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陛下はもう死んでいる ~皇帝陛下を腹上死させてしまったのでキョンシーにして復活させます~

作者: 卯月みそじ

※ 終始エロくはないですが下品です。

※ 作中の倫理観が死んでいます。

※ GW中、Wi-Fi環境がないところで一日を過ごした結果思い付いたネタを膨らませました。突貫で書いたので変なところは見逃してや。

※ 三万字くらいあるからくっそ暇なときにどうぞ。

「のどかわいた」

 

 (こう)春霞(しゅんか)はむくりと寝台から身を起こした。ひと眠りする前まで、たっぷりと汗をかいたからだろうか。

 後宮妃嬪のひとりである二十歳の娘は、ぼんやりと房中の宵闇を眺めている。

 

 傍らには男がひとり横たわっていた。春霞より少し年上の、痩せた男である。美しい顔を微動だにさせず深く眠っている彼は──この国の皇帝だった。

 

 案外たいしたことなかったなと、春霞は先刻までの情事を振り返る。十点満点中六点。ついさっきまで処女だったくせに、娘は辛口採点である。

 まあこんなもんかと、春霞は皇帝とは逆側の布団をめくり、寝台をおりた。

 

 夜目を頼りに、春霞は音を立てないように茶卓までそろそろと進む。山生まれ山育ちという出自のお陰で、暗がりはめっぽう得意だ。卓までたどり着くと、春霞は飲み残しの茶杯をぐびりとあおる。ふだん滅多に飲めないもてなし用の高級茶は、冷めても美味かった。

 

 茶を飲んで、少し頭が冴えたからだろうか。

 春霞の胸にふと去来する──達成感。

 

 娘は右手の拳を握りしめると、スッ……と頭上へ高々と突き上げた。

 

──妊娠確実……!


 春霞の身分は采女である。後宮では最下級の妻妾だ。

 そして後宮に身を置くからといって、妻妾全員が必ずしも皇帝の寵愛を受ける機会に恵まれるとは限らない。むしろ、そんな機会がある方が稀だ。中には龍顔を拝まないまま生涯を終える者もいるくらいである。

 

 ふだんから皇帝の寵愛を受けているのは、四妃や九嬪といった、上級妃嬪ばかり。つまり──春霞のような下級の者が寵を受けることは、滅多にないことだった。

 

 皇帝がなぜ今晩の伽の相手に、春霞を選んだのかは分からない。いつもの面子に飽きて、賽子(さいころ)でも振って適当に決めたのだろうか。


 しかし春霞にとってはまたとない好機だった。


 皇帝には現在、子がいない。皇后ばかりかその他の妻妾との間にも、ひとりももうけていないのである。

 ここで春霞が──幸運にも子を、それも皇嗣を宿すことができればどうなるか。

 皇帝の跡取りを生むということは、後宮においては最も名誉なことである。現皇后を引きずり降ろして、春霞が新皇后へ冊立されることも夢ではない。

 

(一発逆転、私が皇后! 握るぜ実権! やってみたいな垂簾政治!)

 

 春霞は気の早い娘であった。学もないくせに初手で垂簾政治を目論んでいる。アホである。

 とはいえ、月の障りの周期から考えて、ちょうど今晩は子を宿しやすい日のはずだ。もしかすると、もしかする。

 

(……まったく、全然迎えに来てくれないんだもの。仕方ないわ、別の男の子どもを産むことになったって。いいもんね、私このまま天下獲っちゃうから!)


 一瞬だけしんみりした顔を浮かべたのち、春霞はぷるぷると頭を振って、気を取り直す。振り返るのは、先程の夜伽の一部始終だ。

 詳しくは割愛するけれど、最後の方は一滴残らず搾り取ろうと奮闘したあまり、「もうムリ! 死んじゃう!」と何度も叫ばれたくらいだ。

 国で一番偉い男の痴態は、庶民出身の春霞にはなかなか痛快だった。思い出して娘はほくそ笑む。

 

 春霞はもう一度拳を高々と掲げる。パッと手のひらを開き、そしてグッと天を掴む仕草。獲ったるで天下。支配すっぞ国家。見とれよ臣民。

 

 うきうきわくわくしながら春霞は寝台へ戻った。じょじょじょ女帝~♪ ふんふらふ~ん♪ などと鼻歌をふんふんしながら、玉体が寝ている方とは逆側から布団へもぐりこむ。十月十日後が楽しみだ。

 

 アホの娘は上機嫌で、二度目の眠りに入ろうとしたけれど。


 ふと、春霞は傍らの男の異変に気付いた。偶然触れ合った彼の肌が、妙に冷え切っている。寝息の気配もなければ、身じろぎも一切ない。生きている人間にしては、不自然なまでの沈黙っぷり。

 

 まさかな、と思いながら、春霞は男の首筋に手を添えた。呼吸と脈拍を確かめるために。

 

 けれど──息もしていなければ、脈もない。

 龍顔はただ沈黙している。

 

「…………」

 

 春霞は冷ややかに皇帝陛下(だったもの)を見下ろした。

 娘は一見、まったく顔色を変えず、冷淡な面持ちで静まり返っている。しかし内心は焦燥と混乱でしっちゃかめっちゃかであった。

 

(いやいやいや!)

 

 いやいやいやいやいや!

 冷や汗だらっだらである。

 

(し、死んでる? どうして? わ、私のせい!?)


 しかし春霞はアホな反面、冷静な女であった。動揺はしつつも、悲鳴は上げずにただただ頭を働かせている。

 

 心の臓が動いていない。息がない。すなわち死んでいるということ。


 状況的に陛下の死因は──腹上死。


(私が……私が一滴残らず搾り取ったせいで……!?)


 参ったぜこりゃ、と春霞は独り言ちた。ちょっとおどけてなければやってられない状況である。女は必死で考えている──自分が罪に問われないかどうかを。

 

(いや無理──)


 状況的にどう考えても、春霞が殺したようにしか見えない。自分にその気がなかったとはいえ。正直にその辺の官吏に「すみませーん、ヤリすぎて陛下死んじゃいましたぁ」などと申し出れば、まず間違いなく死罪である。

 

 なんでこんなことに。

 

 春霞は眉間をおさえて、枕を交わす前の彼との会話を思い出す。

 

 皇帝、(よう)僥信(ぎょうしん)は、ほっそりとした美しい青年だった。ただし面持ちに浮かぶ表情は終始気弱そうで、決して国で一番偉い人などという雰囲気ではない。実際虚弱な体質らしく、頻繁に体調を崩しているとかいう話だった。

 

 僥信はなぜかガチガチに緊張した状態で、春霞の住まいを訪れた。本来は春霞の方が緊張して然るべきなのに、彼は真っ赤になって「本日はお日柄もよく……」などと、改まりすぎな口上をどもりながら述べていたものだ。天子があまりに緊張し過ぎて要領を得ないため、春霞から「ヤルことヤリましょう」と身もふたもない誘い方で寝台に連れ込んだのである。

 

 その後は絶命確定生絞り。

 

 娘は後悔した。光陰(こういん)矢の如しというが、荒淫(こういん)は矢の如く皇帝の命を奪っていった。

 

 春霞は死にたくない。山で十数年ほど想い人を待ち続けても一向に迎えにこなかったので、待つのに飽きて、ちょうど後宮妻妾の勧誘にきた役人についていくことにした。なんか面白そうだったから。

 

 とはいえ、後宮最下級の妻妾の暮らしはさほど楽しいものではない。皇帝の目通りもなく、上級妃の下請けのような雑務をこなす毎日。地元帰りて~! と嘆いても、女の園からはもう逃げられない。

 

 それなのに──皇后を夢見てたかだか皇帝に天国見せたせいで、死罪を賜るなんて。

 

──まだ死にたくない。私、もうちょっと面白おかしく生きていたいのに……!


