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その日、神様が退職した

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/17

「神様を辞めるんですが、再就職の相談は、こちらでよろしいですか」


 神様が来たのは、受付終了の一分前だった。


 市の就労相談室は、駅前の古いビルの二階にある。コピー機は紙を二枚ずつ吸い込み、窓際の観葉植物は造花なのに、妙に元気がない。救えるものから救ったほうがいい職場だった。


 私は、裏返しかけた『受付中』の札を元に戻した。


「どうぞ、お座りください」


 薄い灰色の背広を着た男だった。

 四十歳にも、六十歳にも見える。靴はきれいだったが、手ぶらだった。鞄も傘も持っていない。外は、昼過ぎからずっと雨が降っている。


 私は相談用の椅子を少し引いた。

 男はそこへ、静かに腰を下ろした。


「転職のご相談ですね」

「はい」

「現在のお仕事は」

「神様です」

「……もう少し、具体的にお願いします」

「人の祈りを聞いています」


 私は相談記録の職種欄に、ひとまず『受付業務』と書いた。


「勤務先は」

「特には」

「在宅ですか」

「家はありません」

「では、お住まいのご相談も必要ですね」


 男は、少しほっとしたような顔をした。


「信じてくださるんですか」

「まず、暮らしの状況を伺っています」


 以前、前職は忍者だという人が来たことがある。

 その人は最終的に、観光施設の舞台スタッフとして採用された。刀を回すのがうまかった。職歴は、こちらが驚くほど多様なのだ。


「退職日は決まっていますか」

「今日です。午後六時に」

「引き継ぎは」

「ありません」

「後任の方は」

「決まっていません」


 私はペンを止めた。


 忍者より難しいかもしれない。


「なぜ、六時なんですか」

「時間を決めないと、いつまでも辞められない気がしたので」


 それは、妙にまともな答えだった。


 壁の時計は午後五時を指した。受付終了の札を裏返す。衝立の向こうで、同僚が書類を揃える音がした。


「お名前を伺っても?」

「神様です」

「それはお仕事のお名前ですよね。ご本人のお名前をお願いします」


 男は口を開き、それから、困ったように閉じた。


「ありません」

「一度も?」

「必要がなかったので。呼ぶ方は、大抵、用件からお話しになります」


 確かに、そうかもしれなかった。


 神様、お願いします。

 神様、助けてください。

 神様、どうして。


 最後のものを、私はよく知っていた。


「では、お名前は後ほど考えましょう。希望する職種はありますか」

「まだ、わかりません」

「お持ちの資格は」

「ありません」

「得意なことは」

「話を聞くことです」

「苦手なことは」


 男は、しばらく黙った。


「……聞いたあとに、何もできないことです」


 私は初めて、用紙から顔を上げた。


 男の両手は、膝の上に行儀よく並んでいた。

 きれいな手だった。傷も、日焼けも、爪のささくれもない。


 神様、どうか、ひどく面倒な人ではありませんように。


「面倒だとは、思います」


 男が言った。


 ペン先が、紙の上で止まった。


「いま、何て?」

「面倒だとは思います。申し訳ありません」


 しばらく、コピー機の動く音だけがした。


「……私、口に出しましたか」

「いいえ」

「考えていることがわかるんですか」

「私に向けられた祈りや、呼びかけだけです」


 冗談だと思いたかった。


 男は私の名札を見て、それから、もう一度頭を下げた。


「相沢さんを訪ねてきました」


 私の名前を知る方法など、いくらでもある。

 窓口に電話をかければいい。市の広報にも、小さく写真が載ったことがある。


 だから私は、確かめるために、胸の中で、この男へ呼びかけた。


 何百回も繰り返した言葉で。

 眠る前も、電車の中でも、病院の廊下でも。

 とうとう、声にする力さえなくなるまで繰り返した、その言葉で。


 神様。

 私の残りを全部あげます。

 一日も残さなくていいから。

 だから、どうか、妹を。


 男の表情が変わった。


「……覚えています」


 私が身を乗り出すと、椅子の脚が床をひっかいた。


「だったら」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


「どうして、助けてくれなかったんですか」



     *



 妹の栞は、二十四歳で死んだ。


 大学を出て、働き始めたばかりだった。

 冷蔵庫に貼った旅行のパンフレットには、まだ一か所も印がついていなかった。


 よく笑う子だった、とは言いたくない。


 機嫌の悪い日もあった。洗面台に髪の毛を残した。私のプリンを食べたうえに、証拠の容器を流しに放置するという、犯罪者として致命的な欠点があった。


