだろう。この時ようやくフレア姫とオーディンも甲板へ上ってきた。


「アクア、君は方角が分かるみたいだね。」


「誰にでも、一つくらいは特技があるんですよ。せんちょーv」


自分は伝承の類は話し半分で聞く方だが、古の海龍の血を継ぐ人魚たちは、体内に羅針盤のような能力を持つとされている。

また、ごく稀に方角が分かるとされる魚の群れに出会うこともあるが、今アクアが行っているのは、それに近いものなのかもしれない。


(一つくらい…か。)


「次。前方の渦を左に避けて、そのまま更に9時の方向へ!」


「了解。」


どこかイキイキと感じる声が、耳に心地良い。

こんなことを言えば船員達にまた冷やかされそうだが、それでも、自分がこれを"待って"いたのも事実だった。


「レイス船長! アクア! あそこ、違う船が島に近づいていってる。」


「気の毒だけど、今は他に構ってる余裕は無いね。」


「でも…胸がちょっとだけざわざわする。何か…」


「―――フレア姫。祈ってて下さい。」


「この船が、無事に島の海域から出られるように。」…と、そう言うアクアの口調は初めて、少しの緊張を含んでいるように聞こえた。

見ると自分達が来た方角で、中々の大きさの帆船が島の流れによって引き寄せられている。

遠くの甲板に点々と灯る松明で船の輪郭が照らされ、ぼんやりとそれが海賊船であることが分かった。

フレア姫に"祈れ"と言っていたのは、彼女(アクア )が先日言っていた"海龍様の加護"というやつだろうか。

確かにそれも、島を出る為の一つの要素だと聞いた気がする。


「…そういえば島の怪物って、結局は大ダコのことだったのか?」


「さあ。イカも居るかもしれねえけど。」


島に引き込まれていく新たな船を眺めながら、自分達が外へ向かっていることに安心しているのか、副船長達がそんな風に呟いている。

"海"が大きく揺れたのは、そんな時だった。


「うわぁっ…!! あれは…!?」


この船にすら、どぉん、どぉん…!と伝わってくる振動は、最初の一撃の余波に過ぎなかった。

今も"その方角"から来る波に、船は大きく揺れてしまっている。


―――そうか。確かにこれは、不可欠すぎる要因だ。


「アントリオン…。あれで幼虫ってんだから、恐ろしすぎるよね。」


アクアの声が、静かになった甲板によく響く。

次の瞬間、見守っていた遠くの海賊船は巨大な昆虫のアゴに囲われ、その船体をバムンッ!!と挟まれていた。

海面からそれだけ突き出た顎は鎌のようにしなっており、"餌"となった船体をがっちりと捉えると、海の中へと引き摺り込んでいく。

名前の由来となった普通の昆虫の方は、自らの消化液を獲物の体内に注入して、内臓を溶かした後体液を吸うらしいが…。あの船の乗組員達の結末は、考えたくもない。ざっと見ただけでも、最初の一撃で全滅だ。


「お前ら、ぼーっと見学してるな!9時の方角だ!!全速力!!」


『Aye, sir!!』


加護とか慈悲とか、そんなものは考えたことも無いが、今だけは神様にでも祈りたい気分だった。

あんなのに挟まれたら、この船だってひとたまりもない筈だ。


「よく統率が取れてる。良い船だな。」


「オーディン、起きてて大丈夫なの?」


「今ので目が覚めた。」


先程の揺れに体が反応していたのだろうか、触れていた腰の剣から手を離したオーディンに、アクアが問いかける。

それでも彼は、言葉ほど動揺はしていない様子だった。

ふと、初めて会った時の光景がよみがえる。

オーディンは何らかの方法で雷を四散させたようにも見えたが、あれは剣技か何かだろうか。それとも、落ちた直後にわざわざそこに移動しただけだと―――?

