【Story.05】
ゴロゴロと絶え間なく鳴り続ける雷。窓に叩きつけるように、ばしばしと降り注ぐ大雨。おまけに大きな波のせいで船は揺れるし、危険を察知して騒ぐ者達の声や足音が船内中に響いている。
よくまあ、これだけの状況で寝ていられるものだと、船長を起こしながら心の中でぼやくように呟いた。
そんな船長は今、ベッドから気だるそうに上半身だけを起こし、コンパスを覗きこんでいる。
「珍しいっすね。船長があんなに深い眠りにつくなんて。」
「んー…。そうだね。安心したってのもあるんだろうね。」
ひょっとしてまだ寝ぼけているのだろうか、この人は。昨夜はこの船を求めて現れた女二人のせいで、結構慌ただしい事になったというのに。
しかもその二人を拘束した上で、"安心した"とは…。首を傾げることはあっても、自分にレイス船長の思考は理解できない気がする。
それでも、この人の行動にはそれなりの理由があることを知っているからこそ、何も言うことはなかったが。
「どうです?方角は。」
「…見てみる?」
とりあえず、寝ぼけた状態から早く復帰して貰おうと、グラスに水を注ぎ、船長に手渡す。
その拍子に差し出されたコンパスを覗いてみると、そこには滅多に見られない光景が表れていた。
「でぇっ!?ぐるぐるしてる!!」
「うん、面白いくらい回ってるね。」
磁場の影響か、何かの怪現象か。見れば方位磁針は、自ら意志を持って混乱したような勢いで、ぐるぐると回り続けている。
これでは方位が分からないではないかと、不安げにレイス船長を見ると、彼はようやくのろのろと海図を取り出し、現在位置を把握しようとしていた。
「それで、あのアクアって子は、どこに向かってるって言ったの?」
「はあ、この地図で言うと、本来なら西の大陸を外側沿いに進んでるつもりだったんすけど…あの嬢ちゃんが言うには、途中からこう、更に西…左に向かって進んでるって…。」
こんな状況でも、船長がどことなくご機嫌に見えてしまうのは、気のせいだろうか。
―――いや、気のせいなんかじゃない。明らかに怪しい。
そもそも、普段の船長は間違っても、女に気を取られるような人間らしい人物ではないし、いつもならこんな事態になる前に、とっくに何らかの回避行動に移っていた筈だ。
それが、今日はどこか…視線に含まれる鋭さが無いというか、闇を背負う雰囲気が希薄になっている感じがする。
これは、普段が割と平穏なこの船にとっては、一大事だ。
「船長、色ボケですか。…っイテ!!」
「まずいな。この進路だとアントリオン島のアレに引っかかるんじゃないの?」
「お、さすが船長。確かにそう言ってましたね。」
思わず深刻なフリをしながら聞いてみると、船長にグラスの底で額を小突かれてしまう。
それをさすりながら誤魔化すように返事をすると、船長の小さな溜息が聞こえてきた。
先程アクアからアントリオンのことを聞いた時は、それが一番大変だと思っていたが、意外にも船長の変わりようの方が、乗員達へのやばいネタとしても最重要な気がする。
「…サフラン、お前あの島に行ったことあるか?」
「ないっす!たぶんカーキの方も無いと…船長は?」
「ないね。」
副船長・サフランとカーキ。何か兄弟のような名前の共通点を持った自分達だが、それぞれの目の色から名付けただけで、本名では無い。
本名はもう、とっくの昔に失われてしまったから―――。
だから今の自分達は、名前以外の存在ではなかった。それはレイス船長も他の乗員達も、ほとんど似たようなものだろう。
大事なのは、今。冥府の海賊団の一員として、日々を生き抜くことだ。
+++++
ザザ…ン、と引いては押し寄せる、心地良くも穏やかな波の音が聞こえる。
まだ眠る前の状況すら思い出せない中で、無意識に「ああ、もう大丈夫なんだ」と思い、このまま眠っていたい衝動に駆られた。
部屋の空気はひんやりとしているのに、傍に寄り添う温もりを感じる。…誰だろう。こんな風に誰かと眠るのは、久々な気がする。
けれど懐かしい。この温もりと呼吸の感覚を、自分は知っているのだ。
「…姫…。」
それが誰かを思い出した瞬間に、ぽつりと唇が動く。
