第4話 うらぶれ案山子は月夜に吠える その11
(もっちー、どう? あたし、間に合った? 終わっちゃった?)
(しっ。今、始まったところ。ちょうどよかったね)
(ええっ、あれがのんちゃんなの!? 別人にしか見えなかった……。あの子、あんなに上手かったの?)
リョーコが会場に戻ってくる。ほどなくして、DJが(手早く柳田という子を絞め上げた上で)会場入りした。こうして、ワナビ荘のメンバーが勢ぞろいしたわけである。
もし本番でのんちゃんがつっかえるようなら、ちょっとくらい応援のセリフを飛ばしてもいいだろうか、などといろいろと画策していた僕たちだったが、現実には、全員が口をポカンと開けてのんちゃんの姿に見入るだけだった。ステージ上で演技するのんちゃんは、まるで女優のように輝いており、その姿はもはや神々しくすらあった。
課題演技を一度も間違えることなく終え、しなやかな動作でお辞儀をするのんちゃん。直前に急いで連れてきたリカちゃんも「先生、スゴイ……」と言葉が出ない様子だ。
そして自由演技の時間に入った。ここでの演目は基本的に自由であり、これまでの出場者はダンスや歌、既存の作品のセリフの演技や早口言葉など、いろいろなパフォーマンスに挑戦していた。総じてレベルは高い。
だが、のんちゃんは昨日、月の下で歌っていた「翼をください」を歌うはずだ。あれだけの歌声ならば、審査員の先生方も仰天するに違いない。僕はそう思い、期待に胸をときめかせながら、彼女が歌いだすのを待った。
――だが、すうっと息を吸ったのち、彼女が口に出したのは、まったく違うものだった。
「――今日は、誠に勝手ですが、この場を借りてお礼を言いたい人たちがいます。私の人生を、……生き方を、変えてくれた人たちです」
ざわっ。
会場が一瞬ざわつく。こんな自由演技を行った参加者はこれまでに一人もいなかった。そもそも、これでは単なる語りであり、演技ではない。
だが、そんな雰囲気にも構うことなく、のんちゃんは淡々と続ける。
「まず、DJ。私がワナビ荘に入った時から、積極的に話しかけてくれて、たくさんいろんなことを教えてくれて――、料理とか掃除の仕方とか――、本当に、ありがとう。クラブでのDJも、大好きです。DJは、私にとっての――、第二のお父さん、です」
「お母さんでもいいのよ」
DJはそう壇上ののんちゃんに呼びかけ、少しだけ笑いが起きた。
「次に、リョーコさん……いつもいつも私に優しくしてくれて、ありがとう。あなたがいたから、私は本当に楽しく、BLや耽美な漫画の世界を知ることができた……」
「公の場でそういうことを言うな……」
がっくりとうなだれるリョーコである。
「そして、まー君、みちるさん。あなたたちのおかげで、たくさんモチベーションをもらうことができたし、幸せそうなあなたたちを見ていたら、私もたくさん幸せな気持ちになれた。ありがとう。ハルさんも、元気なあなたのおかげでワナビ荘がとっても明るくなった。あなたたちと漫画を一緒に描いたときは、正直徹夜は辛かったけど、凄く楽しかった。あんなに達成感を感じたのは、生まれて初めてだったかも。本当に、ありがとう」
突然の展開に面食らいつつも、会場は少しずつ静かになった。こういうドラマチックな展開は好きな人もいれば、くさい、と感じて好まない人もいるだろう。だが、結局はどちらでもいいと思う。ただ、彼女は、僕たちに感謝を告げたかっただけなのだろうから。
「リカちゃんも、私にとっては本当に大切な人の一人。あなたは昔の私に似ているの。あなたと話していると、昔の私と向き合っているような気持ちになって、それが凄くもどかしいときもあったんだけど、結果的にあなたのおかげで私はとても大きな成長をできたと思う。リカちゃん、本当にありがとう」
リカちゃんは、ガラス玉のような大きな目を見開いて、瞬きもせずにのんちゃんのことをじっと見つめていた。彼女の名前が呼ばれると、ほんの微かに、こくん、と頷くのがわかった。
「ついでに、この会場にいないけど、カフカ。私の話を聞いてくれて、ありがとう。あなたがいないと、ワナビ荘は、ワナビ荘らしくないよ。いてくれて、ありがとう」
そこまで言って、セリフを一区切りし――、のんちゃんは、ふうっと深呼吸をする。
「そして……、もっちー」
最後にのんちゃんは、僕の名前を呼んだ。……さて、いったいどう来る。僕は思わず身構えた。
「……もっちー、私をお嫁さんに、してください!」
……ガーン。
ざわざわ、ざわざわ。
そう来るか……、そう来るか。僕は周りの好奇の視線を一身に浴びているのを感じた。おいおい、どうするの……。なんだか気持ちだけが僕の肉体から逃避していくような、どこかぼんやりした気分で、人ごとのように僕は思った。
「もっちーのことが、大好きです! あなたのおかげで、私は好きな自分になれた! だから、だから、ずっとあなたを一緒にいたい! もっちー、私はあなたの、お嫁さんにしてくださいっ、お願いしますっ!」
最後あたりの助詞の使い方がおかしかった気がするが、もはやそんなところを指摘する気力は僕には残っていなかった。
周囲の観客は、僕がどう返事をするかじっと息を殺して見守っている。ええい、ままよ。もうどうにでもなれだ。僕はメガホンを口に当てると、投げやりな口調で、一言、
「ああ! 僕も愛してるよー! ぜひ僕のお嫁さんになってくれ、のんちゃーん!」
ぱち、ぱち、ぱち。
僕がそう告げた後に、まばらな拍手がどこからともなく起こった。ぱちぱちぱちぱち。やがてそれはさざ波のように広がっていった。ええい、くそったれ、恥ずかしいったらありゃしない。僕は思わずその場に顔を隠してうずくまってしまった。
「……嬉しい」
壇上ではのんちゃんが口を抑えて涙をいっぱいに溜めている。あー、泣くな泣くな、ますますどうしていいかわからなくなるじゃないか。こんなに恥をかかせやがって、あとでおしおきが必要だな。僕は思った。
しかしのんちゃん、すぐに姿勢を正すと、こほんと一つ咳払いして、
「……それでは、みなさんへの感謝の気持ちを込めて、歌います。『翼をください』」
ブーッ。
そこで演技終了のブザーが鳴った。出演者は速やかに退場。次の出演者が順番を待っているため、原則として延長は許されないのであった。
ぶーぶーと観客からブーイングが跳ぶ中、司会進行は平然として「それでは、エントリーナンバー11番」と次に進めてしまう。そしてやがて、何事もなかったかのようにコンクールはその後も流れていった。
さて、のんちゃんのパフォーマンスは成功だったのか、失敗だったのか。それは、見る人によっては成功とも映っただろうし、外しているとも映っただろう(小説だとこういう場面は感動的だが、現実においてはなかなか賛否両論な部分がある、というものである)。まあ、いずれにせよ、のんちゃんはやりたいことがやれたので満足そうな表情だったが。
後で聞いた話だが、この後、のんちゃんは舞台裏で、緊張が一気に解けたせいでへなへなとくずおれてしまい、そしてそれどころか、その場で眠ってしまったというのである。どれほどの勇気を絞り出してあれだけのパフォーマンスをしたというのか、察せられて余りあるというものだ。
まったくもって、本当に、可愛い奴である。