 唐揚げのレモンは、人に尋ねずに全部へかけた。


『かけていい?』

『もうかけてるじゃん』

『形式上の確認です』


 病気になってからも、そういうところは変わらなかった。


 変わったのは、私のほうだ。


 退院したら。

 元気になったら。

 よくなったら、また。


 会うたび、同じ言葉ばかり使うようになった。

 いま目の前にいる妹と話しているはずなのに、私はいつも、まだ来ていない日へ妹を連れていこうとしていた。


 最後に交わした会話もそうだった。


『退院したら、駅前の唐揚げ、食べに行こうね』


 栞は、うん、と言った。


 その三日後に死んだ。


 病院からの電話を受けたとき、私はこの窓口にいた。

 何度面接を受けても採用されないという男性が、帰りかけては戻り、帰りかけては戻っていた。


『また来てもいいんでしょうか』


 その言葉に、もちろんです、と答えた。

 鞄の中で、携帯が震えていた。


 折り返したのは、十一分後だった。


 電話は、栞が亡くなったことを知らせるものだった。

 すぐに出たとしても、助けられたわけではない。


 そんなことは、わかっている。


 それでも私は、何度もあの十一分をやり直す。

 鞄へ手を伸ばす。電話に出る。男性に断って、廊下へ出る。


 その先を、どう変えたいのかはわからない。


 ただ、妹がもういない世界で、妹がまだいるつもりで受け答えをしていた自分を、いまでも、うまく許せない。


「答えてください」


 目の前の男は、逃げなかった。


 逃げてほしかった気もする。

 そうすれば、やっぱり嘘だったのだと思えた。


「聞いていたんでしょう。私、何でもするって言いましたよね」

「はい」

「何でもよかったんです。本当に。私が代わりになるんでも、何でも」


 男が、膝の上の手を握った。


「私には、人の命を取り替えることはできません」

「病気を治すことは」

「できません」

「時間を戻すことは」

「できません」


 あんまりだ、と思った。


「じゃあ、何ならできるんですか」


 男は、ゆっくり顔を上げた。


「祈った人のことを、別の誰かに、少しだけ思い出してもらうことです」


 意味がわからなかった。


「久しぶりに、あの人へ電話をしてみよう。最近顔を見ないから、寄ってみよう。そういうふうに、誰かの気にかかるよう、呼びかけることです」

「……それだけ?」

「それだけです。届かないことも、たくさんあります」


 私は笑った。

 笑うつもりはなかったのに、短い息が漏れた。


「ずいぶん、話が違いますね。世界を作ったり、運命を決めたりするんじゃないんですか」

「世界を作った覚えは、ありません」

「でも、神様なんでしょう」

「そう呼ばれています」


 男は、否定のしようがないことを言うように答えた。


「人が、誰にも言えない願いを、それでも誰かに聞いてほしいと思うようになって。気がついたら、私は聞いていました。それより前のことは、知りません」


 私たちはしばらく、机を挟んで座っていた。


 もっと立派な理由があるのだと思っていた。


 私には理解できない大きな計画や、どうしても避けられない決まりがあって、栞はそのために死んだのだと。


 そんなものがあるなら、絶対に認めないつもりだった。


 なのに、差し出されたのは、何もできなかったという答えだけだった。


「入院中、栞に会いに来てくれた人たちは、あなたが呼んだんですか」

「私が呼びかけた人も、いました」

「じゃあ、あの人たちが優しかったのも」

「いいえ」


 そこで初めて、男ははっきりと言った。


「思い出すことと、会いに行くことは、別です」


 栞の友達は、仕事帰りに遠回りして病院へ来ていた。

 お隣のおばさんは、頼んでもいないのに、私の分まで煮物を作った。

 看護師さんは、栞が嫌がる話をするとき、必ずベッドの横へ椅子を持ってきた。


 あの人たちが使った時間も、疲れた足も、煮物の甘すぎる味も。


 この人のものではなかった。


「何もできなかったなら」


 私は机の縁を見たまま言った。


「せめて、できないって、言ってほしかった」


「……はい」


 私は何度も、残りの人生を差し出した。

 神様がそれでは足りないと言っているのかと思い、そのたびに、まだ何か手放せないかと考えた。


 欲張らなければ。

 いい姉でいれば。

 祈り方を間違えなければ。


 男は、私から目をそらさなかった。

 それも、腹が立った。


「いまさら謝られたって、困ります」

「はい」


 私は立ち上がり、給湯スペースへ行った。


 紙コップを二つ出す。

 一つでいいはずなのに、二つ出してしまった。


 こういうときまで、仕事の手順が抜けない。


 ぬるいお茶を入れて戻り、一つを男の前へ置いた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 男が手を伸ばした。