次に重たい瞼を開けてみれば、隣に寄り添う人の紅茶色の髪が視界に映った。
窓から差し込む小さな光を受けて、それは赤がいっそう際立って見える。この赤は、サザンクロス帝国の国旗と同じ色なのだと、今更ながらに気が付いた。
アクアはまどろみながら、故郷である国のことを思い出す。
今までいくつもの場所に留まってきたが、故郷なんて呼べる場所は、自分にはあの皇宮しかなかった。六歳の時に海岸でフレア姫と年老いた侍女に拾われ、それ以来、皇宮内の城で騎士としての英才教育を受けて育ったのだ。
幸か不幸か、両親の顔は覚えていない。それどころか、白い砂浜に打ち上げられるまでの記憶が綺麗に消えてしまっていた。
だからこそ幼馴染である姫の傍に居るだけでも、無性に懐かしさを感じてしまう。昔もよくこうして、姫と剣の稽古をした後に、二人で昼寝をしたっけ…。
「アクア?」
「ほわっ!?…起きてたんですか?」
「今起きた。何か静かになったなと思って。」
欠伸でもしていたのだろうか、フレア姫の少し潤んだ瞳に覗きこまれ、弾みでドキンと心臓が高鳴る。
こんな所を見られたら、またあの副船長辺りにからかわれるかもしれないが、綺麗なものは綺麗だし、可愛いと思うものは可愛いのだ。…だから、今自分の頬が赤くなっているのも、決して可笑しなことではない筈。
―――副船長?そういえば自分達は、あの後閉じ込められて、船が危険な状況になって…
「そうだっ!!船はどうなっ…」
「…着いてるみたい。島に…。」
ようやくその事を思い出したアクアは、慌てて飛び起きると、この部屋唯一の窓にへばりついた。
窓の外を覗けば、そこには透き通る様な眩しい青を湛えた海と、太陽の恵みをたっぷり受けているような、緑豊かな大地が広がっている。
これだけ見ればまさに楽園とも呼べそうだが、その正体は蟻地獄の中心。決して侮れない魔の巣窟なのだ。
「―――ともあれ、これで奴らとの交渉手段ができましたね。」
「ん?」
「姫、今回は私に任せて貰えますか?」
数十分後。予想通りというかなんというか、二人は牢のような部屋から出され、船長室へと招かれていた。
部屋の出入り口である扉の前―――つまりアクア達の後ろに立つのは副船長の片割れで、他に船員達の姿は無い。
中央のテーブルには、大きな海図や方位磁石、真鍮製の航海計器などの道具類がごちゃごちゃと置かれている。その向かい側には船長が頬杖をついて座っており、相変わらずな笑顔を湛えていた。
「それで、出る方法はあるんだよね?」
彼は別に、牢に入れたことを詫びる様子もなく、二人の機嫌を取る訳でもない。軽くおはよう、とかいう挨拶は聞いた気がするが、その次に飛び出した言葉がこれだった。
―――まったくこの船長は。悪びれもせず、よくそんなことが聞けるものだ。
恐らくここを脱出することは、私達の望みでもあると思っているのだろう。だからこそ無条件で協力してくると、こうして一度捕えた者を無防備に放ったのだ。
「あります。実際私はこの島から生きて帰ったことがありますから。」
「へえ…、それは心強いね。」
不快感は表さぬまま、それでもきっぱりと言うアクアの言葉に、フレアも副船長も何故かハラハラとした様子で、両者の出方を窺っている。
船長の方はともかく、アクアの視線に火花が含まれていることは明白で。今はどちらかというと両者に協力して欲しい第三者側は、喧嘩しないでくれと願うことしかできなかった。
「この島を出る条件は、三つです。一つは、潮の満ち引きと流れを見極め、出るタイミング。もう一つは、正確な方向へと船を出すこと。」
口で言うのは容易いが、アクアの言っているそれは並みの操縦士や航海士では務まらない。ましてや机の上のコンパスは、相変わらずな混乱ぶりを見せていた。
これでは、今船が向いている方向すら分からない。しかも明確には把握できない島の〈渦〉から出るとなれば、リアルタイムで方向を示す物が必要になってくる筈だ。こうなってくると、いかに方位磁針が便利な物かを痛感させられる。
「まあ、その辺りの読みは俺達じゃ難しそうだね。―――で、最後の一つは?」