 というわけで、春霞は悪あがきを決意した。

 となると隠さねばならない。皇帝・楊僥信の死を。


 けれど、どうやって?

 

「あ、そうだ」

 

 春霞は思い出したようにポンと手を打った。

 窮地にふと蘇った記憶は……おばあちゃんの知恵袋である。

 

──いいかい、春霞。いずれ役に立ちそうなことを教えてあげようね。


 田舎暮らしの頃、春霞が唯一心を寄せていた肉親が祖母だった。

 おばあちゃんはなんでも教えてくれた。おいしいごはんの作り方、手早く火起こしするコツ。

 男を手玉に取る方法。及び閨房で主導権を握る術、からのエグめの性知識。

 

『あのな、春霞。男をうまく操縦するにはの、ふぐりの裏をな……ぐふふ』

『わしゃばあちゃんの口からそういうの聞きとうなかった』


 お陰で初夜にして皇帝陛下からたらふく搾り取ったわけである。おばあちゃんの知恵袋が、精どころか命すら刈り取るとは思ってなかったけども。

 春霞は祖母の言葉を思い出す。

 

 いいかい、いいかい春霞。

 

『お前にキョンシーを制御する呪術を教えておこうねぇ』


 キョンシー。死体が化け物と化したものだ。キョンシーになった死体は、どんなに年月を経ても腐敗することなく、動き回れるらしい。

 しかし、腐敗はしないが死後硬直はする。キョンシーは関節がほとんど曲がらず、ぴょんぴょんと跳ねるようにして移動する。

 

 そしてこの化け物は、人を襲う。キョンシーに襲われた者もまた、キョンシーになるという。

 

 春霞の祖母が授けてくれたのは、このキョンシーを制御するための秘術である。なぜそんなものを田舎のおばあちゃんが知っていたのかは定かではない。

 けれどいまはおばあちゃんの知恵袋が、春霞の命運を繋ごうとしている。

 

「そうだ。陛下をキョンシーにしよう」


 春霞は決心した。二十歳の娘はがさごそと道具を用意すると、隣室の侍女に勘付かれないように儀式の準備を始める。

 

 寝台に載せられたままの皇帝の死体を前に、簡易な祭壇を作り。皇帝の足袋を脱がせて素足にすると、足裏の経絡左右七カ所ずつを、線香の火で焼いた。

 それから春霞は指先を刃物で傷つけ出血させると、黄色い短冊に血で呪符をしたためる。


「いーあるさんすーあるぱちかぶとー!」


 最後に呪文一発。声を潜めながら、けれどもはっきりと発声しつつ、春霞は呪符を皇帝の眉間へペタリと貼りつけた。

 

 果たして、腹上死した皇帝は──。

 

      ── ── ── ── ── ──


 翌朝。

 政務のため尚徳殿(しょうとくでん)に大勢の官吏が参内している。彼らはみな一様に、ざわついていた。

 

 尚徳殿は主に朝見に使用されている建物だ。広々とした造りで、百官だろうが千官だろうがすっぽり収まってしまうくらい広い。

 

 巨大な建物は往々にして内部が暗くなりがちではあるものの、尚徳殿はところどころに、明り取りの窓が設けられている。おかげでこの規模の建築にしては、日中常に爽やかな光で溢れている。吉祥柄の透かし彫りで彩られた瀟洒な窓は、この建物を象徴する名物でもあった。

 

 その瀟洒な窓すべてが──今朝から、黒く分厚い布で覆われている。

 ふだんなら朝の光で満ちているはずの尚徳殿の内部は、まるで夜のように暗かった。

 

 それだけではない。皇帝が座する玉座の背後には、長大な御簾が垂らされている。彼は皇后が政治の場に臨席することを好まない。だからふだんは、皇后の目隠し用の御簾なんてしまい込まれているはずなのに。


 ざわざわと、百官が口々に異変を囁きあっていると。


「皇帝陛下、御光臨!」


 皇帝、楊僥信来臨の時刻である。侍従の宦官が甲高い声を上げ、天子を迎えるための銅鑼がごわわんと打ち鳴らされた。


 臣下一同が、しんと静まり返る中に。

 

 ぴょん、ぴょん、と──皇帝陛下は跳躍しながら現れた。

 両腕をまっすぐ前に突き出して。冕冠(べんかん)の玉飾りを、ひとつ跳ぶごとにじゃらじゃらと跳ねさせて。

 額に揺れる、黄色い呪符。

 膝は曲げずに足首だけで、ぴょんこらぴょんと。

 

 皇帝、楊僥信は異様すぎる登場を果たすと、玉座の前でピタリと止まる。そしてぐりんと正面へ向きを変えると、ギシギシと腰をきしませて着座した。腕はなおも前方へ突き出したまま。

 

「がう」


 意味不明の勅語に、満座の困惑は最高潮である。

「え、なに……?」「さあ……」と全員が戸惑う中。


 一方春霞はこそこそと、玉座裏の御簾の向こうを移動していた。気配をひそめて、采女はそっと皇帝の傍に控える。

 キョンシー使いの女は、ふぅと安堵のため息をついていた。

 

──よし、みんな誤魔化されてやがるわね!


 春霞の目は節穴である。宰相やら大臣やらは「え、陛下どしたん?」「歩き方なに? キョンシー?」とざわざわしている。

 

 さて昨晩。皇帝をキョンシーにするという一か八かの試みは、無事に成功を果たした。楊僥信はいまや、春霞の意のままである。


 ただしキョンシーにするだけでは不十分だ。陛下が死んだことを誤魔化さなくてはならない。

 そのためにはしなければならないことが、二つある。

 

 一つ、皇帝の身柄を常に春霞の傍に置いておくこと。

 一つ、為政者として平常通り(まつりごと)を続けること。

 

 少なくとも、春霞の懐妊がはっきりし、かつ皇嗣を出産するまでは続けなければならない。跡継ぎさえ生まれれば、キョンシーには事故を装って死体に戻ってもらうことになる。皇帝も不慮の死であったろうに、そのことはちょっと気の毒だけれども。

 

 そうは言っても。男児が生まれたら夢の垂簾政治。正直春霞はわくわくした。じょじょじょ女帝! ふんふらふん!