その辺りのことは、いつか本人に聞いてみたい。いずれにせよ、今はこの島から離れるのが先決だ。


「中々、癖のあるのが揃ってきたね。…これなら…。」


「あ、船長、何か悪だくみ?」








+++++



地平線の向こうが微かに白ずんできている。それに気付いた時、ようやくあの島を出ることに成功したのだと実感が沸いてきた。

あれから島の領域を慎重に抜け出し、西の大陸へ向けて出発した訳だが、また油断すれば来た時の海流に流されてしまうのではないかと、不安は消えない。

結局島が見えなくなってからも、しばらくは落ち着かない感じが続いていた。

それは甲板に居た皆も同じようで、中には作業の途中で眠りこんでしまった者達も居る。

見れば今だ悠々と舵を取る船長の足元でも、アクアが座り込んでうとうとと頭を揺らしている所だった。


「ようやく落ち着いたみたいだな。」


「怪我人は、もっと早くに寝てても良かったけど。」


掛けられた声に後ろを向けば、舵取り場の柵に寄りかかったオーディンがいる。

彼は懐から取り出した琥珀色の瓶を呷ると、それを手の中で数度揺らした。あれは…彼の言う葡萄酒だろうか。

その動作を自然と目で追っていると、チャプンと音を鳴らし、蓋が閉められた瓶が鮮やかに宙を舞った。

それは次の瞬間には、レイス船長の手の平に収まることとなる。どうやら先程瓶を揺らしたのは、それを聞くための合図だったようだ。

―――男の人って、なんでそういう時は息が合うんだろう。ちょっとかっこいいというか、羨ましい気もするが。


「オーディン、また顔色悪くなってない?」


「平気だ。別に傷口が開いたわけじゃない。」


空が段々と明るくなってきたせいか、今はオーディンの表情も良く見える。

すぐに彼の前にしゃがんで覗き込むと、うっすらと額に汗が滲んでいることに気付いた。

無理もない。彼は昨日まで重体だった身だ。本来ならまだまだ、安静にしているべきだろう。

熱を測る為にその額に手を当ててみると、やはり熱が出ているようだった。


「…凄い熱。部屋に戻ろう。」


「そうしなよ。あの個室は君だけしか使わないし、今はゆっくり休むといい。」


レイス船長の言葉通り、早速彼を連れて船室へ行こうと手を伸ばすと、私の手は借りずに立ちあがったオーディンは、ゆっくりとメインデッキの方へ降りていった。

たぶん、休んではくれるのだろうが、私の手はあまり借りたくないらしい。

もしも聞いてみたなら、「女の手は借りない」とか言いそうだが、それは今更のような気もした。


「ちゃんと横になって寝るまで、離れないから。」


「…好きにしろ。」


―――まったく。素直じゃないんだから。

そんなことを思いながらもよろけた体を支えてあげると、その拍子に顔が間近に寄り、ふっ…と彼の息が耳に掛かった。

やはり、吐く息も少し熱い気がする。


「酒に酔ったとか、そんな馬鹿な言いわけはしないでね。」


「するか。あれは主食だ。」


「…もっと馬鹿な事言ってる。」


夕食の後にも一度使った部屋だが、隅には作り付けのベッドが置かれており、先程部屋を飛び出した時のまま寝具が乱れた状態になっている。

それを手早く直すと、壁に身を預けていたオーディンを誘導していく。彼は怪我に響かないようにと配慮していたこっちの気も知らず、ぼふっとベッドに倒れこむと、そのまま動かなくなってしまった。


(もう、うつ伏せとか…)


これが思ったより柔らかいベッドだから良かったものの、傷口が開いたらと思うと気が気ではない。

たぶん、今まで彼なりに気を張り、大分無理をしてきたのだろう。こうして倒れるように眠りこんでしまうその様を見ていると、よほど疲れる生き方をしているんじゃないかと、心配になってくる自分もいた。