「海龍様の加護。」
ぶは、とアクアの後ろで副船長が吹き出す。それを渾身の力で睨みつけて、再び船長に視線を戻すと、意外にも彼は真面目に事を捉えている様子だった。
改めて、こうして明るい所で見てみると、レイス船長の目はサファイアのような深い青色をしている。それが冬の空を思わせる灰色の髪と相まって、中々のコントラストを生み出していた。姫の髪や目の色も好きだが、これはこれで良い組み合わせかもしれない。…単に好みの話だが。
「そっか。君はその難関をクリアできたから、島から出れたって訳だ。―――じゃあ、もちろん協力してくれるよね?」
「いえ、今回はご辞退させて頂きます。」
そして、珍しく予想通りの船長の言葉に、アクアはにっこりとした笑顔で言い放った。
瞬間、その背後の空気が凍りつき、副船長とフレアはまともに固まってしまう。
「私、考えたんです。こんな孤島でも姫と一緒なら幸せだし、前回の経験である程度の水場やなんかも覚えてますし。どうせなら、のんびり次の船が漂流してくるの待ってようかな~なんて。」
言いながら固まる姫を抱きよせ、ワザとらしいほど能天気な態度を演出してみせる。
そのフレアの背に隠れるようにして、アクアの手には奪ったばかりの銃が握られていた。
実は今しがた、フレアの隣に居た副船長を突き飛ばす様にして、この銃を奪い取ったのだ。
これぞ、賊専門の泥棒稼業をやっていた時に身に着けた手腕。ただ、やっていることが姫と出会う前と対して変わっていないというのが、悲しい所かもしれない。
「あっ…!俺の銃…。」
「さ、副船長。別に悪いことしないから、これと私の荷物、交換してくれませんか?」
「してるじゃねーか、すでに。」
「やだなあ。これが悪い事って言うなら、そっちは私達にもっとワルイコト、したよね?」
副船長が気付いた時にはすでに、その背に銃口が押し当てられている。アクアが撃鉄を起こすまでもなく、海賊側の二人からは戦意そのものが感じられなかった。
「失態だね、サフラン。」
「船長~…すいません…。」
「いいよ。返してあげな。船を降りるって言うなら、止めもしないし。」
一応断わっておくが、これは脅迫というより、あくまで海賊流儀の交渉だ。今現在、互いに血みどろの争いを好まない位置関係にあるからこそ、こういう芸当が出来る。
それに実際、自分が居なければこの船は島を出られないだろうという、確固たる自信もあった。
前回この島に来た時、必要な物が揃うまで滞在していた間に、この島の餌食となった船をいくつも知っている。
「ま、せいぜい海の怪物の餌食にならないように頑張って下さいね。あいつ陸には上がってきませんから、その辺はご安心を。」
「か、怪物っ!?マジかよ!!」
これで牢に入れられた分の借りは返したとばかりに、アクアは余裕の表情を作ってみせる。
だが、単に脅しただけではない。忠告としての意味合いも、そこにはちゃんと込められているのだ。
アントリオン―――蟻地獄の所以は、この引き寄せられる潮の流れだけではない。その中心には必ず、巣の主が存在する。
「ありがと、武器返してくれて。じゃね~!」
「えぇ!?ちょ、待っ…」
アクアは副船長から荷物を受け取ると、姫の手を取り、甲板へ続くドアを開け放った。
後ろではまだ、副船長が何か言っているようだったが、今の状態で聞く耳を持つ気は無い。ただ、船を降りようとする間にも、フレア姫から微妙な視線が注がれている事だけは、どうにも無視できなかった。
「アクア…。」
「大丈夫です。嘘はついてませんし、奴らが本当に姫を北へ導く者達なら、この位で切れる縁ではないと思います。」
生半可な結束で、あの北の中心へ行けるわけがない。これが本当に運命であるのなら、あの幽霊船は自分達と共に行くことになるだろうと―――アクアは行ったのは、一種の賭けでもあった。
今は、自分の目利きだけを信じて。
「船長~!!どうすんすかアレ。やっぱ怒ってましたよ!」
「え。怒ってたのあれ?俺には子供が拗ねてるように見えたけど。」
「似たようなもんでしょう!」
