ありがとうさようなら、またいつか
翌朝、学園の門をくぐった瞬間、ふと、胸の奥に引っかかるものを感じた。
何かが違う。けれど、それが何なのかはっきりとは掴めない。空の色も、石畳の並びも、朝のざわめきも、すべてが昨日と同じように見えて……どこか、少しだけ、色を失っていた。
教室に入ってすぐ、わたくしはリリアーナを探した。いつものように元気な挨拶が飛んでくるかと思ったのに、そこに彼女の姿はない。
出席簿に目を落とすと、彼女の名前はどこにも書かれていなかった。そんなはずはない。
「ねえ、リリアーナは?今日、お休みなのかしら」
わたくしが問いかけると、クラスメイトたちは顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げた。
「誰のことですか?そんな名前、聞いたことありませんけど」
まるで、初めからそんな人間など存在しなかったように。
次に取り巻きの令嬢たちに尋ねても、反応は同じだった。
「エレノア様、大丈夫ですか?リリアーナって、誰?」
その声にはわたくしを気遣う様子すらあった。だが、信じられないのはわたくしのほうだった。
……そんな、馬鹿な。
最後に、フェリクスにも聞いてみた。
「あなた、昨日のピクニックのことを覚えていらして?」
「ピクニック……?随分前に君と二人で行ったことならあるけど、他に誰かいたっけ?」
その言葉に、わたくしは背筋が凍るような感覚を覚えた。確かに、昨日まで、彼女はわたくしたちの間にいた。誰よりも大きな声で笑い、無遠慮に懐いてきて、時々騒がしくて、でもどこまでも真っ直ぐで。
なのに、その存在が、まるで世界ごと塗り替えられたかのように消えていた。
わたくしは、無言のまま校舎を出て、あの庭園へと走った。
春先の庭園は、淡く芽吹いた草花が静かに咲いている。あの子が「ここ、大好きなんです!」と笑っていた場所。わたくしと踊った、あの秘密の場所。
ベンチのそばに立ったとき、視界の端に何かが映った。
──ピンク色。
あの子の髪に似た、柔らかい桃色の百合が一輪だけ、静かに風に揺れていた。見覚えのない花、けれどもどこか懐かしい色。
わたくしは、そっと近づく。その花は、まるで差し色のように一ヶ所だけ色が違っていた。
紫色。わたくしのリボンの色。
「あぁ……やっぱり、あなた、ここにいたのね」
言葉にすると、胸の奥にあった何かが、ぽろりと崩れ落ちた。
「……まったく……最後まで、あなたらしいですこと」
そっと指先で触れると、花はかすかに揺れた。その姿は、まるでリリアーナがそこにいて微笑んでいるかのようだった。
涙がこぼれそうになるのを堪えながら、わたくしは小さく微笑んだ。
──もし世界中があなたのことを忘れても、わたくしは決して忘れません。
あなたはいつまでも、わたくしの大切な友達ですわ。
これからも、毎年あなたが好きだったこの季節に、ここでピクニックを開きましょう。フェリクスにも理解してもらえる日が来るでしょうし、例え来なくとも構いません。
わたくしは立ち上がり、桃色の花へ静かに語りかけた。
「だから……また、会いましょう。いいえ、きっと会えますわ。わたくしたちは、いつか笑い合える日が来ると信じています」
花は風にそよぎながら、まるでこちらに笑いかけるように揺れていた。
その揺れはまるで「またね」と手を振るようで、わたくしは胸が苦しくなるのを抑えられなかった。
春の風が花を包むようにそよぎ、空がやけに高く、透き通って見えた。
涙を拭い、顔を上げて歩き出す。
それは、わたくしだけが知る、小さな、小さな別れの物語。けれど同時に──未来への、約束の始まりでもあるのだ。
◇◇◇
馬車の扉が開いたとき、わたしはぎゅっと頭のほっかむりを押さえた。
知らない場所、知らない人。心臓がきゅっと縮むような音がした気がして、思わず視線を落とす。
「さあ、着きましたよ。お嬢様」
孤児院から乗ってきた、馬車の御者さんがやさしく声をかけてくれるけれど、お嬢様なんて呼ばれるには、わたしの靴は擦り切れていて、指先は洗っても黒ずんだままで――どう考えても場違いだった。
ぎこちなく足を下ろすと、白い石の敷きつめられた広い前庭の先に、大きな屋敷が立っていた。
玄関の前には、丁寧に並んだ使用人さんたち。そしてその中央に、ひとりの女の人が立っていた。
胸の前で手を重ねて、ふわりとした笑みを浮かべていたその人は、わたしを見るなり、まるで宝物でも見つけたみたいな目をした。
「よく来てくださいました。ようこそ、わたくしたちの家へ」
わたしは、答える声が出なかった。喉が詰まって、うまく息もできない。
代わりに、思わず頭のほっかむりをもっと深くかぶってしまった。
みんなが、見ている。わたしのことを。
顔を見られたら、髪の毛を見られたら、きっと幻滅される。汚くて、貧乏くさくて、変で、養女なんてふさわしくないって――
そのとき、目の前に何かが差し出された。
顔を上げると、女の人――お屋敷の奥さまが、そっと箱を開けた。
「これは、あなたに。歓迎の気持ちを込めて用意したの」
それは、小さな白い箱に入った、お花の髪飾りだった。
やわらかなクリーム色の布花に、桃色の小花が重ねられていて、真ん中には小さなパールの飾りがついている。まるで春の陽だまりをそのまま形にしたみたいに、優しい色だった。
「……わたしには、似合いません」
そう言いたかったけれど、声にはならなかった。
ただ、もぞもぞと足を動かし、顔を背けようとしたとき――奥さまの指先が、わたしの頭にそっと触れた。
「少しだけ、お手伝いさせてくださる?」
ふんわりとした声。驚くほど柔らかくて、手の温かさが頭を包んだ。
「あっ……!」
ほっかむりが、すっと外される。
冷たい風が、額に触れた。
どうしよう、髪を見られてしまった。
思わず目をぎゅっと閉じると、次の瞬間、頭の横で小さな留め具の音がした。
「はい、できました。とっても、よくお似合いよ」
怖くて、目を開けられなかった。けれど、頭の横で揺れる軽やかな重みが、確かにわたしをここに繋いでいた。
「……どうして、こんなにやさしくしてくれるんですか」
わたしがぽつりとそう尋ねると、奥さまはふふっと笑った。
「だって、あなたのことを知っていますもの」
その言葉の意味が分からなくて、わたしが首をかしげると、奥さまは、少しだけ寂しそうに、でも心から嬉しそうに微笑んだ。
「おかえりなさい。ずっと、待っていたのよ」
わたしはその言葉の意味を、まだ知らない。
けれど、その声を聞いた瞬間、どこか懐かしい匂いがした気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。
そして、不思議と涙がこぼれそうになって、わたしは慌てて目元を袖で拭ったのだった。