その日、神様が退職した
「神様を辞めるんですが、再就職の相談は、こちらでよろしいですか」
神様が来たのは、受付終了の一分前だった。
市の就労相談室は、駅前の古いビルの二階にある。コピー機は紙を二枚ずつ吸い込み、窓際の観葉植物は造花なのに、妙に元気がない。救えるものから救ったほうがいい職場だった。
私は、裏返しかけた『受付中』の札を元に戻した。
「どうぞ、お座りください」
薄い灰色の背広を着た男だった。
四十歳にも、六十歳にも見える。靴はきれいだったが、手ぶらだった。鞄も傘も持っていない。外は、昼過ぎからずっと雨が降っている。
私は相談用の椅子を少し引いた。
男はそこへ、静かに腰を下ろした。
「転職のご相談ですね」
「はい」
「現在のお仕事は」
「神様です」
「……もう少し、具体的にお願いします」
「人の祈りを聞いています」
私は相談記録の職種欄に、ひとまず『受付業務』と書いた。
「勤務先は」
「特には」
「在宅ですか」
「家はありません」
「では、お住まいのご相談も必要ですね」
男は、少しほっとしたような顔をした。
「信じてくださるんですか」
「まず、暮らしの状況を伺っています」
以前、前職は忍者だという人が来たことがある。
その人は最終的に、観光施設の舞台スタッフとして採用された。刀を回すのがうまかった。職歴は、こちらが驚くほど多様なのだ。
「退職日は決まっていますか」
「今日です。午後六時に」
「引き継ぎは」
「ありません」
「後任の方は」
「決まっていません」
私はペンを止めた。
忍者より難しいかもしれない。
「なぜ、六時なんですか」
「時間を決めないと、いつまでも辞められない気がしたので」
それは、妙にまともな答えだった。
壁の時計は午後五時を指した。受付終了の札を裏返す。衝立の向こうで、同僚が書類を揃える音がした。
「お名前を伺っても?」
「神様です」
「それはお仕事のお名前ですよね。ご本人のお名前をお願いします」
男は口を開き、それから、困ったように閉じた。
「ありません」
「一度も?」
「必要がなかったので。呼ぶ方は、大抵、用件からお話しになります」
確かに、そうかもしれなかった。
神様、お願いします。
神様、助けてください。
神様、どうして。
最後のものを、私はよく知っていた。
「では、お名前は後ほど考えましょう。希望する職種はありますか」
「まだ、わかりません」
「お持ちの資格は」
「ありません」
「得意なことは」
「話を聞くことです」
「苦手なことは」
男は、しばらく黙った。
「……聞いたあとに、何もできないことです」
私は初めて、用紙から顔を上げた。
男の両手は、膝の上に行儀よく並んでいた。
きれいな手だった。傷も、日焼けも、爪のささくれもない。
神様、どうか、ひどく面倒な人ではありませんように。
「面倒だとは、思います」
男が言った。
ペン先が、紙の上で止まった。
「いま、何て?」
「面倒だとは思います。申し訳ありません」
しばらく、コピー機の動く音だけがした。
「……私、口に出しましたか」
「いいえ」
「考えていることがわかるんですか」
「私に向けられた祈りや、呼びかけだけです」
冗談だと思いたかった。
男は私の名札を見て、それから、もう一度頭を下げた。
「相沢さんを訪ねてきました」
私の名前を知る方法など、いくらでもある。
窓口に電話をかければいい。市の広報にも、小さく写真が載ったことがある。
だから私は、確かめるために、胸の中で、この男へ呼びかけた。
何百回も繰り返した言葉で。
眠る前も、電車の中でも、病院の廊下でも。
とうとう、声にする力さえなくなるまで繰り返した、その言葉で。
神様。
私の残りを全部あげます。
一日も残さなくていいから。
だから、どうか、妹を。
男の表情が変わった。
「……覚えています」
私が身を乗り出すと、椅子の脚が床をひっかいた。