 その指は、紙コップを通り抜けた。


 私は、見間違えたのだと思った。


 もう一度、男が手を動かす。

 白いコップの中へ、指がすっと入った。

 お茶の表面は、揺れなかった。


「……何、それ」


「まだ、触れられないんです」


 男は手を引っ込めた。


「神様でいるあいだは、物に触れる体がありません」


 私は椅子へ視線を落とした。


「でも、座っているじゃないですか」

「そう見えるだけです。いま、ここにあるのは、私の姿だけなので」


 相談用の椅子は、少し動くだけで軋む。

 予算がつかず、もう何年も買い替えていなかった。


 この人が来てから、その椅子は、一度も音を立てていなかった。


「今朝、辞めると決めてから、人に見えるようになりました。六時になったら、祈りは聞こえなくなって、普通の体になります」

「……辞めると、人間になるんですか」

「はい」

「また、神様に戻ることは」

「できません。もう、取り消すこともできません」


 私は、机の上の手を見た。


 傷のない、きれいな手。


 傷がないのではなかった。

 傷のつきようが、なかったのだ。


「人に触ったことも、ないんですか」


 男は、首を横に振った。



     *



 同僚が、衝立の向こうから顔を出した。


「相沢さん、まだかかる?」

「もう少し。先に上がってください」


 同僚は男に会釈をして、帰っていった。

 男も深く頭を下げた。


 廊下の足音が遠ざかってから、私は椅子を引き寄せた。


「どうして、私のところへ来たんですか」


 男は、少しためらった。


「妹さんに、教えていただきました」


 胸の奥が、小さく跳ねた。


「何を」

「ここを」


 男は、私の手元の相談記録を見た。


「妹さんは、よく、私に怒っていました」


 栞らしい、と思った。

 認めたくなかったのに、そう思ってしまった。


「眠れない夜などに、話しかけられました。ある晩、こう言われたんです。『何もできない神様なんか、辞めちゃえば』と」


 私は、顔を上げた。


「『うちの姉ちゃんに相談しなよ。市の就労相談室にいるから。あの人、仕事を探すの、うまいから』」


 栞の声で、聞こえた気がした。


 照れくさかった。

 腹が立った。

 たった一言でそんなふうになってしまう自分に、ますます腹が立った。


「あの子、そんなことまで」

「はい」


 栞は私の仕事を、地味だと言っていた。


『毎日、人の履歴書を見てて楽しい?』

『別に、楽しむために見てないよ』

『姉ちゃんのも書こうか。特技、冷蔵庫の余り物で何とかする』

『わりと有用な特技だね』

『短所、何とかしすぎる』


 男は、静かに続けた。


「そのあとで、『人間になったら、できること増えるかもよ』と」


 私は、二つの紙コップを見た。


 湯気はもう、出ていなかった。


「それで、辞めるんですか」

「それだけでは、ありません。でも、この一年、何度も思い出しました」

「一年も、迷っていたんですか」


 男は、うなずいた。


「辞めたら、届かなくなる祈りがあるので。決めかけるたびに、誰かに呼ばれました。せめて、この人の話を聞いてからにしようと、思っていました」


 私は壁の時計を見た。


 時間を決めないと、いつまでも辞められない。


 さっきの言葉が、少し違って聞こえた。


 男は右手を開いて、閉じた。


「私は、近くにいるつもりでした。苦しい人のそばにも、怖がっている人のそばにも。けれど、そこにいると、相手にはわからないんです」


 声が、少しかすれた。


「手を握ってほしいと言われたことは、数えきれないほどあります」


 栞の手を思い出した。


 病院のベッドで、私の指を握り返してきた手。

 面会時間が終わって、私がほどいた手。


「妹も?」


 男は、うなずいた。


 私はしばらく、呼吸の仕方がわからなくなった。


 紙コップを持ち上げた。

 口まで運べず、戻した。


「……もっと早く、辞めてくれたらよかったのに」


 男は何も言わなかった。


