第5話 おやすみDJ。 その1
月日が流れれば個人の世界は否応なしに変化していくものである。付き合う人間、住む場所、する仕事、趣味、読む本、見る番組、聞く音楽、寝るベッド……。習慣が人間を作り、環境が人間を変えてゆく。
ずっと同じ環境に人は長くいられない。それは、僕がさして長くない人生の中で、それでも身に染みて感じた、現実的な教訓だった。
そして、僕はその長くはいられない環境の中で――、青春をしていた。
得難い友たちと、一生のうちに二度とは訪れないような、素晴らしい青春を送った。
のんちゃん、DJ、リョーコ、ハル、まー君、みちるさん、ついでにカフカ。
彼らと過ごした日々は、何物にも代えがたい僕の一生の宝だった。しかし、そんな宝物のような、愛おしい日々こそが、無情にも目の前をあっという間に過ぎ去っていき、そして引きとめることのできないものであると、僕はそれをはっきりと失ってしまってから気付いたのだった。もとはといえば、早く作家になって世に出て、「ワナビ荘」を出ていくことが僕らの共通の目標だったのだから、それは当然と言えば当然の流れであるの、だけれど。
――気付けば。
僕一人が、「ワナビ荘」に取り残されていたのである。
「だからぁ~、俺はそういう努力とかを正当化するのが嫌いなんスよね。別に努力がいけないわけじゃなくて、努力そのものを評価して、みたいな風潮? あれが我慢ならないんス。なんていうか、どんな分野にしても結局は結果出してナンボ、だって思うんですけど」
ワナビ荘のリビングである。僕の目の前にいる彼は、黒川といって、まー君がいなくなった後に入ってきた新しいワナビ荘の住人だ。今もギターを片手に持ってかき鳴らしており、夢はシンガーソングライターだそうだ。それはけっこうな事なのだが、朝でも昼でも関係なく歌って弾いてという生活なので、はっきり言って相当うるさい。イライラする。この音から逃れるためにワナビ荘を出ることすら考えてしまうほどだ。
「それなら結果を出せばいいじゃないか……。そんなことをここでグダグダ言っていても何も始まらないぞ、それに努力はしないよりした方がいい、というだけの話だ。努力を認めるかどうかは個人の価値観によるものだ」
「うーん、優等生な解答っすねえ。正直、つまんないス」
僕は、よっぽど「君と会話している方がつまらないよ」と言ってやろうかと思った。僕の方が先輩に当たるので、一応自重はしたけれど。
まー君、のんちゃん、リョーコが出て行って、ハルやみちるさんも出入りしなくなってしまってから、ワナビ荘の雰囲気はがらりと変わった。まー君の代わりに黒川、リョーコの代わりに東田、のんちゃんの代わりに仁科という新しい「ワナビ」たちが入居してきたのだが、どうも、正直に言って、僕は彼らと反りが合わなかった。
東田は画家になりたいワナビだ。分厚いメガネをかけたいがぐり頭の青年で、毎日部屋にこもって、キャンバスと向き合っている。彼が通るといつも油絵の具のにおいがぷんぷん漂ってくる。一応料理や掃除当番は無難にこなすのだが、それだけなのである。積極的にコミュニケーションを取ろうとしてはこないし、基本的に無口で、何を考えているのかわからない。僕が話しかけても知らん顔でいることが多い。「今時の他人に無関心な若者」というやつかもしれない。
そして仁科は、芸能人になりたい女性のワナビであった。子どものときに子役として映画に出演したことがあるとかで、それ以来「女優」を肩書にしているというが、よく聞くと出演作はそれだけのようだった。しかも、その作品は興行的にはコケているので、あまり出演した旨みもない。