「だったら」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「どうして、助けてくれなかったんですか」
*
妹の栞は、二十四歳で死んだ。
大学を出て、働き始めたばかりだった。
冷蔵庫に貼った旅行のパンフレットには、まだ一か所も印がついていなかった。
よく笑う子だった、とは言いたくない。
機嫌の悪い日もあった。洗面台に髪の毛を残した。私のプリンを食べたうえに、証拠の容器を流しに放置するという、犯罪者として致命的な欠点があった。
唐揚げのレモンは、人に尋ねずに全部へかけた。
『かけていい?』
『もうかけてるじゃん』
『形式上の確認です』
病気になってからも、そういうところは変わらなかった。
変わったのは、私のほうだ。
退院したら。
元気になったら。
よくなったら、また。
会うたび、同じ言葉ばかり使うようになった。
いま目の前にいる妹と話しているはずなのに、私はいつも、まだ来ていない日へ妹を連れていこうとしていた。
最後に交わした会話もそうだった。
『退院したら、駅前の唐揚げ、食べに行こうね』
栞は、うん、と言った。
その三日後に死んだ。
病院からの電話を受けたとき、私はこの窓口にいた。
何度面接を受けても採用されないという男性が、帰りかけては戻り、帰りかけては戻っていた。
『また来てもいいんでしょうか』
その言葉に、もちろんです、と答えた。
鞄の中で、携帯が震えていた。
折り返したのは、十一分後だった。
電話は、栞が亡くなったことを知らせるものだった。
すぐに出たとしても、助けられたわけではない。
そんなことは、わかっている。
それでも私は、何度もあの十一分をやり直す。
鞄へ手を伸ばす。電話に出る。男性に断って、廊下へ出る。
その先を、どう変えたいのかはわからない。
ただ、妹がもういない世界で、妹がまだいるつもりで受け答えをしていた自分を、いまでも、うまく許せない。
「答えてください」
目の前の男は、逃げなかった。
逃げてほしかった気もする。
そうすれば、やっぱり嘘だったのだと思えた。
「聞いていたんでしょう。私、何でもするって言いましたよね」
「はい」
「何でもよかったんです。本当に。私が代わりになるんでも、何でも」
男が、膝の上の手を握った。
「私には、人の命を取り替えることはできません」
「病気を治すことは」
「できません」
「時間を戻すことは」
「できません」
あんまりだ、と思った。
「じゃあ、何ならできるんですか」
男は、ゆっくり顔を上げた。
「祈った人のことを、別の誰かに、少しだけ思い出してもらうことです」
意味がわからなかった。
「久しぶりに、あの人へ電話をしてみよう。最近顔を見ないから、寄ってみよう。そういうふうに、誰かの気にかかるよう、呼びかけることです」
「……それだけ?」
「それだけです。届かないことも、たくさんあります」
私は笑った。
笑うつもりはなかったのに、短い息が漏れた。
「ずいぶん、話が違いますね。世界を作ったり、運命を決めたりするんじゃないんですか」
「世界を作った覚えは、ありません」
「でも、神様なんでしょう」
「そう呼ばれています」
男は、否定のしようがないことを言うように答えた。
「人が、誰にも言えない願いを、それでも誰かに聞いてほしいと思うようになって。気がついたら、私は聞いていました。それより前のことは、知りません」
私たちはしばらく、机を挟んで座っていた。
もっと立派な理由があるのだと思っていた。
私には理解できない大きな計画や、どうしても避けられない決まりがあって、栞はそのために死んだのだと。
そんなものがあるなら、絶対に認めないつもりだった。
なのに、差し出されたのは、何もできなかったという答えだけだった。
「入院中、栞に会いに来てくれた人たちは、あなたが呼んだんですか」
「私が呼びかけた人も、いました」
「じゃあ、あの人たちが優しかったのも」
「いいえ」
そこで初めて、男ははっきりと言った。
「思い出すことと、会いに行くことは、別です」