それでもアクアや船長からしてみれば、私もそんな風に見えるのかもしれないが…。それも私とオーディンが似ている所以だろうか。


呼吸で規則的に揺れる彼の背中を見届けていると、やはり傷が圧迫されていたのか、そのうち顔をしかめて仰向けになるオーディンの姿があった。

私は彼の布団をきっちりと掛け直すと、水盆に沈んでいた布切れを絞り、その額に乗せる。

できれば、この水も変えてきてあげたいのだが―――そこでふと、この船ではどれだけ水が貴重なのかが気になった。

そういえば調理の時なんかも、手伝ってくれた骸骨さんが結構ダバダバと水を使っていた気がする。

このアトラス号は大きな船だから、汲みあげる装置なんかも充実しているのかもしれないが、その辺りの事は素人なのでよく分からなかった。


(そもそも骸骨が動くこと自体、普通なら有り得ないんだけど…。)


この船には、まだまだ秘密が多すぎる。

一見普通の人間のように見える男達も、あの船長ですら、何か得体のしれない力を感じるのだ。

それでも良い人達という点においては、あまり疑わなくていい気がする。これに関しては感の領域を出ないのだが、レイス船長がアクアを見る目は、なんだか兄のように優しいし。船員たちも皆、航海することを心から楽しんでいるのは見ていて分かるからだ。

そんなことを考えながら、私は床に落ちていたオーディンの剣を立て掛け直し、放り投げられたマントを畳んでいく。

すると前足で器用にドアを開けたフレキが、静かに部屋の中へと入ってきた。

フレキも先程までは甲板の隅で眠りこんでいた筈だが、主人の様子を見に来たのだろうか。ベッドの淵に前足を掛けて覗き込む様は、なんだか可愛く見えてしまった。


「水、やっぱり変えてこようかな…。」


汗を掻いていたオーディンの顔と首元を拭い終えると、やはり水盆の水替えと、いつでも飲めるような水が欲しくなってしまう。

とりあえず主人である彼の事はフレキが見守っててくれるようなので、ちょっと調理場まで足を向けてみようかと思った。

―――そういえば、調理場はどちらの方向だっただろうか。





ゴウン…ゴウン…と、聞いたことのない可動音が辺りに響いている。

船底に近い位置にあるだろうこの部屋を埋めつくすのは、"機械"と呼ばれるような金属の組み合わせだった。

そんな部屋の中央には、赤い液体で満たされた巨大な柱が天井まで伸びている。


「何だろう、これ…。」


そもそも、厨房を目指していて何故ここに辿りついてしまったのかも分からない。それでも、気付いたら水盆だけを抱えてこの部屋を訪れていたのだ。何か不思議な導きでもあるのだろうか。


「…暖かい…?」


円柱状の水槽とも言えそうなそれに触れてみると、ほんのりと人の体温ほどに暖かく、コポコポと小さな気泡が沸き上がっていった。なんという、血のような毒々しい色合いだろうか。―――しかも私が触れた部分だけ、ほんのりと発光している。


「機関室に何の用かな?お姫様。」


聞こえた声に、びくりと体を竦ませる。

なんだろう、こんなことは滅多にないのに。まるで人の気配を感じなかった。


「レイス船長…。」


「見学は構わないけど、出来れば触らないで欲しかったな。」


「ごめんなさい。まだ船内のこと、よく分からなくて。」


慌てて手を離すと、発光していた場所が元通りの色に落ち着いていく。

ああは言っていたが、船長の口調はそれほど私の行動を咎めるものでもなかった。むしろどこか、事の成り行きを面白がるような雰囲気さえ湛えている。


「…アクアは…。」


「ああ、寝ちゃったから君達の部屋に運んできたよ。本当は俺の部屋に連れて行きたかったけど。」


冗談めいて言ってはいるが、この人の言葉だけは、どこまで本気か分からない。

表情だけなら明らかにオーディンの方が乏しいのに。何故だろう、考え方は船長の方が全然読めない気がした。

今もガラス細工のような冷たい青の瞳が、こちらを見据えている。片方は眼帯で隠されているとはいえ、それは片目で十分な程の存在感を持ち合わせていた。

アクアの瞳も同じ系統の青だが、彼女の方は穏やかな海の色だ。


「この赤い水が気になる?」


「それは、聞いて良いことなの?」


あの柱に触れた時、浮かんできた映像のカケラ。それはあながち、私と無関係ではないものの気がした。

―――見えたのは、赤い鱗と燃え盛る(ほのお)