 アホの采女は御簾の後ろで、鼻息を荒くしている。

 

 ところで、キョンシーを制御するにあたって、注意点がいくつかある。

 まず、キョンシーは日光に弱い。少し日に当たるだけで、皮膚に火傷状の症状を発してしまうのだ。死んでいるとはいえ、さすがに可哀そうである。

 だから春霞は早朝、皇帝の命を装って、この尚徳殿の窓をすべて黒布で覆わせたのだ。おかげで宮殿の中は夜のように真っ暗で、ところどころの蝋燭の火だけでは照明として心許ない有様である。図らずもこの暗がりは、皇帝の土気色の顔や春霞の存在を覆い隠すことにも効果を発揮している。願ったりかなったりだ。

 

 そして、キョンシー制御における注意点ふたつ目。

 術者はキョンシーに対する指示を、声に出して伝えなければならない。

 だから春霞は常に僥信についていなければならないわけだ。

 しかし采女の身分では、なかなかそうもいかない。下級の妻妾がずっと陛下の傍に控えているのは、さすがに不自然だ。だから。

 

 春霞はひそひそと、キョンシー陛下の耳元へ囁きかけた。

 

「洪春霞を皇后にすると言いなさい」

 

 これは必要な措置であるとともに、春霞の夢でもある。

 

「…………」

 

 キョンシーは術者の言葉を聞いて、ちょっと黙っている。

 え、術効いてない? と春霞が訝しんだときだった。

 

「……それ、さすがに、むり」


 ぼそぼそと小声で僥信が苦言を呈してきた。

 

「いきなり、皇后、恨み、買う。私、春霞、心配」


 片言で告げられる忠告に、春霞は冷静に「ふむ」と思案顔だ。

 忠告の内容もさることながら──キョンシーが術者の命を聞かずに、自律行動を示してきたことに対する戸惑いがある。


 春霞はおばあちゃんのキョンシー指南を思い出した。

 

 キョンシーとは、亡者が正しく葬られず、霊魂がちりぢりになってしまったことで変じる怪物である。霊魂とはすなわち、喜怒哀楽といった感情や記憶、意思などといったものから構成される。

 

 楊僥信の死体にはもしかすると、部分的に政務や日常に関する記憶や意思が残されているのかもしれない。

 

 こういった細かな考察を「もしかしたらちょっと思い出残ってんのかな」と雑な感想で片付けて、春霞はうん、と頷いた。皇帝キョンシーの苦言はもっともだ。春霞は恨みを買いたくない。


「ひとまず、世婦(せいふ)あたり、から、段々、上がっていく。おすすめ」

「じゃあそれで」


 春霞が同意すると、キョンシー陛下はギチギチとした動きで、小さく頷いてみせた。

 僥信は「み、みな、きき、聞け!」と、若干滑舌悪く口火を切る。キョンシーは死後硬直のせいで、関節を柔軟に動かすことや、流暢な発話が苦手である。

 

「こ後宮、人事! 采女、洪春霞、世婦……才人と、する!」


 才人というのは、世婦という妻妾の階級の中の、さらに一番下の階級である。しかしながら采女から飛び級でとなると、大出世だ。

 不器用な発音に、官吏たちは「今日皇帝いつもより滑舌わるくない?」などと口々に言いながらも、僥信の発案にはさして異論を挟まず受け入れた様子である。きっと昨晩きまぐれに訪問した下級の妻妾が、思いのほかお気に召したんだなくらいのもんである。まさか目の前の皇帝が腹上死しているなどとは夢にも思わない。

 

 ともかく春霞の身の上に関しては、今後段階的に出世を遂げていく算段ができたわけだ。アホの娘は声を潜めて「ッしゃあ!」と、御簾の裏で拳を握りしめている。

 

 しかし朝見はこれだけでは終わらない。ここは尚徳殿。国家の運営を議論する、政の場である。

 

 いましも一人、甲冑姿の武官が主上の前へ進み出てきた。甲冑ごしにも分かる、鍛え上げられた魁偉な肉体。

 いかにも庶民からの成り上がり上級武官という風貌だが、意外なことに彼は皇族である。僥信の叔父で、(よう)劈仁(へきじん)という。大将軍を務めている。

 

「ご機嫌麗しゅう陛下。今日も今日とて、戦争のご提案に参りましたぞ!」

「ヒ……」


 叔父からの大音声の挨拶に、キョンシーは少し怯えた様子を見せた。肉体に僅かに残る記憶が反応するほど、この男が苦手らしい。

 

 楊皇叔(ようこうしゅく)は皇帝の冕冠が震えるのをせせら笑いつつ、言葉を続けた。

 

「この劈仁、我が国の繁栄のため、異民族の国を吸収し、原住民を奴隷にしてどちゃくそ利権を貪りたく存じます。どうか軍備増強のため、よりいっそうの増税にご賛同を! ガハハのハ!」

「が、がお……」

「アァ!? いま何かほざきやがりましたかアァン!?」

「ヒッ……!」


 なんこいつ、陛下に対して態度悪すぎん? と御簾の後ろで様子を見ながら、春霞は思った。それにしても、僥信も異常に怯えた様子を示している。「こいつら昔なにかあった?」と春霞は訝しむ。

 

 甥と叔父のこのやりとりを見守る他の官吏たちは、「また始まったよ」と呆れ顔である。皇叔が軍部の長として皇帝に強権を振りかざし、黙殺する光景は、この尚徳殿では日常茶飯事であった。

 

「さあ、増税および軍備増強! うれしはずかし宣戦布告の御聖断を!」


 叔父は目を爛々と輝かせながら甥に迫る。僥信は「がお……」と俯いて諦めの気配を醸している。


「ちょっとちょっと、陛下」


 春霞は僥信へこそっと話しかけた。

 

「ねえねえ、しんどい思いするくらいなら、叔父さんの言うこと聞いちゃえば?」


 娘にとっては、目の前で繰り広げられる政争は割と他人事である。戦争、増税? ふーん勝手にすれば。私は後宮でぬくぬく暮らしてるし。いまんとこキョンシー操るので忙しいし。……ってなもんである。

 

 けれど皇帝キョンシーは、また言うことを聞かなかった。僥信は朴訥な口調で、ぼそぼそと呟く。

 

「できない……。叔父上、戦争、狙ってる、場所。春霞、地元、近所」

「え……?」

 

 なんで陛下が私の地元知ってんの? と春霞は疑問に思う。昨晩、絶命確定生絞り前にそんな会話したっけ?