一方、こちらは取り残された男達。頼みの綱を失ったと嘆く副船長の傍らで、レイスはやけに落ち着いた素振りを見せている。―――別に、意地悪する為に閉じ込めていた訳ではないのだが、悪意があるように見えてしまったのだろうか。
「困ったな…。」
ふう、とささやかな溜息を吐いてみせる船長だが、その表情すら困っているように見えないのか、サフランが何か言いたげな顔でこちらを向いていた。
そういえば、昔から他愛ないことを考えている時に限って「船長、何か悪い事考えてますか?」とか言われたものだが、どうして彼らはそう思うのだろう。別に悪人顔、という訳ではないし、人間関係を円滑にする為の笑顔も身に着けたというのに。
「…とりあえず、俺も彼女達の後着いてくから。」
「えぇっ!?何言ってんすか、この状況で!」
言うが早いか、レイス船長は肩にコートを引っかけ、腰に銃や剣などを差して降りる準備を始めている。
そんな船長の腕を掴むサフランの目は、まるで「置いていかないで下さい」と訴えかけているかのようだった。
…その、こう言ってはなんだが―――気色悪い。
「でも、若い女二人をこんな孤島にほったらかしにはしておけないでしょ。もしかしたら、すでに漂着した海賊達が居るかもしれないし。」
あくまで視線を合わせようとはしない船長に、「いつからあんたはそんな紳士的になったんだ。」と心の中でぼやくサフラン。だが、こちらもあのお姫様達を心配する気持ちは、少なからずあった。それに同じ男である船長にそう言われてしまえば、腕を離さないわけにはいかない。
「じゃあ、俺達は何してればいいんすか。」
「怪物退治。」
「!?」
「嘘うそ。とりあえず本当に島から出れないかどうか、試してみて。」
最後に水の容器などが入った麻袋を背負うと、船長は微笑みながら、ひらひらと手を振って部屋を出て行こうとする。
しかし、それよりも一瞬早く言われたことの意味を理解したサフランは、再び船長の腕を掴んだ。
「それって結局、怪物出たらどうすんすか!?」
「…大砲でもぶちこんでやれ。」
思ったより気付くのが早い奴だ。という顔で、船長はやんわりと掴まれた腕を解く。そんな扱いにいい加減空しさを感じてきたサフランは、今度こそ、諦めた様子で船長を見送った。
「もし出れたら、そのまま置いてっちゃいますからね~!」
「はいはい。そしたらすぐに追いついて締め上げるから。」
「…船長が言うと、冗談に聞こえないんすよね…。」
甲板へ出ると、眩しいほどの青空に、浮島のような分厚い雲が浮かんでいるのが見える。すでに姿の見えなくなった船長はさておき、船の前方に広がる真っ白な砂浜には、真新しい足跡が二人分、森の方へ点々と続いていた。
この島が蟻地獄なんて場所でなければ、バカンス気分で楽しめるものを。―――そんなことを思いながら、サフランは船を動かす為の持ち場へと戻っていった。
今朝の朝食は、船長が居ない分ちょっと豪華にしてやろうとか、そんなことを思いながら。
+++++
―――誰かがつけて来ている。そう感じたのは、この鬱蒼とした森に入ってからしばらくのことだった。
状況から判断する限りでは、あのアトラス号の誰か。それなら心配することはないのだが、なんだろう、先程から胸騒ぎのようなものを感じる。
「どうしたんですか?姫。」
「ん…なんでもない。たぶん。」
少し先を歩いていたアクアが、私の方を振り返る。先程は船長の一件から拗ね気味だった彼女も、今は機嫌が直ったのか、むしろ楽しそうな雰囲気を湛えていた。
今私達は、そのアクアが言う"綺麗な水場"に向かって歩いている。まずは飲み水の確保と…あと、汗を掻いてしまったので、そろそろ水浴びなんかもしておきたかったからだ。
木々の隙間から見える空は、まばらに雲はあるものの、太陽が眩しく輝いている。
この自然の中は空気もとても清んでいていて、状況はともかく、環境としては悪くないものだった。この不思議な感覚がなければの話だが。
「疲れましたか?」
「ううん、違う。何か…変な感じがして。」
胸が熱い。何か、大事なことが私を待っている気がする。―――そう思った瞬間だった。背後から、やんわりと声が掛けられたのは。
「どうしたの?」