栞の友達は、仕事帰りに遠回りして病院へ来ていた。
お隣のおばさんは、頼んでもいないのに、私の分まで煮物を作った。
看護師さんは、栞が嫌がる話をするとき、必ずベッドの横へ椅子を持ってきた。
あの人たちが使った時間も、疲れた足も、煮物の甘すぎる味も。
この人のものではなかった。
「何もできなかったなら」
私は机の縁を見たまま言った。
「せめて、できないって、言ってほしかった」
「……はい」
私は何度も、残りの人生を差し出した。
神様がそれでは足りないと言っているのかと思い、そのたびに、まだ何か手放せないかと考えた。
欲張らなければ。
いい姉でいれば。
祈り方を間違えなければ。
男は、私から目をそらさなかった。
それも、腹が立った。
「いまさら謝られたって、困ります」
「はい」
私は立ち上がり、給湯スペースへ行った。
紙コップを二つ出す。
一つでいいはずなのに、二つ出してしまった。
こういうときまで、仕事の手順が抜けない。
ぬるいお茶を入れて戻り、一つを男の前へ置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男が手を伸ばした。
その指は、紙コップを通り抜けた。
私は、見間違えたのだと思った。
もう一度、男が手を動かす。
白いコップの中へ、指がすっと入った。
お茶の表面は、揺れなかった。
「……何、それ」
「まだ、触れられないんです」
男は手を引っ込めた。
「神様でいるあいだは、物に触れる体がありません」
私は椅子へ視線を落とした。
「でも、座っているじゃないですか」
「そう見えるだけです。いま、ここにあるのは、私の姿だけなので」
相談用の椅子は、少し動くだけで軋む。
予算がつかず、もう何年も買い替えていなかった。
この人が来てから、その椅子は、一度も音を立てていなかった。
「今朝、辞めると決めてから、人に見えるようになりました。六時になったら、祈りは聞こえなくなって、普通の体になります」
「……辞めると、人間になるんですか」
「はい」
「また、神様に戻ることは」
「できません。もう、取り消すこともできません」
私は、机の上の手を見た。
傷のない、きれいな手。
傷がないのではなかった。
傷のつきようが、なかったのだ。
「人に触ったことも、ないんですか」
男は、首を横に振った。
*
同僚が、衝立の向こうから顔を出した。
「相沢さん、まだかかる?」
「もう少し。先に上がってください」
同僚は男に会釈をして、帰っていった。
男も深く頭を下げた。
廊下の足音が遠ざかってから、私は椅子を引き寄せた。
「どうして、私のところへ来たんですか」
男は、少しためらった。
「妹さんに、教えていただきました」
胸の奥が、小さく跳ねた。
「何を」
「ここを」
男は、私の手元の相談記録を見た。
「妹さんは、よく、私に怒っていました」
栞らしい、と思った。
認めたくなかったのに、そう思ってしまった。
「眠れない夜などに、話しかけられました。ある晩、こう言われたんです。『何もできない神様なんか、辞めちゃえば』と」
私は、顔を上げた。
「『うちの姉ちゃんに相談しなよ。市の就労相談室にいるから。あの人、仕事を探すの、うまいから』」
栞の声で、聞こえた気がした。
照れくさかった。
腹が立った。
たった一言でそんなふうになってしまう自分に、ますます腹が立った。
「あの子、そんなことまで」
「はい」
栞は私の仕事を、地味だと言っていた。
『毎日、人の履歴書を見てて楽しい?』
『別に、楽しむために見てないよ』
『姉ちゃんのも書こうか。特技、冷蔵庫の余り物で何とかする』
『わりと有用な特技だね』
『短所、何とかしすぎる』
男は、静かに続けた。
「そのあとで、『人間になったら、できること増えるかもよ』と」
私は、二つの紙コップを見た。
湯気はもう、出ていなかった。
「それで、辞めるんですか」
「それだけでは、ありません。でも、この一年、何度も思い出しました」
