第4話 うらぶれ案山子は月夜に吠える その3
一通り騒いだのち、私はチラシをじっと見つめながら、ぐっと拳を固めて、こう言った。
「DJ、私、やっぱりやってみます。DJの言うとおり、自分の可能性を試さないとって、思い直しました。私、……私、本気で夢を叶えに行くつもりで、このコンクールに出てみます」
「あら、すごいじゃない! よく言ったわのんちゃん、またひとつ大人の階段を昇ったわね! やるからには応援するわ!」
「僕たちももちろん応援するぞ。頑張れよ、会場には見に行くぜ。本番でどもって恥かかないようにな」
「私も行きます! のんちゃん先輩の晴れ姿、楽しみにしてますー!」
「僕も楽しみですね。のんちゃんは自分では気付かないようですがベリーキュートでチャーミングな女の子です。自分を解放すれば、その魅力が表に出てくるものですよ」
「み、みんな大げさだな、どうせ予選落ちだって、えへへへ……」
そう言いながらもまんざらでもない気分の私であった。私が頑張ることで、これだけたくさんの、大切な仲間たちが、心から応援してくれる。そのことが、こんなにも、嬉しい。ほんの一年前の私なら考えられないことだった。
自分が変われるかもしれない。こんなチャンスを逃したくない。私の前には、光しか見えていなかった。自分を変えるという欲求は、これほどまでに人を突き動かすのか。それは、私自身にとっても、新鮮な感覚であった。
もっちーたちの期待に応えたい。その思いが、確実に、私を変えていったのだ。
私が声優学校での異変に気付いたのは、その日の昼休みが終わって、午後のトレーニングに向かおうと、下駄箱を覗き込んだときだった。
声優の専門学校では、一般的に、発声練習などの他に走りこみや柔軟体操といったスポーツトレーニングがある。全身を使って演技をするという点では、役者も声優も変わりはない。はじめの頃は日ごろの運動不足が響き、長時間のトレーニングについていけない私だったが、最近はようやく体ができてきて、トレーニングを完遂してもバテないようになってきた。
その日も私は下駄箱を覗いてトレーニングシューズに履き代えようとしていた。だが、「ありゃ?」と私は気付く。自分のトレーニングシューズが、無いのである。
どこかに置いてきたか……、私は自分の記憶をたぐりよせて思い出そうとする。昨日のトレーニングのときにちゃんとここへ戻したか、いや……、ここに戻さないとしたらどこに置くというのだ。他の場所に移す必然性がない。しかし……、そこで、ふと思いついて、玄関脇のゴミ箱に私は視線を移した。まさか。いや、本当にまさかとは思うが、一応、確認すべきことではある。この学校では依然も「そういう」事態が何度かあったと聞く。もちろん、この学校でなくとも、人間が集まる場所では、何かしらそれに類似した事態というのは起こるものだが……、しかし、私は冷静な思考とは裏腹に、自分の膝がガクガクと震え始めているのを感じていた。
かくして、そこに私のトレーニングシューズは捨てられていた。ご丁寧に、カッターで縦に横にといくつもの切り傷を作られて……。私ははっと口元を抑えた。ひゅうひゅう、と体の中を空気が巡っている音が聞こえる。額にじんわりと汗が吹き出してきた。
これほど――、これほど明確に他人から悪意を向けられたのは、実は初めての経験であった。これまではクラスからなんとなく無視され、なんとなくつまはじきにされ、なんとなく一人ぼっちになり――、そうして実につまらない学校生活を過ごしてきた私である。しかし、このようにはっきりと「いじめ」と呼ばれる行為を、言うなれば積極的に受けたことは、生まれて初めてだったのである。
これが――、人間の「悪意」。
子どもじみた、実にくだらない嫌がらせである。これをやった人間は精神年齢が著しく低い。スポーツシューズはもったいないが、今度からは常に持ち歩くようにすればいい、いちいちこんなくだらないことをする人間を相手に、傷ついてなどやる必要はない――、理屈ではそうわかっていても、私は胸の激しい動悸を抑えることができなかった。
心当たりならいくつかある、そしてこんなことをされる理由として思い当たることもいくつか――、ある。もともとネクラだった自分が急に明るくなり、友達も何人かでき、さらにスカウトの方にもよく話しかけられるようになった。それもすべてワナビ荘のみんなのおかげ。最近はもっちーもよく専門学校に彼女の様子を見に来てくれるようになった。ひょっとしたら、彼氏か何かと勘違いされるかもしれない、と淡い不安のような――同時に期待でもあるような――妙な気持ちを抱きつつ、私は毎回もっちーを出迎える。
でも、それだけで周りから見れば、「嫉妬」には十分すぎる理由になるではないか。あるいは「憎悪」。私自身、他人に対しかつて何度も抱いてきた感情である。
他人の目をきちんと意識して行動せず、「調子に乗った」――、これは自分のミスだ。
私はがくんと膝をついた。そうか、自分がしたのは悪いことだったのか、他人から見ると「むかつく」行為だったのか。私は妙なところで納得してしまった。そしてそれに今の今まで気付かなかった自分自身に腹が立った。
どうしよう――。これではとてもトレーニングには出られない。こんなボロボロの靴を履いて行ったところで、まともにトレーニングに参加できるはずもないし、ここは小中学校ではないのだから、講師や事務員に被害を訴えたところで、まともに犯人探しや叱責を行ってくれるとは思えない。その日、私は結局何もできずに、早退することにした。これまでは一度も休まず律儀に出席してきたトレーニングをサボって、である。
「あら、こんなに早い時間に帰ってきて、どうしたの。熱でもあるのかしら?」
「べ、べつにそういうわけではないです……」
心配して話しかけるDJにうまく答えられず、その日私は部屋でぼんやりして過ごした。