「あ~!!船長!!」
まるで宿敵を見つけた猫みたいに、威嚇オーラ丸出しのアクアは、庇うように私を抱きしめてくる。
「そんなに警戒しなくても…。これでも心配して着いて来たんだけど?」
「えー…。そ、それなら…。う~ん、でも怪しいなぁ…。」
その間もレイス船長は、なんとかアクアの警戒を解こうと、宥めながら近づいて来る。先程とは違い、困ったように笑う彼の様子から、今度は嘘はついていないようだった。
(…違う。この人じゃない。)
他に誰か、見つけなければならない人が居る気がして、私はその感覚を頼りに空を見上げていた。
―――何かが、起こる気がする。恐らくそれをきっかけに、私はその〈誰か〉と出会う事になるのだろう。
しばらくそうやって天を仰いでいると、やがて兆しは、ある二つの形で現れる事となった。
「うわっ…!」
耳をつんざくような、突然の落雷。それ程遠くもない場所で轟音と共に落ちた雷は、こんな晴れの日には唐突すぎて、やはりアクアも驚いて耳を塞いでいる。
途端、降り出したお天気雨。燦々と輝く太陽の下で大粒の雨が降り注ぐそれは、光を蓄えた宝石のスコールのようにも見えた。
「…来た。」
「え?え!?おおかみ??」
そして、次に草むらから姿を現したのは、一匹の狼だった。
いつもなら、その姿に恐れを抱いていただろうが、今は恐怖心など微塵も感じない。
この時の私は、不思議とこうなることを予想していて。気付けばアクアの腕の中から抜け出し、その狼が導く方へと駆け出していた。
「あれ、お友達?」
「違います!でも姫が着いていくってことは、たぶん何かあるんです!」
「ふーん…。」
必死に走っていく私の後ろから、レイス船長とアクアの声が聞こえてくる。…良かった。どうやら二人も一緒に来てくれたようだ。
(ごめん、突然こんな行動とって。)
今は、そう心の中で謝ることしかできない。私は自分の中で急げ急げと湧き上がってくる衝動のままに、先を急ぐことにした。
灰色の狼は迷うことなく、どこかへ向かっている。それは先程、空に見えた光の筋…雷が落ちた方角だった。
「見えた!―――誰か、人が倒れてる。」
「えぇ!?まさかさっきの雷に打たれて…」
「そうではないみたいだよ。焦げてないし。」
ようやく辿り着いた場所には、焼け焦げた一本の大木が佇んでおり、それを囲むように放射状の黒線が大地に刻まれている。
そんな木の根元に寄り掛かった人物はぴくりとも動かないまま、降り注ぐ雨粒にその身を晒していた。
「良かった。この人…生きてるみたい。」
〈彼〉は黒い髪に紺色の服、ボロボロの大きな布を纏っていて、近くで見ると怖いくらい綺麗な顔だちをしている。それでもごつっとした首元や目元の凛々しい印象が、彼が男だということを表していた。
先に着いた狼はやはりこの人物の使いだったようで、今は心配そうにその頭を擦り寄せている。
「わ。このわんこ可愛いv」
「そっち!?ダメだよ。下手に手出したら噛まれるから。」
私がその青年の頬に手を当て、呼吸などを確認している間も後ろは賑やかで、レイス船長がアクアをたしなめる様な声が聞こえてくる。
それらの会話を耳に入れながらも、青年の容体を調べてみると、右肩と左のわき腹に深い傷を負っていることが分かった。
私は腕に巻いていた装飾用の紐を使い、すぐに青年の肩の止血を試みる。もう一方のわき腹の傷は、後ろからアクアが差し出してくれた布を使い、強く巻きつけることしか出来なかった。
「この人、貧血かな。…脱水症状も起こしてるかも知れない。」
パラパラと落ちてくるこの雨が、彼の喉を癒してくれればいいのに。―――と、そんな事を思ってみても、木に寄りかかる青年の顔は俯いたままで、水滴は肌の表面を通っていくだけだった。その唇は青白く、どこか痛々しい印象さえ受ける。
「彼女、医療の心得でもあるの?」
「いや、どちらかというと感覚で相手の症状を読んでるというか…。気のヒーリングとかも出来るみたいですけど。」
「へえ。」
言いながらも、レイス船長は状況を理解しているらしく、肩に掛けていた麻袋から水の入った瓶を取り出すと、私に差し出してくれた。