「一年も、迷っていたんですか」
男は、うなずいた。
「辞めたら、届かなくなる祈りがあるので。決めかけるたびに、誰かに呼ばれました。せめて、この人の話を聞いてからにしようと、思っていました」
私は壁の時計を見た。
時間を決めないと、いつまでも辞められない。
さっきの言葉が、少し違って聞こえた。
男は右手を開いて、閉じた。
「私は、近くにいるつもりでした。苦しい人のそばにも、怖がっている人のそばにも。けれど、そこにいると、相手にはわからないんです」
声が、少しかすれた。
「手を握ってほしいと言われたことは、数えきれないほどあります」
栞の手を思い出した。
病院のベッドで、私の指を握り返してきた手。
面会時間が終わって、私がほどいた手。
「妹も?」
男は、うなずいた。
私はしばらく、呼吸の仕方がわからなくなった。
紙コップを持ち上げた。
口まで運べず、戻した。
「……もっと早く、辞めてくれたらよかったのに」
男は何も言わなかった。
「そしたら、あの子の手、握れたじゃないですか」
「はい」
ただ、その一言だけだった。
私の言ったことが正しいかどうかを、争うつもりはないらしかった。
私は両手で顔を覆った。
奇跡なんて起こせない。
祈りには、届く保証もない。
それならもう少し早く、誰かに教えてもらいたかった。
けれど、教えられていたとしても、私は祈ったのだろう。
何も残っていないところで、それでも伸ばす手を、祈りと呼ぶのだとしたら。
「栞の」
指の隙間から、声が出た。
「最後の願いって、何だったんですか」
男は、すぐには答えなかった。
聞かなければよかった。
私の幸せを願っていたなんて言われたら、きっと、耐えられない。
私はこれから一生、妹の最後の願いにふさわしい幸せを探さなくてはいけなくなる。
「私に届いた、最後の祈りは」
男が言った。
「『まだ、死にたくない』でした」
私は顔から手を離した。
「……そうですか」
「はい」
栞は、死にたくなかった。
当たり前のことだった。
旅行に行きたかったし、唐揚げを食べたかった。
貸したお金を返す前に、また何か新しい服を買いたかったかもしれない。
病気の前みたいに、私に怒られたかったのかもしれない。
私のための立派な言葉を残すより、自分が生きることを願っていた。
「うん」
私は、誰にともなくうなずいた。
「そうだよね」
涙が落ちた。
男は、しばらく動かなかった。
それから、机の隅に置いてあるティッシュへ手を伸ばし、途中で止めた。
私は自分で箱を引き寄せた。
鼻をかむ音が、誰もいなくなった相談室に、やけに大きく響いた。
*
午後五時二十九分。
私は相談記録を引き寄せ、いくつかの欄を二重線で消した。
「続きを、聞いてもいいですか」
男が姿勢を正した。
「はい」
「人間になったら、どんな仕事をしたいですか」
「人を助けられる仕事を」
「それだと、少し広すぎます」
私はペンを持ち直した。
「それに、最初から、誰かを助けられなきゃいけないと思わなくてもいいです。まずは、暮らせることを考えましょう」
男は、意外なことを言われたような顔をした。
「希望する勤務時間は?」
「終わる時間があると、うれしいです」
「お休みは」
男が、私を見た。
「……休んでもいいんですか」
「休みは必要です」
私はそう答えた。
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
栞の入院中、私は有給休暇を小分けに使っていた。
もっと悪くなったときのために残しておこう、と思っていた。
残していた分は、葬儀のあとに使った。
「週に、二日くらいあるといいですね」
私は書いた。
休日、週二日希望。
「夜も、眠ってみたいです」
「それも書きましょう」
夜勤のない仕事を希望。
「それから」
男は紙をのぞき込み、ためらいながら言った。
「できないことは、できないと言ってもいいところがいいです」