 しかし正直なところ、春霞は情事直前の会話の記憶が曖昧であった。皇嗣を宿すことに必死だったからである。

 

「侵略、だめ。民、重税、負担……夷狄、恨み、ない……」

「…………」


 気弱だけれども、どうやら元々は仁君であったらしい。なかなかええやつやんこいつ、と春霞は思う。

 そしてやっと──目前で繰り広げられる政争が、自分ごとになってきた。そうか、これを止めないと、おばあちゃん達が──。

 

 しかし肝心の皇帝陛下は、臆病な気性ゆえ、叔父に逆らう勇気がなかなか出ないようだ。生前の薄弱な記憶しか持っていないだろうに、キョンシーは怯えたまま俯いている。


「……大丈夫だよ、陛下。私がついてる」

「春霞……」

「もしあいつが陛下に何かしたら、そのときは私が──キョンシーになるのも無理なくらい、カッピカピになるまで搾り取ってあげるから」

「ワ、ワ……!」


 励ましが効いたのだろうか。キョンシーは「私以外、搾り取る、ヤメテ」と一声小さく抗議した後に、ギシギシと首の関節をきしませて、正面を向いた。呪符の奥の瞳は、まっすぐ叔父を見据えている。

 

「ち……朕は、侵略、反対!」


 そして思い切った発声で、僥信は叫んだ。思わぬ応答だったのか、楊皇叔が「えっ!?」とひるんだ。


「ぞ、増税、もっての、ほか! 平和、いちばん!」


 少ない語彙で必死に抗弁する天子に、文武問わず官吏一同は、ぽかんと主君の方を見上げている。

 呪符ごしに南面しながら、僥信は続けた。

 

「この話題、もうおわり! つぎ! がう!」


 それからの朝見は、これまでにないくらいに白熱した。

 春霞は知らないけれど、それまでの楊僥信の評価は「暗君」である。いつも所在なさげで自信もなく、体力もなければ発言力もない。


 お飾りの皇帝。それが楊僥信。

 

……だったのに。キョンシーになってからの方が、むしろ活き活きと政治に参加している有様である。


 春霞も一緒に政へ参加している気になって、ちょくちょく御簾の後ろから皇帝へ語り掛けた。まさか、夢にまで見ていた垂簾政治が、こんなに早く体験できるとは。

 

 しかし厳密に言えば、意思決定はほぼ僥信が行っていたので、春霞が政を動かしていたわけではない。娘がしたことは──気弱なキョンシーを勇気づけたことだ。

 

 娘は密かに皇帝に寄り添い、ときに励ましときに助言し、ときに「やるじゃん」と声をかけたりした。死んでいる僥信の顔色は、赤面の代わりにちょっとだけドス黒く鬱血したりもした。けれど、あいにく宮殿の中が真っ暗なので誰も気づかない。

 

 いや──。さすがに数名ほど、皇帝の異変に、間近で気付いている者がいた。そのうちのひとりが、宰相の劉伯叡(りゅうはくえい)である。白髪美髯の老臣だ。

 劉宰相は玉座の最前に控えているので、皇帝の額に妙な呪符が貼りつけられていること、御簾の後ろに妙な女がいることなどを、すべて把握している。

 

「あの……劉宰相。あれ、つっこまないので?」


 若手の官吏がひそひそと語りかけてくるのに、劉宰相は扇子で口許を隠しつつ、こっそりと考えを告げる。

 

「うん、おそらく陛下はすでに崩御されている。そんで後ろの女にキョンシーにされたと見た」

「えっ、一大事じゃないっすか」

「ふつうに考えたらそう。でも──陛下にはまだ世継ぎがない。いま下手にこの状況を暴き立てれば、宮中に混乱を招きかねんだろう。それこそ、帝位を狙う楊劈仁には有利な状況だ」

「なるほど、戦争中毒の危険人物である楊皇叔が帝位に就けば、国が傾きますからね。ご判断に納得です。勉強になりまぁす」

「……というわけで、彼女はしばらく泳がそう。ま、むしろキョンシーにしてくれたことは、いい時間稼ぎになるかもしれん。それに『洪一族』のはしくれならば、まず暴走はさせないはずだ」


 そこまで語ると、劉宰相は若手部下を振り返った。老臣はいっそう潜めた声でこう命じる。

 

「簡州が慶雲山に住まう道士を密かに呼び寄せてください。きっとあの方の力が必要になる──」

 

      ── ── ── ── ── ──

  

 知らぬところで様々な策謀が渦巻いているなど、露知らず。

 そんなこんなで、アホの娘と皇帝キョンシーの日々は始まった。

 

「行け、陛下! 悪い奸臣や佞臣を朝廷から追っ払うのよ!」

「がう!」

「やれ、陛下! 私と陛下の仲に嫉妬して陰湿ないじめを仕掛けてくる後宮の妃どもに、バシッと一言いったって!」

「が、がう……」

「臆すなーッ! 行けーッ!」

「がうぅ……」


 ときに正義の為政を成し、ときに女の諍いに巻き込まれ。

 春霞と僥信は二人三脚で、ありとあらゆる困難に立ち向かう。

 

 あるときは招かれた園遊会にて。

 

「よくいらっしゃったわね、陛下、洪才人。遠慮なく手料理をお食べになってくださいまし」

 

 血走った目の皇后・趙金蓮から、ドス紫のヤバイ色合いをした汁物を勧められ。

「こ、これは……!」などとほざきつつ、春霞は侍女に銀の匙を所望して、汁物をすくってみた。あっという間に匙はドス黒く変色する。明らかに毒だ。

 

「陛下、あーん」

「あーん」

「えっ」

 

 皇后もまさか、陛下へ食べさせられるとは思っていなかったようだ。キョンシー皇帝はむぐむぐとちょっとだけ咀嚼してから、だらぁと汁物を吐き出した。ちゃんと「まずい」と一言感想も添えて。

 一連の流れを終え、春霞はふふふんとドヤる。

 

「……これ、毒ですわ」

「陛下に食わすくだりいらんやろ! お前が食えや!」


 なんだかんだ、激昂しながら皇后はしょっぴかれていった。未遂に終わったとはいえ、毒殺を試みちゃったので失脚確定である。今後はタコ部屋のような場所に幽閉されるそうだ。

 

 しかし……春霞にはちょっとだけ、後味が悪かった。毒汁事件なだけに。

 趙皇后は、なんだかんだ楊僥信を愛していたようだ。おそらく彼女は春霞に彼を奪われたのだと思ったろうし、実際そうだ。

 

 けれど春霞も後には引けない。最近、つわりのような症状が起きている。

 

      ── ── ── ── ── ──

 

 数ヶ月が経った。

 しばらく一緒に過ごしてみて分かったことだが、僥信はやはり、ある程度の自律行動は可能らしい。語彙は少ないながらも春霞と会話できるし、ぎこちない動きながらも、術者の彼女を守るような仕草をしてみせたり。

 

 しかし一般キョンシーらしく、術者の指示がなければできないことの方が多いし、記憶にも抜けがたくさんある。

 

「ねえねえ。陛下はどうして私の地元を知ってたの?」

 

 ある晩、春霞はふと尋ねてみた。キョンシー生活初日から気になっていたことだ。

 僥信は呪符の後ろで懸命に思い出す顔をしてみたものの、結局は分からなかったようである。

 

「ごめん、どうしてか、わかんない……でも、春霞のこと、しってる。地元のこと、名前、だけ、だけど」

「へ~」


 ふたりで卓を囲み、茶をすすっている。皇帝はキョンシーになってからも、周囲の目をごまかすためにきちんと食事を摂っていた。消化器官も健在なようで、食べたら食べたぶんだけ出るものも出る。いまもふたりは干菓子をもりもり食べながら、歓談にふけっていた。