それを受け取った私は、迷わず蓋を取り、自分の口へと水を流し込む。
もう、手段なんか選んではいられない。―――ただ目の前の人物を救いたくて、必死だった。
「っ…!フレア姫!?」
驚くアクアの声すらも、どこか遠くて。私は俯く青年の頬を手で包み込むと、確実に飲めるようにと、口移しで水を注ぎ込んだ。
こくん…と、青年の喉が微かに動く。
それを二・三度繰り返しただろうか、唇を離した時の青年の顔色は、先ほどよりも幾分良くなっているような気がした。
―――良かった。あとはちゃんと手当をして安静にしていれば、きっと助かるだろう。
「レイス船長…。」
「分かってるよ。とりあえず、さっき通ってきた水場まで運ぼうか。横に寝かすにしても、ここだと石とか根っこが邪魔だし。」
そう言うと船長は、青年の腕を自分の肩に掛け、ゆっくりと持ち上げる。私達はそのまま、来る途中に通り過ぎていた水場へと戻ることになった。
移動中、私達の後ろを先程の狼がとぼとぼと着いてくる。この子は人に…というより倒れていた青年に懐いているらしく、それを助ける私達にも危害を加えるそぶりはなかった。
「意外といいとこあるんだね。せんちょー。」
「見直してくれた?」
「うんうん。でもまだ信用はしない。」
「…。」
前方で平和な会話をしている二人だが、それでも軽率だとか思う事はない。彼らはあれでまた、場が深刻にならないように気を使っているつもりなのだ。
こうして運んでいる間にも、船長は青年の体をなるべく揺らさないようにしているのが伝わってきて、アクアもそんな船長の荷物を持ってあげたりと、自分に出来る範囲で協力している。
「けど、この人知り合いなんですか?姫。」
「ううん。まったくの初対面。」
「えっ!?」
「じゃあ、さっきのアレは見ず知らずの人間にしたんですか!?」と、そんなアクアの心の声が聞こえてくるようだった。
だって。とっさの判断だったし。意識なんかしてなかったし。…そうは考えてみるものの、改めて思い出すと、やはり少しは恥ずかしくなってくる。
「はい。着いたよ。」
「お、いつのまにか雨も止んでる…なんだったんでしょうねアレ。」
言われて始めて気付き、空を仰いでみれば、本当に雨が止んでいる。しかも、先程まであったぶ厚い雲も通り過ぎて行ったようで、今の空は晴天そのものだった。
そのことに安心して、地上へ視線を戻してみれば、茂みの向こうにさらさらと流れる湧水のような小川と、大きな岩に囲まれた泉の光景が広がっている。レイス船長はそんな中でなるべく平らな岩を探し出すと、そこへ青年を寝かせた。
「…う…。」
横たえた青年の口から、微かに声が漏れる。その反応に慌てて駆け寄ってみるが、目を覚ました訳ではなさそうだった。
今彼は、荒い呼吸をただただ繰り返している。傷が熱を持ってきているのか、触れた額は通常よりも熱かった。
「アクア、これ…濡らしてきてくれる?」
「はい。」
そう言うと私は、腕に巻いていたアームカバーを外し、アクアに手渡す。
何かこの青年のことに関して彼女はもの言いたげだが、今はそんな状況ではないと、本人も分かってくれているようだった。
アクアは手際良く小川から戻ると、濡れた布を手渡してくれる。それを青年の額に当てると、私はその横にきちんと座り直した。
まず、深く息を吐いて呼吸を整えながら、自分の掌に向かって意識を収集させる。
すると体中の気が手に集まっていくように光が灯り、それを青年の体に触れさせると、やがて彼の全身がほのかに輝きを帯びていった。
「すごいな、これは…。」
「治癒の力ってやつですね。…って、しー!船長静かに。」
「(…アクアの方が声おっきいと思うけど?)」
―――お願い。この人の容態が落ち着きますように。
そう心の中で祈りを捧げていると、まるでそれに応えてくれるように、彼の体内から新たな力の波動を感じた。
この人はもしかしたら、私より強い力を持っているのかもしれない。
自分と凄く近い系統の者。その意味に気付いた私は、不思議と心が満ち溢れていくような、暖かな感覚を覚えていた。
私は、一人じゃなかった。…やっと会えたね。