「…本当は、知ってるんじゃないか。君はこの船の伝承を紡ぐことが出来る者なんだから。

 ねえ、南の大帝国・サザンクロスの姫君。」


「それは…。」


「"まだ言ってない"って? 残念ながら、このアトラス号と海賊団のことを語り継いでるのは、今じゃそこの王家くらいだよ。」


無意識に、助けを求める視線が扉の方へ行くが、残念ながら誰もこの部屋に来る気配はない。

―――そう、これから先、北の帝国アースガルズに行くとして、その航海が厳しいものになることは、きっと明らかだろう。だからこそ、いつかはそんなことを話す時も来るだろうとは思っていた。それが彼らに示せる誠意のひとつなのだから。

でも、こんな早くにして良い話なのだろうか。まだ目の前の人物を信じきれるかどうか、見定めきれていない。「船に乗せて欲しい」とか言っておいて、我ながら身勝手な話だが。


「でも…本当に、その柱のことも知らないんです。」


しどろもどろに答えると、レイス船長がふっと微笑む。

そんな表情を見て確信した。彼は恐らく、私以上に王家のことを―――知っていると。


「この船が、滅びた文明都市・アトランティスの遺産だって言ってたよね。」


「…はい。」


「じゃあ、何故その伝承がサザンクロスの王家に受け継がれていたかは、知ってる?」


「…王家の先祖が、文明遺物(オーパーツ)の一部を管理していたと…。」


城の学者以外とこんな話をするのは初めてだが、本来なら王家しか知りえない事実を、彼はどうして知っているのだろう。

アトランティスの子孫達はおろか、それを知る者でさえ、今では生き残っている筈が無いのに。

それにあの柱が何なのかも、まだ聞いてはいない。はぐらかされた…ようには思えないから、きっとすべては繋がっているのだろう。


「オーパーツの一部か…。俺には、そんな呼び方をするものには見えないけど。」


「私はそれが何なのかすら、知らされていません。」


「みたいだね。君の反応を見る限り。」


「…?」


かつてのサザンクロスの皇帝たちは、その文明遺産を何よりも恐れていたと聞くが―――

この船だって、そんな中の一つではないのだろうか。

私には、この船がそれほど怖いものとは思えない。

ならば何を持ってして、”関係者のすべてを葬り去る程の罪”を、歴代の皇帝たちは被ったのだろうか。


「この船の伝承に"失われた文明、アトランティスの遺産となるべき最後の方舟"…ってあったよね。

 正確には、オーパーツと呼べるほどの物はこの柱だけだよ。あとはすべて、中古の船を俺が改造しただけだから。」


「そう、なんですか…。」


しかし王宮にこんな柱があるという話は、聞いたことが無い。世界に散っていったという他のオーパーツの話も、今の王家より外部の学者達の方が詳しい位だ。もっともそれには、仮説や噂の類も含まれているだろうが。

それに、どうした所で先祖達の罪が消えることも無いと分かっているが、詳しいことすら知らされていない私達では、償う術を見つける事自体が困難なのだ。それほどにこの歴史は根深く、遠い過去にある。


「なんだか、訳が分からないって顔してるね。」


「実際、そうですから。」


「話は簡単だよ。君の願いに対する報酬も、そこに含まれてるから。」


なんだ。それなら、このまどろっこしい話もすべては報酬の駆け引きで。王家に対する恨みつらみの話ではないと、少し安心も出来る。

こうやって人を追い詰めるようにしか話せないのは、彼の癖だろうか。必要以上に警戒してしまった私も私だが。


「なんですか。」


「寄り道、するって言ったよね?」


私から聞きたいことだけを聞き出して、話をすべて自分の流れに持っていってしまう。

まったく、本当に侮れない船長だ。ある意味、味方のうちは頼りになるのだろうが。




「ちょっと、墓参りさせて貰っていいかな。

 行き先はアトランティス。今や冥府の都市と化した、この船のアジトだよ。」









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