 

「じつは私、地元でさ。ずっと待ってた人がいたんだよね」

 

 どうしてその話をキョンシーにする気になったのか、春霞は自分でも分からなかった。地元の話になったから、連想で話題に出したのかもしれない。

 

「私がまだ七歳くらいの話。私、生まれも育ちも国境の山で、猿や鹿を追いかけて遊ぶのが趣味だったんだ」

「どちゃくその野生児……」


 そんな野生児はある日、崖下の茂みで倒れている人影を発見する。見たこともないほど綺麗な顔をした──年上の少年だった。

 

「気を失ってるところを見つけて、うちのおばあちゃんといっしょに何日もその人を看病したの。おかげでなんとか回復して……しばらくしてから、おうちの人が血相変えて迎えに来たんだっけ。お別れの日、さよならする前に約束してくれたんだ──」


──いつか必ず迎えに行く。だからそれまで、誰にも嫁がないでくれ。


 語り終えて、春霞は思い出に耽るように目を閉じた。正直なところ、少年の顔はもうほとんど覚えていない。ただ、綺麗で凛とした面持ちだったことが印象に残っている。


 また、彼自身や、彼を迎えに来た人々は──一様に豪奢な衣装を身に纏っていて、まるで都の貴人のような出で立ちだった。

 春霞はしみじみと記憶をたどっている。いま考えるとあのときの彼は──いとやんごとなき身分の少年だったのかもしれない。

 

 目前ではいとやんごとなき身分のキョンシーが、うっとりとした春霞の話しぶりに憂鬱な顔をしている。

 

「春霞、そいつ、結局、迎えに……」

「来なかったんだよね。十何年も待ち続けたのに」

 

 やれやれ、と肩を竦めて、春霞はおどけた仕草をして見せる。その様子に、僥信の憂いの面持ちは──深い深い憎しみに変わった。

 

「そいつ、許せない。春霞、待ってたのに、約束やぶった」

「慰めてくれるんだ。ありがとね、陛下」

「いますぐそいつを八つ裂きにして(はらわた)を食い散らかしてやりたい」

「急に流暢に恐ろしいことを喋る。どうした」


 そんなこんなで、術者とキョンシーは交流を重ね。

 

「春霞、最近、お腹……」

「フフフン。だいぶ育ってきたわね」


 当初の目標通り、やはり春霞は懐妊を果たしたようである。僥信はぶきっちょな手つきで春霞の腹を撫でて、驚いたような面持ちをしている。

 死ぬほど搾り取ったからねぇ~、とじっと僥信を見れば、キョンシーは気まずそうに目を逸らした。

 

「洪春霞、皇后、冊立!」

「せやろね~」


 皇帝の子を宿した妻妾は当然、皇后に取り立てられることになる。僥信の自信満々の宣言に、百官は納得の顔。

 

 皇帝陛下、万歳万歳万々歳。皇后陛下、千歳千歳千々歳。

 

 臣下からの大合唱を聴きながら、御簾の後ろで春霞はなんとも言えない顔をしている。なんだかんだ僥信とは、すっかり良い相棒だ。

 大きくなった腹を撫でながら、娘は玉座の背中を──いつの間にか愛おしく眺めていた。

 

      ── ── ── ── ── ──


「春霞……。子ども、生まれたら、私……用済み?」


 ある夜のこと。人払いした部屋の中、相変わらず卓を囲みながら、術者とキョンシーは団欒のときを過ごしていた。

 妙に改まった様子で僥信がそう切り出すので、何を言うかと思えば。

 

「そ、そんなことないですってば!」


 春霞はキョドりながら、落ち込む皇帝をなだめている。

 いや──正直、つい最近までその考えはあった。当初、春霞は無事に皇嗣を生むことができたなら、事故に見せかけてキョンシーを処分する心づもりであった。

 

 改めて振り返ると、自分の考えは心底ろくでもない。いかに不慮の死であったとはいえ、一人の人間の死体を利用した挙句、必要なくなれば処分するだなどと。

 

「…………」


 ここ最近、やっと湧いてきた罪悪感。

 目の前の男は、楊僥信であって楊僥信ではない。彼の霊魂は、あの夜すっかり壊れてしまったのだ。いまの僥信の意思に見えるものは──死体に残った、霊魂の残滓によるものである。

 

 陛下はもう、死んでいる。

 

 一国の皇帝を死なせ、純朴な青年の魂を毀し、彼の死骸を利用しているという事実。

 

 結局当初、春霞は皇帝・楊僥信のことを、ただの利用対象としか見ていなかったのだ。ひとりの人間として、見ていなかった。

 

 訥々と喋り、素朴にふるまうキョンシーを見ていると、かつての楊僥信の人柄が偲ばれる。けれどやはり、本人であって、本人ではない。

 

 キョンシーは本来化け物である。術者の制御がなければ、無辜の人々に襲い掛かり、食い殺すような。

 

 でも──私はその化け物以上の、化け物。

 人として生まれ、人として育ち……それなのに人の心を持たぬ者こそ、正真正銘の化け物である。

 

「陛下、ちゃんとした道士さまに、一度相談してみませんか?」


 居住まいを正して、春霞はそう切り出した。僥信は呪符の後ろの顔を、きょとんとさせている。

 

 道士とは、この国の儀礼や悪鬼祓いを生業としている修行者だ。キョンシーの専門家は彼らである。もしかすると──高位の道士ならば、僥信の壊れた霊魂を修復し、人間として蘇らせることができるのかもしれない。

 

 春霞はおばあちゃんの知恵袋を思い出す。

 

──いいかい、春霞。キョンシーというのはね。


『稀にだけれど……魂魄を完全に修復して、元の人間に戻った者もいるんだよ。本当に本当に、稀なことだけど』


 脳裏でその言葉を繰り返しながら、春霞は僥信へ告げた。

 

「おばちゃんが言うには、キョンシーの中には生き返った者もいるそうです。生前の通りに、霊魂を修復することで……。もしかすると、陛下も元の陛下に戻れるかもしれない」


 けれどそれは外部の人間に、いまの僥信の状況を包み隠さず伝えることになるということだ。つまり、それは。

 

「で、でも、それ、春霞……」


 春霞が僥信にしたことの一切が、明るみになるということである。

 娘は身重の身体を地面へ這いつくばらせて、皇帝陛下へ平伏した。

 

「あなたを死なせたうえ、その死を利用しようとキョンシーにしてしまったこと、到底償い切れる罪ではございません!」


 懺悔の感情のまま、春霞は叫ぶ。僥信はあわあわと、ぎこちない仕草で「やめて、春霞」と彼女を助け起こそうとするけれど。

 

「ええいしゃらくせえ! 人が謝ってるときに触んじゃない!」


 どっせい。春霞は僥信を引っ掴むと容赦なく床へ転がした。謝罪の最中に当人に暴行すな。

 