少し考えてから、私は用紙の余白へ、困ったときに相談できる相手がいること、と書いた。
「何でもいい、より、ずっと探しやすくなりました」
「注文が多くありませんか」
「これは、あなたの希望を書く紙ですから」
男は、何度も用紙を見た。
そのあいだだけは、誰かの祈りを聞いている顔ではないように見えた。
「名前も」
男が言った。
「自分で、考えてみてもいいでしょうか」
「もちろんです」
「少し、時間がかかるかもしれません」
私は、空欄の横へ小さく書き添えた。
本人検討中。
それから電話を取り、連携している生活支援の団体へ連絡した。
住所がないこと。
身元を確認できるものを、何も持っていないこと。
今夜から、泊まれる場所が必要なこと。
担当者と話し、その夜を過ごす部屋を一つ確保してもらった。七時に本人を連れて行き、詳しい状況を相談することになった。
身元のことも、その先の暮らしも、すぐに解決すると約束できる話ではない。
でも、今夜の寝場所は決まった。
私は、施設までの道順を控えた。
「今日は、就職の話はここまでにしましょう。明日、住まいや身元のことを担当の方と相談しながら、順番に考えます」
「はい。ありがとうございました」
男は立ち上がった。
私は記録の控えを差し出しかけて、手を止めた。
まだ、持てないのだった。
「これは、私が預かっておきます」
男は、もう一度頭を下げた。
時計は、五時四十分を少し過ぎていた。
「七時に、さっきの施設へ行きます。場所は私が案内しますから」
「ありがとうございます」
男は、きちんと返事をした。
そのあとで、壁の時計を見た。
私も、見た。
あと二十分もすれば、この人は、濡れる体を持つ。
寒がったり、お腹をすかせたりするようになる。
「……ごはんも、食べたことないんですよね」
「はい」
私は自分の鞄を見た。
家の冷蔵庫には、昨日冷凍したごはんがある。
そのほかには、特に何もなかった。
「駅前に、食堂があるんです」
男は黙って、続きを待った。
「施設に行く前に、夕飯に付き合ってもらえますか」
「それも、お仕事ですか」
「いいえ」
言ってから、少し迷った。
その迷いごと、正直に付け加えた。
「私が、一人で食べたくないので」
*
一本の傘で、駅前まで歩いた。
男は雨に濡れなかったので、いまはまだ、傘を分ける必要はなかった。
それでも私は、少しだけ右へ寄せて持った。
交差点では救急車が通った。
男が、音の去ったほうを振り返った。
「いまも、聞こえるんですか」
男はうなずいた。
「たくさん?」
「はい」
青になった信号を、私たちは渡った。
「辞めないで、って言う人もいるんでしょうね」
「いると思います。辞めると知ったら」
「みんなには言っていないんですか」
「はい」
私は傘の柄を握り直した。
「私、あなたが辞めていいかどうかは、わかりません」
男は、黙っていた。
「栞のことも、まだ怒ってます」
「はい」
「今日の話を聞いたからって、全部、納得できたわけじゃないです」
「……はい」
次の信号で、足を止めた。
歩道の隅に、細い川のように雨水が流れていた。
男はそこを見下ろしながら、小さな声で言った。
「人間になるのが、怖いです」
私は男を見た。
「祈っている方は、痛がったり、空腹だったり、寒かったりします。私には、そのどれもわかりません。知っているだけで、わからないんです」
雨が、傘の上をたたいていた。
「私も、死ぬようになります」
「……そうですね」
「向いていなかったら、どうしようかと」
私は、少しだけ笑った。
「人間に?」
男は真剣な顔でうなずいた。
「私も、向いてるかどうか、まだわかりません」
私がそう答えると、男は驚いたようにこちらを見た。
そこで、信号が青に変わった。
*
食堂の引き戸は、最後のところで少し引っかかる。
強く引くと、厨房から「壊すなよ」と声が飛んでくる。
昔と同じだった。
「いらっしゃい。あら、久しぶり」