だが、本人はそこでちやほやされてしまい、さらに運悪くもそれが当たり前だと誤解してしまったのだろう、いわゆる女王様体質になってしまったのだ。顔が綺麗なせいで周囲の男子からはよくモテたし、女優業はできずとも周りにちやほやされながらここまで来てしまったため、勘違いから覚めなかった、覚めるチャンスの得られなかった不幸なケースだ。ワナビ荘でも「ちょっと、靴を揃えておいて」だとか「私の分の夕食当番、誰か代わってよ」などとワガママを言っては誰にも相手にされず、機嫌を悪くしている。
まあ、そんな感じで――、ワナビ荘の中は、それまでのメンバーの頃とは一転し、一気に雰囲気が悪くなってしまったというわけである。
しかし、そんなメンバー相手にも、DJの態度はそれまでと全く変わらなかった。僕はこれには素直に感服した。DJくらいの年の人から見ると、前のメンバーも今のメンバーも、同じ「子ども」とでも映っているのだろうか。いずれにせよ、DJは僕が思っていた以上に器のでかい男らしいと知ることになった。
「ほーら、仁科、何やってるの。脱いだものをその辺に置いといたらダーメ。きちんと洗濯籠にまとめなさい。ほら、下着もちゃんと整えて。女の子でしょ」(DJは女の子の裸を見ても眉一つ動かさない強者だ。単に彼から見たら子どもの裸も同然だからなのか、それとも異性に興味がないのか。おそらく両方だ)
「黒川、今日は食事当番でしょう。例外は許されないわよ、たとえ音楽の神が下りていようが何だろうが、食事の準備は欠かさずやらないといけないの。さもないと、音楽の神はおろか、グレートスピリッツにまで見離されちゃうのよ。食べる、というのは他社の命を食らう行為。そしてグレートスピリッツは全ての命の根源なのよ」(わかるようなわからないような文句だ。さしもの黒川も、DJお得意の「グレートスピリッツ」が出てくると、煙に巻かれざるをえない)
「東田、あんたはちょっと愛想が悪過ぎるわ。芸術家には愛想はいらない、っていう方針なのかもしれないけれど、せめて同居人に対してはきちんと受け答えができるようにならないといけないわね。ようし、あとでじっくりと会話の練習よ。今夜あたしの部屋にくるよーに」(この後東田がどうなったか誰も知る者はなかった……。(嘘))
かように、DJはなかなかに態度の悪い――というか、かなり自分勝手な入居者たちに対しても根気よく説教し、叱り、語りかけ、改善させようとした。だが、彼らはそれをうっとうしがったり、無視したり、いずれにせよ真面目に聞こうとするものはほとんどいなかった。
僕はそんな光景を目の当たりにして、なんだか悲しくなってしまった。こんなにも優しいDJの好意を素直に受け入れられないだなんて、なんてつまらない連中なんだろう。こういうとき、のんちゃんやリョーコやまー君なら、どんな風に反応しただろう、ここからどんな面白い会話が生まれていただろう、ここからどんなドラマが生まれていただろう――、そう夢想せずにはいられなかった。明らかに以前のワナビ荘の住人たちの方が、クリエイティブな才能を携えていた、と思う。そういったことは、こうした日常の一ページ、会話の端々にもうかがえるのだった。彼らは、生活の中野一瞬一瞬に、その口から放つ一言一言に、僕たちとの交流のひとつひとつ、その全てに――何かを生み出していた。
僕の、前の住人の方が良かった、という想いは、口に出さずとも態度の端々には現れていたのだろう、ある日の夕食時、僕は些細な事で黒川と喧嘩になってしまった。
「俺、いっつも思うンスよね。どうして望月先輩は俺たちに対するとき、不満そうな顔ばっかりするのかー、って。気付いたんですけど、ひょっとして、悔しいんじゃないスか?」
「悔しい……?」
テーブルを挟んでの会話である。僕のことを好意的に思っていないらしい黒川が、妙に突っかかってきたのだが、僕は不覚にもそれに乗ってしまったのだ。虫の居所が悪かったせいかもしれない。