「とにかく! いまさら……ほんとにいまさらだけど! 私、あなたにとても酷いことをしてしまった! やっと自覚したの、本当にいまさら!」


 春霞の心は厳罰を望んでいた。僥信は両腕を天へ突っ張ったまま仰臥しつつ、「春霞……」と心配そうな声音を漏らしている。

 けれど、娘の気がかりは、僥信ばかりではない。お腹に宿る、この子のことが気遣わしい。


「陛下。厚かましいけれどもお願いです。お腹の子は無事に産ませてください。罰ならそれから、いくらでも受けますから……」


 楊僥信を人間に戻す。子は無事に出産する。

 

 いまはそれだけが、洪春霞の望みであった。贅沢三昧も垂簾政治も、もうどうでもいい。数ヶ月前はあんなに強欲だったのに。

 

「やめて、春霞。私、罰、望まない……」

 

 僥信はやっとのことで硬直した身体を起こすと、体勢を変えるのにひどく苦心しながら、なるべくやわらかい力加減になるように調節しつつ、春霞の背中を撫でさする。

 

 身重の娘の背中を、冷たくてカチコチの手のひらが何往復もしている。アホで気丈で強かな女子であるはずの洪春霞は──声を押し殺してすすり泣いた。

 

 皇后の部屋から嗚咽が漏れている。

 屋外、窓辺の下に潜んでいた侍女が、「しめしめ」と一部始終を聞き終えてそそくさとその場を離れていった。

 

──あなたを死なせたうえ、その死を利用しようとキョンシーにしてしまったこと、到底償い切れる罪ではございません!


 皇后の自白は、しっかりと聞かれていた。

 

      ── ── ── ── ── ──


 ひとまずは僥信を人間に戻そう。

 そう思い立ち、春霞はまず、祖母へ手紙を送ることにした。キョンシーの知識が豊富な彼女なら、何か手がかりを知っているかもしれないと期待して。

 

 ほどなくして、祖母から返信があった。春霞は祈りながら手紙を開封する。

 

(おしえておばあちゃん。おしえて慶雲山の松の木よ……!)

 

 しかし、故郷・簡州慶雲山からの手紙は、たった一行だけだった。

 

『皇帝腹上死させたうえキョンシーにしたとかクッソうける。さすがわしの孫。おもろ』

「あんのババア!」


 かくして春霞の中の祖母への呼称は、おばあちゃんからババアに格下げである。面白がられただけで、特になんの収穫もない。

 

 春霞は宮城内にある書庫から道術に関する書籍を取り寄せたりして自分なりに調べてはみたりした。しかし読めない字ばかりで、調査は思ったより捗らない。

 頼りになりそうな道士に関しても、なかなか良さそうな人材が見つからなかった。特にキョンシー専門というのは、都にはまったくいないようである。


──どうしよう、このまま陛下がキョンシーのままだったら。


 思い悩んでいた、その矢先のことだった。

 

      ── ── ── ── ── ──


「やめてください! 放して!」

「この毒婦め! 貴様、陛下を殺したうえにキョンシーに貶めるなどと!」


 春霞は武装した男に、ぎりりと手首をねじりあげられている。臨月なのに床に押し倒され、首元には短剣を当てられていた。

 皇后の住まいである宮殿内には、大勢の兵士が詰めかけている。

 

 夜中に急に押しかけられたと思ったら、このざまだ。


「春霞!」と慌ててぴょんぴょんしながら駆け寄る皇帝・楊僥信にすら──数多の剣が向けられていた。


「そいつは元陛下の化け物だ。もう皇帝なんかじゃない。みな、天子への礼は捨てていい。これより楊僥信の姿をしたそれは──『討伐対象』だ」


 カツカツと靴音を響かせて部屋に入ってきたのは、甲冑姿の魁偉な男──大将軍・楊劈仁(ようへきじん)。僥信の叔父だ。

 

「あ、あんたは! 戦争中毒の激ヤバおじさん!」

「この状況で口の減らない皇后陛下だ。いや──皇帝を傀儡(かいらい)と化し、朝廷の私物化を目論んだ毒婦め!」

「くっ、ぐうの音も出ない!」


 それはマジで当初の目的だったので、春霞はただただ臍を噛むしかない。

 黙り込むアホの毒婦に、満足の目を向けて。楊皇叔はフッと嗤笑を作ると、部屋の出入り口へ向かって呼びかけた。

 

「ガハハのハ! 助かりましたぞ趙皇后! あなたの情報提供のお陰で、逆賊をこうして捕らえることができましたからな!」

「趙皇后……?」


 春霞が戸口の方を見ると。スッ、と音もなく女が部屋へ入ってきた。たしか園遊会のときに会ったことがある。だが女はそのときより、ずいぶんやつれているようだ。光の無い目がぎょろりとこちらを向く。

 

 そしてその手には──鍋が抱えられていた。ぐつぐつと煮立つ鉄鍋を、可愛らしい鍋掴みで握っている。

 

「洪春霞──」


 元皇后・趙金蓮は抑揚のない声でつぶやいた。それからしばらく春霞をじっと熟視したのち、ふいに元皇后は「ふふっ」と嘲るように笑う。

 

「おかしいと思っていたの。あなたのような最下級の采女に、陛下がたぶらかされるなんて……。全部聞いていたわよ。私の腹心の侍女が、この部屋の窓枠の下で」

「間諜してたことぜんぶ喋るんスね」

「お黙り! 口の減らない毒婦め!」

「ウス……サーセン」


 緊迫の場面のはずだが、いまいち緊張感の足りない春霞である。鍋の中身を顔面へぶっかけられたくないので、ひとまず黙っておく。

 

「あなたも酷いお人ですわ。陛下」

「がお……」


 趙皇后の矛先は、今度は僥信へ向いている。女は妖艶に微笑みながら、恨み言を並び立てた。

 

「私、昔からあなたのことをお慕いしていましたのに。皇后になれて嬉しかったのに……。なのに、あなたは一度も私に触れてくださいませんでした。閨の中でも、紫庭(してい)でおさんぽしているときだって、一度も。手も握ってくださらなければ、肌に触れてくれることもない」

「が、がお……」

「他のお妃にも聞きましたわ。誰もお手付きになった者などいないと。……どうもあなた、想い人がいるとかで操を立てていらっしゃったそうですね。世継ぎを作らねばならない、皇帝のくせに」


 春霞には初耳だ。皇帝という位に就いていながら、楊僥信は貞操を守り続けていた。たった一人、好いた女のためだけに。

 

(じゃあ私、陛下の童貞奪っちゃったってコト……?)