「そしたら、あの子の手、握れたじゃないですか」


「はい」


 ただ、その一言だけだった。


 私の言ったことが正しいかどうかを、争うつもりはないらしかった。


 私は両手で顔を覆った。


 奇跡なんて起こせない。

 祈りには、届く保証もない。

 それならもう少し早く、誰かに教えてもらいたかった。


 けれど、教えられていたとしても、私は祈ったのだろう。


 何も残っていないところで、それでも伸ばす手を、祈りと呼ぶのだとしたら。


「栞の」


 指の隙間から、声が出た。


「最後の願いって、何だったんですか」


 男は、すぐには答えなかった。


 聞かなければよかった。


 私の幸せを願っていたなんて言われたら、きっと、耐えられない。

 私はこれから一生、妹の最後の願いにふさわしい幸せを探さなくてはいけなくなる。


「私に届いた、最後の祈りは」


 男が言った。


「『まだ、死にたくない』でした」


 私は顔から手を離した。


「……そうですか」

「はい」


 栞は、死にたくなかった。


 当たり前のことだった。


 旅行に行きたかったし、唐揚げを食べたかった。

 貸したお金を返す前に、また何か新しい服を買いたかったかもしれない。

 病気の前みたいに、私に怒られたかったのかもしれない。


 私のための立派な言葉を残すより、自分が生きることを願っていた。


「うん」


 私は、誰にともなくうなずいた。


「そうだよね」


 涙が落ちた。


 男は、しばらく動かなかった。

 それから、机の隅に置いてあるティッシュへ手を伸ばし、途中で止めた。


 私は自分で箱を引き寄せた。


 鼻をかむ音が、誰もいなくなった相談室に、やけに大きく響いた。



     *



 午後五時二十九分。


 私は相談記録を引き寄せ、いくつかの欄を二重線で消した。


「続きを、聞いてもいいですか」


 男が姿勢を正した。


「はい」


「人間になったら、どんな仕事をしたいですか」

「人を助けられる仕事を」

「それだと、少し広すぎます」


 私はペンを持ち直した。


「それに、最初から、誰かを助けられなきゃいけないと思わなくてもいいです。まずは、暮らせることを考えましょう」


 男は、意外なことを言われたような顔をした。


「希望する勤務時間は?」

「終わる時間があると、うれしいです」

「お休みは」


 男が、私を見た。


「……休んでもいいんですか」


「休みは必要です」


 私はそう答えた。


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


 栞の入院中、私は有給休暇を小分けに使っていた。

 もっと悪くなったときのために残しておこう、と思っていた。


 残していた分は、葬儀のあとに使った。


「週に、二日くらいあるといいですね」


 私は書いた。


 休日、週二日希望。


「夜も、眠ってみたいです」

「それも書きましょう」


 夜勤のない仕事を希望。


「それから」


 男は紙をのぞき込み、ためらいながら言った。


「できないことは、できないと言ってもいいところがいいです」


 少し考えてから、私は用紙の余白へ、困ったときに相談できる相手がいること、と書いた。


「何でもいい、より、ずっと探しやすくなりました」

「注文が多くありませんか」

「これは、あなたの希望を書く紙ですから」


 男は、何度も用紙を見た。


 そのあいだだけは、誰かの祈りを聞いている顔ではないように見えた。


「名前も」


 男が言った。


「自分で、考えてみてもいいでしょうか」


「もちろんです」


「少し、時間がかかるかもしれません」


 私は、空欄の横へ小さく書き添えた。


 本人検討中。


 それから電話を取り、連携している生活支援の団体へ連絡した。


 住所がないこと。

 身元を確認できるものを、何も持っていないこと。

 今夜から、泊まれる場所が必要なこと。


