第4話 うらぶれ案山子は月夜に吠える その9
その日の夜のことである。
明日のコンクールに向けての壮行会も済ませ、のんちゃん応援グッズ(ハチマキ、タスキ、横断幕、メガホンなど。のんちゃんは予想以上に本格的に作られたそれらを見て引きつった顔をしていた)も無事製作を終了し、ワナビ荘の面々が寝静まった、日付の変わるくらいの時刻。空には丸い月がぽっかりと浮かんだ、明るい夜だった。
どうにも緊張と興奮から眠れずにいた僕は、キッチンにに水を飲みに向かった。すると、開け放した窓の外から、微かに、誰かが歌う細い声が聞こえてくるのだった。
(こんな夜中に、一体誰が……?)
びっくりするくらいに綺麗な声だ。まるで、テレビか何かでしか見たことがない、ソプラノ歌手のような……。僕は窓からそっと顔を出して覗き込む。洗濯物の干してある、さして広くもないワナビ荘の中庭。そこには果たして、夜空に向かって美しい歌声を惜しげもなく響かせる、寝巻姿ののんちゃんの姿があった。月の光を浴びて、彼女の姿は、まるで彫像のように青白く輝き――、その光景は、別世界の出来事であるかのような、現実離れした美しさを湛えていた。僕は息を呑んで彼女を見つめた。
今カカシの願い事が 叶うならば翼が欲しい
この背中に鳥のように 白い翼つけて下さい
この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみの無い自由な空へ 翼はためかせ行きたい
パチパチパチパチ……。
歌がやみ、月夜にはただ一つの拍手が鳴り渡った。のんちゃんはハッと振り返り、僕の姿を認めると、一気にかあっと頬を紅潮させた。
「いい歌だね。かかしの歌?」
「も、もっちーの……、バカ」
「キッチンにまで聞こえる声で歌ってたのはそっちじゃないか……。まあ、でも、おかげで安心した」
僕はサンダルを履いて中庭に降り立った。足下の土の感触が心地よい。
「こんなに、綺麗な声で歌えるんだもんね……。のんちゃんの声だってわからなかったよ。考えてみれば、僕はのんちゃんが演技をしているのは聞いていても、歌のトレーニングしているところをちゃんと見たことがなかった。そういう点で、僕はのんちゃんが声優としてどのくらい通用するのか、本当はちょっとだけ不安だったんだけど……、この実力なら十分すぎるくらいだよ、のんちゃん。今日のことも、全然影響ないみたいだね。自信持って行きなよ」
「で、でも……」
僕に話しかけられて、のんちゃんからは先ほどまでの異様なオーラは消失し、すっかりいつものおどおどしたのんちゃんに戻ってしまった。だけど、僕はそんな恥ずかしがるのんちゃんの様子に、どこか安心している自分にも気付いていた。
明日の声優コンクールには、課題演技の部と自由演技の部がある。課題演技の部では課題として出された台本を読み上げ、自由演技では三分間という時間の中で、何でもいいから「好きなように、声を使ったパフォーマンスをせよ」ということである。おそらくのんちゃんは、その自由演技で今の歌を歌うつもりなのだろう。
なぜ、カカシなのかはわからないけど……。まあ、そこにはきっとのんちゃんなりの理由があるのだろう。
「もっちー……」
のんちゃんは僕のシャツの胸のあたりをはっしと掴んで、体を預けてきた。僕はドキリとして――、どうしていいかわからなくなり、その場に棒立ちになるしかなかった。「ど、どうしたの」僕は震える声で尋ねる。するとのんちゃんは、「ううん」と小さな声を出し、ふるふるとかぶりをふった。のんちゃんの分厚いメガネが僕の胸に当たり、ごつごつという感触がした。
「ありがとう。もっちーのおかげで、頑張れる」
「あ、ああ。今日のこと? いや、結局僕には何もできなかったし……。そんな、お礼を言われることじゃ」
「ううん、今日だけのことじゃなくて。これまでのこと、全部」
そして背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめてくるのんちゃん。僕は――、頭にかあっと血が昇り、どうしていいかわからなかった僕は、そのまま、何がなんだかよくわからないまま、彼女の肩に手をかけた。こういうときって、どうすればいいの、どうすればいいの……。やわらかいのんちゃんの感触が伝わる。僕は、情けないくらいに震える自分の手を、どうにかこうにか、のんちゃんの背中まで回すことができた。
(う……うわあ、あの二人、大人の階段昇ってますねぇ……。い、いけないところ見ちゃってるみたい……、ドキドキします)
(馬鹿っ、声を出さない! 聞こえちゃうでしょ!)
「えっ?」
聞き慣れた声が頭上から流れてきたので、僕は上を振り仰いだ。そこには、庭で抱きあうというこっ恥ずかしい姿をしている僕たちを、しっかりと観察している二人の女の姿が! 言うまでもなく、それはハルとリョーコであった。
「ああっ……み、見られたっ」
「撤退! ハル隊員撤退です! お邪魔してすみませんでした、どうぞごゆっくりっ!」
勝手に騒いでぴしゃりと窓の中へと退散する二人。と言うかハル、リョーコの部屋に泊まってたのかよ……。
僕たちはなんとなくバツが悪くなって、体を少し離したまま目を逸らしてしまった。まだ腕が少し触れ合っているところがさらに気まずさを増幅させた。
「……ふふっ」
だけど、少しの沈黙ののち、意外にものんちゃんは嬉しそうに笑ったのだった。僕も釣られて笑ってしまう。そして僕たちは再び目を合わせる。彼女の目には、幸せの光が宿っていた。
「もう遅い。明日に備えて寝よう」
「うん、そうだね……。ねえ、もっちー」
「うん?」
僕たちはワナビ荘に引き返しながら、リョーコたちの部屋までは聞こえないように気をつけつつ、小声で会話。
「私、明日のコンクール、もしダメでも……、いいかなって、思ってる。ここまで色々な事があって、そして、いろんなつらいことを乗り越えて来られたから……。もう、昔の私じゃなくなったから。だから、もし明日結果が残せなくても、それでいいかな、って」
「ん……。そうか」
僕は頷いた。それでいいんだろう、と思う。誰も彼もが一番になれるわけじゃないけど、努力の過程で本人が変われたなら、その事実の方が、大切なんじゃないか。のんちゃんの姿を見ていると、そんな風にも思えてくるのだった。
その夜、僕たちはリビングのソファで寄り添うように眠った。もう、僕たちを冷やかそうとする誰かは現れなかった。僕たちはただ、お互いの体温を心地よく感じながら、これまでにないほどの深く安らかな眠りに落ちていった。