 娘は床に這いつくばりながら「マジか」と呟いている。ガチのマジで、陛下には申し訳ないことをしてしまった。

 

──意中の相手ではなく、私みたいな田舎娘に貞操を奪われて。


 ずーんと胸の内が重くなる。春霞は後悔と動揺に苛まれているけれど、周囲の状況は悪化するばかりだ。

 

 趙元皇后は、手元をぷるぷるさせながら楊皇叔を振り返った。趙金蓮、目が完全に血走っている

 

「ああ、ああ。憎らしや陛下に洪春霞。ねえ楊皇叔。私、手ずからお料理を作ってきましたの。美味しい美味しい(タン)ですわ。ぜひ、洪采女に召し上がっていただきたいのだけれど……」


 怒りで震える鍋掴み。

 鍋からびちゃびちゃと、ドス紫の飛沫が飛び散っている。


「──よろしいかしら?」

 

 飛沫の落ちた床が、ジュワァと煙を上げて一瞬にして腐食した。

 春霞はさすがに「ヒッ」と戦慄する。あんなん食ったら問答無用で死ぬ。

 

 楊皇叔は「ガハハのハ」とお決まりの笑声を呵々と上げて、目を爛々と光らせながら頷いた。

 

「モチのロンです趙皇后! たーんと飲ませてやってください!」


 その言葉に、発破をかけられたかのように。

 趙元皇后は両眼をカッ開いて、こちらへ向けて猛突進してきた。ヤバイ剣幕に、春霞を取り押さえていた兵が「ヒィ!」と思わず手を緩める。

 

 山育ちはその隙を見逃さない。春霞は俊敏に立ち上がると、ひらりと元皇后の魔手を躱す。「このっ!」と毒鍋の女は悔しげにこちらを睨みつけた。鍋からこぼれた毒汁の飛沫が、うっかり目の前の兵士の胸に染みてしまった。じゅわっと溶ける甲冑の、乳首のあたり。

 

「いやん! 俺の乳首が丸見え!」

「逃がすか洪春霞!」

「あばよ趙皇后! 行くよ陛下!」


 罪なき兵士が、哀れにも毒汁で両乳首を晒されている間に。

 春霞はあわあわと立ち尽くしていた僥信の手を取ると、呆然とする兵士たちを尻目に駆け出した。

 

「しゅ、春霞、ごめん。私、なにも、できなかった」

「いいの陛下。私がぜんぶ悪いって、よ~く分かったわ」


 走りながらも、気落ちした声で春霞は言う。

 ひとまずは、僥信とお腹の子の身の安全を確保しなければならない。といっても、身重の状態で全力疾走している今、すでに子の状態が心配だ。

 大丈夫だよ、とでも言うように。胎の内から、ドンドンと胎動が送られる。

 

──くっそう、負けてられっかよ! 我が子のために!


 ぴょんこら追いかけてくる僥信を伴って、春霞は皇后宮から夜空の下へ飛び出した。

 

 その光景を──宮中で一番高い楼閣から見下ろす影が、一人分。

 剣を背負った影は、月下にしばらく白髪をはためかせて──やがて飛び降りて姿を消した。

 

      ── ── ── ── ── ──


 三十六計逃げるに如かずとは、言うものの。

 逃げたところで取り囲まれれば終わりである。


 後宮の広場にて、僥信と春霞は兵士に取り囲まれている。

 なにせ楊劈仁は大将軍。兵馬の権は彼が握っている。

 

「ど……どうしよ、春霞。マジやばい」

「やばいだなんて、陛下も俗っぽい語彙が増えてきちゃったわね。責任感じちゃうわ」


 包囲を受けつつ。春霞はもはや癖になっている軽口が止められない。しかし内心は焦りでいっぱいだ。

 

「追いついたわよ洪春霞! これ食って死ね!」

「趙お姉さまもなりふり構わなくなってきたわね」


 元皇后は鍋を持ったまま追いついてきた。そのままこちらへ突撃してくるので、春霞は冷静にそれを迎え撃つ。鍋の中身を顔面へぶちまけんと、こちらへ鍋を向ける趙金蓮。春霞は即座にその足元へ、足払いをかけた。


「ぎょわっ」


 倒れ込む趙皇后に、紫の液体が触れないように。春霞は続けて落ちてくる鍋を蹴飛ばした。「おわっ!」と鍋の飛んでった先の兵卒が慌ててそれを避けていく。そしてあたりに飛び散るドス紫。ぺちょぺちょと、兵装の胸の部分に付着する飛沫。

 

「いやん! 俺たちの乳首が!」

「おのれ! 洪春霞! よくも私の特性毒汁を!」

「なんでそんな乳首一点突破仕様なん?」


 結局、趙元皇后のお手製毒汁は、数名の兵士の乳首を晒しただけに終わる。趙金蓮はうずくまったまま、小さくなって肩を震わせ始めた。たぶん──泣いている。

 

 春霞と僥信は、思わず顔を見合わせた。正直なところ、趙皇后には同情を禁じ得ないし、春霞はやはり引け目を感じている。彼女の想い人を、独占してしまったのだから。

 

「趙皇后、私……」


 歩み寄ろうとする春霞を、僥信がビシリと引き留めた。相変わらずのカクカクとした関節の動きで、キョンシー陛下は首を横に振ると、「私、話す」といつもの片言で言った。

 

「趙皇后」

「へ、陛下……」


 僥信がぴょんぴょん近づくと、趙金蓮は泣き顔を上げた。キョンシーは彼女のそばへたどり着くと、ぎしぎしと膝を折って、跪いた。

 

「……私、いま、キョンシー。趙皇后の、こと、全然、覚えて、ない」


 キョンシーの訥弁に、趙皇后はわっと泣き出した。おいおい、泣かせるためにお話しするとか言うたんかお前は~? と、春霞はちょっと白い目で見ている。しかし。

 

「でも、皇后、生前の私、好き、だった。私、夫、なのに、応えない。不義理。ごめん、なさい」


 僥信は記憶がないなりに、誠心誠意謝っている。

 趙金蓮は謝罪の最中、ずっと夫の顔を見据えている。愛しいものを見るような、憎らしいものを見るような目で。

 

「陛下。もっとよくお顔をお見せになって……」


 懇願するような潤み声に、僥信は死に顔を近づける。呪符越しの蒼白な顔が、元皇后を正面から見つめていた。

 趙氏は「嗚呼」と両手を彼の顔に触れさせる。慈しむように冷たい皮膚を撫でる指。


「ずっと、ずっとこうしてみたかった……!」

「趙皇后……」


 春霞は夫婦の語らいを、少し離れたところから眺めている。湿っぽい雰囲気に、周りの兵士もただただ見守っているようだ。何人かは恥じらいながら乳首をおさえている。


 春霞はちょっと寂しい気持ちで、夫妻の姿を見つめていた──けれど。

 

「お可哀そうに……こんなに冷え切って、真っ青になって。あの女のせいで」

「春霞、悪くない。私が、身体が、弱かっただけ」

「あなたはまた──あの女の味方をする!」


 突然。僥信の発言が、逆鱗に触れたようである。

 趙金蓮は憤怒の面持ちで不意に、僥信の額の護符を引き剥がした。

 

「あ」


 全員が固まる。


 キョンシーの額に貼られている護符は、決して剥がしてはならない。


 キョンシーは元々、人を襲う化け物だ。術者が呪符で制御することによって、従順な存在となる。

 だから。

 

「ガ……!」


 僥信は跪いたまま、目を見開いている。その隙に、趙金蓮はせせら笑いながら立ち上がり、再び春霞めがけて走ってきた。

 

「このあばずれ!」

「ワッ!」


 すれ違いざま、元皇后は侮蔑を吐き捨てつつ春霞を押し倒していった。趙金蓮はあっという間に兵士の列の外。やられた、と春霞は歯を食いしばった。この土壇場で、あんな出し抜き方する?