 担当者と話し、その夜を過ごす部屋を一つ確保してもらった。七時に本人を連れて行き、詳しい状況を相談することになった。


 身元のことも、その先の暮らしも、すぐに解決すると約束できる話ではない。


 でも、今夜の寝場所は決まった。


 私は、施設までの道順を控えた。


「今日は、就職の話はここまでにしましょう。明日、住まいや身元のことを担当の方と相談しながら、順番に考えます」

「はい。ありがとうございました」


 男は立ち上がった。


 私は記録の控えを差し出しかけて、手を止めた。


 まだ、持てないのだった。


「これは、私が預かっておきます」


 男は、もう一度頭を下げた。


 時計は、五時四十分を少し過ぎていた。


「七時に、さっきの施設へ行きます。場所は私が案内しますから」


「ありがとうございます」


 男は、きちんと返事をした。


 そのあとで、壁の時計を見た。


 私も、見た。


 あと二十分もすれば、この人は、濡れる体を持つ。

 寒がったり、お腹をすかせたりするようになる。


「……ごはんも、食べたことないんですよね」

「はい」


 私は自分の鞄を見た。

 家の冷蔵庫には、昨日冷凍したごはんがある。


 そのほかには、特に何もなかった。


「駅前に、食堂があるんです」


 男は黙って、続きを待った。


「施設に行く前に、夕飯に付き合ってもらえますか」


「それも、お仕事ですか」


「いいえ」


 言ってから、少し迷った。

 その迷いごと、正直に付け加えた。


「私が、一人で食べたくないので」



     *



 一本の傘で、駅前まで歩いた。


 男は雨に濡れなかったので、いまはまだ、傘を分ける必要はなかった。

 それでも私は、少しだけ右へ寄せて持った。


 交差点では救急車が通った。

 男が、音の去ったほうを振り返った。


「いまも、聞こえるんですか」


 男はうなずいた。


「たくさん?」

「はい」


 青になった信号を、私たちは渡った。


「辞めないで、って言う人もいるんでしょうね」

「いると思います。辞めると知ったら」

「みんなには言っていないんですか」

「はい」


 私は傘の柄を握り直した。


「私、あなたが辞めていいかどうかは、わかりません」


 男は、黙っていた。


「栞のことも、まだ怒ってます」


「はい」


「今日の話を聞いたからって、全部、納得できたわけじゃないです」


「……はい」


 次の信号で、足を止めた。

 歩道の隅に、細い川のように雨水が流れていた。


 男はそこを見下ろしながら、小さな声で言った。


「人間になるのが、怖いです」


 私は男を見た。


「祈っている方は、痛がったり、空腹だったり、寒かったりします。私には、そのどれもわかりません。知っているだけで、わからないんです」


 雨が、傘の上をたたいていた。


「私も、死ぬようになります」


「……そうですね」


「向いていなかったら、どうしようかと」


 私は、少しだけ笑った。


「人間に?」


 男は真剣な顔でうなずいた。


「私も、向いてるかどうか、まだわかりません」


 私がそう答えると、男は驚いたようにこちらを見た。


 そこで、信号が青に変わった。



     *



 食堂の引き戸は、最後のところで少し引っかかる。

 強く引くと、厨房から「壊すなよ」と声が飛んでくる。


 昔と同じだった。


「いらっしゃい。あら、久しぶり」


 おばさんが私を見つけて、声を上げた。


 一年前には何度も来た。

 栞が入院してからは、持ち帰りを買ったこともある。私が食べるための弁当だったのに、栞の好きなおかずばかり選んだ。


「二人です」

「奥、空いてるよ」


 私は窓際の席に座った。


 栞と来たとき、妹はいつもこちら側を取った。

 夏は暑いし冬は冷えるのに、窓際が好きだった。


 男が、私の向かいに座った。


「唐揚げ定食、二つお願いします」

「はいよ。ごはんは普通でいい?」

「普通で」


 男も、まねをするようにうなずいた。


 私は鞄から、相談記録の控えを取り出した。