おばさんが私を見つけて、声を上げた。
一年前には何度も来た。
栞が入院してからは、持ち帰りを買ったこともある。私が食べるための弁当だったのに、栞の好きなおかずばかり選んだ。
「二人です」
「奥、空いてるよ」
私は窓際の席に座った。
栞と来たとき、妹はいつもこちら側を取った。
夏は暑いし冬は冷えるのに、窓際が好きだった。
男が、私の向かいに座った。
「唐揚げ定食、二つお願いします」
「はいよ。ごはんは普通でいい?」
「普通で」
男も、まねをするようにうなずいた。
私は鞄から、相談記録の控えを取り出した。
半分に折って、机の端へ置く。
店のテレビでは、誰かが商品の値段を当てていた。
厨房から油のはぜる音がした。
隣の席の二人連れが、明日は早く起きなければならない、という話をしていた。
午後五時五十九分。
「ここで、いいんですか」
私は尋ねた。
「何がでしょう」
「退職する場所」
男は店内を見回した。
壁の短冊メニュー。
冷水のポット。
先の少し欠けた箸立て。
それから、私を見た。
「はい」
男は、膝の上に手を並べた。
相談室に来たときと、同じように。
私は何か言おうとした。
お疲れさまでした、なのか。
ご苦労さまでした、なのか。
それとも、結局何もしてくれなかったじゃないか、なのか。
どれも、自分の気持ちを全部は言い表せなかった。
男の視線が、壁の時計へ動いた。
秒針が、上へ戻った。
「……時間です」
店では、何も起こらなかった。
電気はついたままだった。
テレビも消えなかった。
厨房のおじさんが、次の唐揚げを油へ入れた。
男はじっとしていた。
きし、と音がした。
向かいの椅子が、初めて、その人の重さを受け止めた。
「あ」
小さな声だった。
男は胸元へ手を当てた。
目を見開き、息を吸った。
肩が動いた。
灰色の背広が、かすかにこすれた。
男は、机へ手を伸ばした。
指先が、天板に触れた。
そこで、止まった。
爪の先を押しつけ、ゆっくりと、手のひらを広げていく。
「……触れます」
男が言った。
指で、木目をなぞる。
机の傷へ、爪をひっかける。
何かを確かめるように、自分の手を、もう一方の手で包む。
私は控えの用紙を、その手のそばへ押した。
男はつまみ上げた。
紙が、持ち上がった。
ただそれだけのことに、私は泣きそうになった。
男は、紙を大切そうに置いた。
次に、自分の手首へ指を当てた。
「動いています」
「脈です」
「はい。知っています」
男は笑いかけた。
けれど、うまく笑えなかった。
「これ、いつか止まるんですね」
私は、うなずいた。
男の指が、手首を強く押さえた。
息が少し速くなった。
「……怖いです」
私は、机の上へ手を出した。
「手、出してください」
男がこちらを見た。
「握っても、いいですか」
おそるおそる、手が差し出された。
私はそれを握った。
骨のある手だった。
少し冷たく、手のひらだけが汗ばんでいた。
握り返す力は、思っていたよりも弱かった。
「痛かったら、言ってください」
男は首を横に振った。
その手を離さずに、私は待った。
テレビの声と、食器の音がしていた。
やがて、向かいから、息を吐く音が聞こえた。
私は、目を閉じた。
どうか、もう少し、ここにいてください。
また、願ってしまった。
「……いま、何か祈りましたか」
男が尋ねた。
私は目を開けた。
「聞こえなかったんですか」
「もう、聞こえません」
不思議そうに、男は言った。
あれほどたくさんの願いが聞こえていた場所に、いまは食堂の音だけがあるのだろう。
「何を、お願いしたんですか」
私は、開きかけた口を一度閉じた。
それから、ちゃんと声にした。
「もう少し、一緒にいてくださいって」
男は、握っていた手に、ほんの少し力を込めた。
「います」
そして、厨房のほうを見た。
「唐揚げが、まだ来ていませんから」
私は笑った。
涙が一粒、こぼれたけれど、確かに笑った。
*
「はい、お待たせ。熱いから気をつけて」