「いやー、だってそうじゃないスか。前にここにいたメンバーは、ほとんどが夢を叶えて、小説家になったり漫画家になったりしてデビューして出ていったんでしょう? 望月先輩の彼女さんも新しい夢を見つけたわけだし。そうなると、作家になりたいっていうレベルにとどまって、未だにくすぶってるのって先輩だけじゃないですか。結果、俺たちみたいに一周り若い連中と一緒になっちまって。悔しいンじゃないスか、内心」
「……てめえ、何をわかった風な口を聞いてるんだ」
僕はガタンと椅子から立ちあがる。ただでさえ会話もなく険悪だった食卓がさらに悪い方向に凍りついた。仁科はこちらをおびえたような目で見ているし、東田はいつも通りのまったくの無反応で黙々と食事を続けている。
「僕は、あいつらと一緒に作品を作ったり、夢を語り合ったり、イベントに出たり、そりゃもう、いろんなことをした。あいつらがいなかったら今の僕はない。あれだけの奴らだ、僕より先にデビューしたところで何の不思議もないし、僕があいつらにそんなに単純な嫉妬感情を抱くわけはない。……僕たちはお互いに尊重し合い、高め合える仲間だったんだ。お前たちと一緒にするな」
「それこそ失礼ッスねえ。先輩こそ、俺たちの何を知ってるっていうんですか。謝ってくださいよ。それに、そんなにいい仲間たちがいたんなら、そいつらについて出ていけばよかったじゃないスか。どうしてここに居続けるんです? ……ああ、ひょっとしてあれスか。夢を叶えられなかった者同士、DJさんと傷の舐め合いってところですか」
「……いい加減にしろこの野郎!」
僕はテーブル越しに黒川に掴みかかった。お互い我慢の限界に来ていたのだろう、「上等っすよ、やってやろうじゃないすか!」と黒川も応戦して食卓は滅茶苦茶である。料理は床に落ち、食器が次々に砕けた。「きゃあっ」と仁科が悲鳴を上げる。
「何やっとるんじゃクラァ!」
キッチンからDJが鬼のような形相で現れた。掴み合ってもんどりうつ僕たちを認めると、DJは容赦なく僕たちの頭に鉄拳を食らわせた。ゴツン、という嫌な衝撃が頭の中に走る。激しい目眩がした。
とりあえず僕たちを大人しくさせたDJは状況を見て、何が起きたか簡単に把握したようだ。はぁっと溜め息をついて、
「……あんたたち、もうちょっと仲良くできないの? アタシは悲しいわ、ガキのケンカの仲裁役なんかやりたかないのよ。ココはみんながそれぞれに夢を叶える場所なのよ。足を引っぱり合っている時間なんて一秒でもあっていいの?」
「…………っ」
僕は何も言い返せずに、黙って俯くことしかできなかった。「あーあ、つまんねえ」そう言って部屋に引っ込んだ黒川はやけくその様にギターをかきならし始める。僕はひとり、割れた食器や料理を片付け始めた。かちゃ、かちゃと情けない音が食卓に響いた。
仁科と東田は、そんな僕を薄気味悪そうな目で見ていただけだった。手早く自分の分の食事を済ませると、さっさと自室へ戻ってしまう。こういうとき、のんちゃんたちだったらきっと片付けを手伝ってくれたのになぁ……、などと過去のメンバーを思い出すと、自分のみじめさが余計に際立ち、涙がにじんでくるのだった。
カチャ。
そのときようやく、一人だけ僕を手伝ってくれる大きい手が横から差し伸べられた
「手伝うわよ」
DJだった。DJは僕に笑いかけると、ぶちまけられた自分の作った料理を、嫌な顔一つせずに、新聞紙で包むとゴミ袋に放り込む。
「DJ……」
そこまでが限界だった。僕は、情けない、恥ずかしいと思いながらも、ぽろぽろと涙を流してしまった。
Djは何も言わずに、僕の頭にやさしく手を置いてくれた。大きく、無骨で、温かい手。僕はその手の大きさになんだか安心してしまって、気が済むまで声を殺して泣いた。心の中には、いつかのワナビ荘の、わいわいとした賑わいが、彼らの声が、何度も繰り返し響いていた。