 半分に折って、机の端へ置く。


 店のテレビでは、誰かが商品の値段を当てていた。

 厨房から油のはぜる音がした。

 隣の席の二人連れが、明日は早く起きなければならない、という話をしていた。


 午後五時五十九分。


「ここで、いいんですか」


 私は尋ねた。


「何がでしょう」

「退職する場所」


 男は店内を見回した。


 壁の短冊メニュー。

 冷水のポット。

 先の少し欠けた箸立て。


 それから、私を見た。


「はい」


 男は、膝の上に手を並べた。

 相談室に来たときと、同じように。


 私は何か言おうとした。


 お疲れさまでした、なのか。

 ご苦労さまでした、なのか。

 それとも、結局何もしてくれなかったじゃないか、なのか。


 どれも、自分の気持ちを全部は言い表せなかった。


 男の視線が、壁の時計へ動いた。


 秒針が、上へ戻った。


「……時間です」


 店では、何も起こらなかった。


 電気はついたままだった。

 テレビも消えなかった。

 厨房のおじさんが、次の唐揚げを油へ入れた。


 男はじっとしていた。


 きし、と音がした。


 向かいの椅子が、初めて、その人の重さを受け止めた。


「あ」


 小さな声だった。


 男は胸元へ手を当てた。

 目を見開き、息を吸った。


 肩が動いた。

 灰色の背広が、かすかにこすれた。


 男は、机へ手を伸ばした。


 指先が、天板に触れた。


 そこで、止まった。


 爪の先を押しつけ、ゆっくりと、手のひらを広げていく。


「……触れます」


 男が言った。


 指で、木目をなぞる。

 机の傷へ、爪をひっかける。

 何かを確かめるように、自分の手を、もう一方の手で包む。


 私は控えの用紙を、その手のそばへ押した。


 男はつまみ上げた。


 紙が、持ち上がった。


 ただそれだけのことに、私は泣きそうになった。


 男は、紙を大切そうに置いた。

 次に、自分の手首へ指を当てた。


「動いています」

「脈です」

「はい。知っています」


 男は笑いかけた。

 けれど、うまく笑えなかった。


「これ、いつか止まるんですね」


 私は、うなずいた。


 男の指が、手首を強く押さえた。

 息が少し速くなった。


「……怖いです」


 私は、机の上へ手を出した。


「手、出してください」


 男がこちらを見た。


「握っても、いいですか」


 おそるおそる、手が差し出された。


 私はそれを握った。


 骨のある手だった。

 少し冷たく、手のひらだけが汗ばんでいた。


 握り返す力は、思っていたよりも弱かった。


「痛かったら、言ってください」


 男は首を横に振った。


 その手を離さずに、私は待った。

 テレビの声と、食器の音がしていた。


 やがて、向かいから、息を吐く音が聞こえた。


 私は、目を閉じた。


 どうか、もう少し、ここにいてください。


 また、願ってしまった。


「……いま、何か祈りましたか」


 男が尋ねた。


 私は目を開けた。


「聞こえなかったんですか」


「もう、聞こえません」


 不思議そうに、男は言った。


 あれほどたくさんの願いが聞こえていた場所に、いまは食堂の音だけがあるのだろう。


「何を、お願いしたんですか」


 私は、開きかけた口を一度閉じた。

 それから、ちゃんと声にした。


「もう少し、一緒にいてくださいって」


 男は、握っていた手に、ほんの少し力を込めた。


「います」


 そして、厨房のほうを見た。


「唐揚げが、まだ来ていませんから」


 私は笑った。


 涙が一粒、こぼれたけれど、確かに笑った。



     *



「はい、お待たせ。熱いから気をつけて」


 おばさんが、二人分の定食を置いた。


 白い湯気が上がっていた。

 唐揚げの横には千切りのキャベツと、櫛形のレモン。

 小皿の漬物まで、以前と同じだった。


 向かいの人は、なかなか箸を使えなかった。