おばさんが、二人分の定食を置いた。
白い湯気が上がっていた。
唐揚げの横には千切りのキャベツと、櫛形のレモン。
小皿の漬物まで、以前と同じだった。
向かいの人は、なかなか箸を使えなかった。
「使い方は、知っているんですが」
「知ってるのと、できるのは違いますよね」
私はスプーンとフォークを取ってもらった。
その人はスプーンでごはんを少し口へ運び、黙って、長いこと噛んでいた。
「どうですか」
「……わかりません」
「まずい?」
「違います」
もう一口、食べる。
「比べるものが、ありません」
私は、少し考えた。
「もう一口食べたいですか」
「はい」
「じゃあ、今のところ、いいんじゃないですか」
その人は真面目にうなずいた。
私はレモンを取った。
いつもの癖で、皿の上へ持っていき、途中で止めた。
「レモン、かけてもいいですか」
その人は黄色い切れ端を見た。
「かけると、どうなるんですか」
その質問がおかしくて、また笑ってしまった。
栞は、こんな聞き方をしなかった。
向かいに座っている人は、妹にはちっとも似ていない。
私は小皿へ唐揚げを一つ取り分け、それにだけレモンをかけた。
「両方、食べてみましょう」
その人は食べ比べ、長いこと悩んだ。
私はそのあいだに、自分の唐揚げを一つ食べた。
熱かった。
噛むと衣が割れて、口の中に肉汁が広がった。
ひどく、懐かしい味がした。
栞にも食べさせたかった。
そう思ったら、また泣けた。
向かいの人が、何か言いかけた。
けれど、やめた。
代わりに、机の端のティッシュを取って、私へ差し出した。
今度は、自分の手で。
「ありがとうございます」
私は受け取った。
悲しみが減ったのかどうかは、わからない。
栞は死んだままだし、最後の面会の日にも、電話が鳴る前にも戻れない。
私は明日も、腹を立てるのだろう。神様にも、自分にも、何事もなかったように動く電車にも。
ただ、目の前にごはんがあった。
向かいの人は、もう一枚ティッシュが必要かどうか、私の顔を見ていた。
私は首を横に振り、鼻をかんだ。
それから、箸を持った。
食事の途中、その人が空の茶碗をのぞき込んだ。
「まだ、食べたいんですが」
「おかわり、できますよ」
「どうすれば」
「あちらのおばさんに、言えばいいです」
その人は茶碗を持ったまま、少しためらった。
私は自分の茶碗も持ち上げた。
「私も、半分くらい頼もうかな」
向かいの人が、うなずいた。
窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。
店の時計は、六時二十四分を指していた。
その日、神様が退職した。
そして、私の向かいに座った人が、天井ではなく、カウンターの向こうへ声をかけた。
「ごはん、おかわりください」
お読みいただき、ありがとうございました。
「神様が退職する」という大きな出来事を、誰かの最初の晩ごはんとして書きたいと思いました。
世界が変わるのではなく、椅子が一度、軋む。
奇跡が起こるのではなく、ティッシュが一枚、手渡される。
この物語では、そういう小さなことを、大切にしています。
相沢にとって、この出会いが大切なものになったとしても、栞を亡くしてよかったことにはなりません。
悲しい出来事のすべてに、納得できる理由が見つかるわけでもないと思います。
それでも、悲しみが残ったまま、ごはんをおいしいと思う夜があっていい。
昨日と同じことを後悔しながら、明日の約束をしてもいい。
相沢には、そんな夕飯を食べてほしかったのです。
元神様の名前も、再就職先も、まだ決まっていません。
ただ、明日の午前十時に行く場所と、唐揚げにレモンはかけないという好みは決まりました。
人の願いを聞くばかりだった人の人生は、ひとまず、そこから始まります。
神様の退職と、二人の晩ごはんに、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