「使い方は、知っているんですが」

「知ってるのと、できるのは違いますよね」


 私はスプーンとフォークを取ってもらった。


 その人はスプーンでごはんを少し口へ運び、黙って、長いこと噛んでいた。


「どうですか」

「……わかりません」

「まずい?」

「違います」


 もう一口、食べる。


「比べるものが、ありません」


 私は、少し考えた。


「もう一口食べたいですか」

「はい」

「じゃあ、今のところ、いいんじゃないですか」


 その人は真面目にうなずいた。


 私はレモンを取った。

 いつもの癖で、皿の上へ持っていき、途中で止めた。


「レモン、かけてもいいですか」


 その人は黄色い切れ端を見た。


「かけると、どうなるんですか」


 その質問がおかしくて、また笑ってしまった。


 栞は、こんな聞き方をしなかった。

 向かいに座っている人は、妹にはちっとも似ていない。


 私は小皿へ唐揚げを一つ取り分け、それにだけレモンをかけた。


「両方、食べてみましょう」


 その人は食べ比べ、長いこと悩んだ。


 私はそのあいだに、自分の唐揚げを一つ食べた。


 熱かった。


 噛むと衣が割れて、口の中に肉汁が広がった。

 ひどく、懐かしい味がした。


 栞にも食べさせたかった。


 そう思ったら、また泣けた。


 向かいの人が、何か言いかけた。

 けれど、やめた。


 代わりに、机の端のティッシュを取って、私へ差し出した。


 今度は、自分の手で。


「ありがとうございます」


 私は受け取った。


 悲しみが減ったのかどうかは、わからない。


 栞は死んだままだし、最後の面会の日にも、電話が鳴る前にも戻れない。

 私は明日も、腹を立てるのだろう。神様にも、自分にも、何事もなかったように動く電車にも。


 ただ、目の前にごはんがあった。

 向かいの人は、もう一枚ティッシュが必要かどうか、私の顔を見ていた。


 私は首を横に振り、鼻をかんだ。


 それから、箸を持った。


 食事の途中、その人が空の茶碗をのぞき込んだ。


「まだ、食べたいんですが」


「おかわり、できますよ」

「どうすれば」

「あちらのおばさんに、言えばいいです」


 その人は茶碗を持ったまま、少しためらった。


 私は自分の茶碗も持ち上げた。


「私も、半分くらい頼もうかな」


 向かいの人が、うなずいた。


 窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。

 店の時計は、六時二十四分を指していた。


 その日、神様が退職した。


 そして、私の向かいに座った人が、天井ではなく、カウンターの向こうへ声をかけた。


「ごはん、おかわりください」

お読みいただき、ありがとうございました。


「神様が退職する」という大きな出来事を、誰かの最初の晩ごはんとして書きたいと思いました。


世界が変わるのではなく、椅子が一度、軋む。

奇跡が起こるのではなく、ティッシュが一枚、手渡される。

この物語では、そういう小さなことを、大切にしています。


相沢にとって、この出会いが大切なものになったとしても、栞を亡くしてよかったことにはなりません。

悲しい出来事のすべてに、納得できる理由が見つかるわけでもないと思います。


それでも、悲しみが残ったまま、ごはんをおいしいと思う夜があっていい。

昨日と同じことを後悔しながら、明日の約束をしてもいい。

相沢には、そんな夕飯を食べてほしかったのです。


元神様の名前も、再就職先も、まだ決まっていません。

ただ、明日の午前十時に行く場所と、唐揚げにレモンはかけないという好みは決まりました。


人の願いを聞くばかりだった人の人生は、ひとまず、そこから始まります。


神様の退職と、二人の晩ごはんに、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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