 

 そこへちょうど。

 

「ガハハのハ!」


 お決まりの笑声を上げながら、楊皇叔が悠然と現れた。


「遅れて駆けつけてみたらば、面白いことになっているではないか! でかしましたぞ趙皇后! 元陛下のキョンシーが妊娠中の毒婦を食らう! なんとおぞましくも素晴らしい趣向だろう!」


 皇叔は狂暴化する最中のキョンシーを目前に、余裕の笑みで周囲の士卒へ指示を下す。

 

「円陣! 団牌構えて取り囲め!」


 団牌とは、大きな円形の盾のことである。楊大将軍の命に従い、兵士たちは一糸乱れぬ動きで団牌を構え、キョンシーと毒婦を取り囲む。

 これで逃げ場はなくなった。

 

(くそっ、身重でなければ、こんな奴ら軽々飛び越えてやったのに……!)


 立ち上がりながら春霞は状況を見回すけれど、起死回生の打開につながるような綻びはどこにもない。


「ガ、ガウ……!」


 月光を浴びて、僥信が──僥信だったものがゆらりと立ち上がる。

 死に顔の血走った眼は、一番近くにある血肉である春霞を捉えていた。

 

「陛下……!」

 

 キョンシーと毒婦の眼差しが交差する。その刹那。

 

「ガァアアッ!」


 理性と意思を失った怪物が、弾かれるように春霞へ飛び掛かった。娘はそれを最小の動きで避ける。

 

「ッしゃあこらァ! んなもん山で熊に出会ったようなもんじゃいこらァ!」


 毒婦は相変わらずの口の悪さ、ガラの悪さで己を鼓舞していた。と、同時に。

 

「んで私ゃなんで予備の呪符を用意しとらんのんじゃコラァ!」


 自らへの怒りと失望も胸中に渦巻いているのであった。


 かくしてキョンシーの狩りが始まった。獰猛な亡者は、爪を伸ばし、牙を鋭くさせて身重の女へ襲いかかる。

 

「すっごーい! たんのしーい!」


 楊皇叔は酒を片手に、この狂気溢れる対戦を楽しんでいる。こういうの好きらしい、このおじさん。

 

「やったれ陛下ー! 八つ裂きじゃあー! そんでみんな死ねー!」


 元皇后も外野で白熱している。

 みなが春霞の死を望んでいた。けれど毒婦本人には、この逆境がむしろ生への渇望につながっている。

 

「へっ、思い通りに死んでたまるか! いいか、キョンシーつうのはね!」


 この窮地、脳裏に閃くのはババアの知恵袋。

 いいかい春霞ァ! キョンシーってのはねえ!

 

「呼吸の有無で人間を感知している!」


 一声叫ぶと、春霞はむぐっと口をつぐんで鼻をつまんだ。

 

 そう──実は、キョンシーには視界がない。眼球は残っていても、その役割はまったく果たされていないのだ。聴覚は生きているが、彼らは主に──嗅覚を頼りに行動している。呼気に含まれる口臭に特に敏感で、口が臭いものほどキョンシーに狙われやすい。

 

 果たして、春霞が息を止めたことで。キョンシーの狙いは円陣を作る兵士の中の……一番口が臭い者へ向く。

 

「え、え!? 俺!?」


 晩飯にニンニクたっぷりの餃子を食った者が狙われている。僥信は「クサァアア!」と叫びながら、ニンニク臭い士卒の構える団牌へ猛攻撃を加えた。

 

「あ、ちょ、ちょっと待って……!」


 ニンニクくんが制止する間もなく。金属でできた団牌が、キョンシーの爪で斬り裂かれる。まるで紙を裂くように、あっさりと。

 

「ひ、ひい! 化け物!」


 人間離れした化け物の一撃に、兵卒たちはワッと恐慌をきたし、円陣を崩してちりぢりに逃げていく。何人かはやっぱり乳首を隠しながら、脱兎のごとく。

 

「こらお前たち逃げるな! 逃げた奴全員顔覚えてんぞこら!」


 楊皇叔が怒号を放つけれど、潰走は止まらない。

 

 皇帝キョンシーに追いかけられ、わあわあと散っていく兵士の群を眺めながら。もうよかろうと、春霞はぷはっと息を吐いた。

 

 あー助かった助かった、愉快愉快。

 

 娘はキョンシーに追いかけられる兵士の姿を目で追っかけながら、ひと時の安寧を楽しんでいる。

 

「ぎゃーっ! おやめください陛下!」

「噛まないで! 噛まないでください! キョンシーになっちゃう!」

「いやん乳首だけはお助けをー!」


 わいのわいの。阿鼻叫喚を見つめて。

 

 春霞はふと思った。皇帝キョンシーから逃げ惑っている彼らは、この国の兵士である。すなわち──僥信の配下にあたる。

 

(……部下を襲わせちゃまずいんじゃない?)


 そう思うや否や、春霞は「いけねえ!」と再び修羅場へ飛び込んだ。あの気弱で優しい僥信に、まかり間違っても殺人をさせてはならない。

 

「やめて陛下! 乳首噛まないであげて!」

「ガァアアア!」


 幸い、誰一人としてまだ傷つけられていない。キョンシーの爪牙に含まれる毒に当たれば、あっという間に傷を受けた者は同族に堕ちてしまう。

 春霞は乳首をかばう兵士をさらにかばって、キョンシーの目前へ飛び出すけれど。

 しかし春霞は無策である。

 

 このままでは。

 

 理性を失った僥信が、獣のように牙を剥きだして。

 優しく背中を撫でてくれたカチコチの手のひらからは、鋭い爪が伸びていて。

 

(ごめんなさい、陛下。私があなたをこんな化け物に、変えてしまったから──)


 春霞はぎゅっと目を閉じた。

 

──このまま噛まれたら……私もお腹の子も、陛下と同じくキョンシーになるのかも。なんだ、簡単じゃない。最初からキョンシー一家になればよかったんだ。

 

「ガハハのハ! 諦めたな毒婦め! ふたりともキョンシーになった暁には、晴れた日に気持ちよく日光浴をさせてやるぞ! なんてったって、キョンシーの弱点は日の光だもんなぁ! 醜く焼けただれる様が楽しみじゃいガハハのハー!」


 やばいおじさんが盛大に嘲笑う。

 ちょっと腹立つな、と思った矢先のことだった。

 

 ガブリ。

 

 鋭い牙が、人間の肉に食らいつく音。

 けれど──春霞の身体に痛みはない。

 

 娘ははたと顔を上げた。キョンシーと自分との間に──誰かが割り込んでいる。月光を照り返す、年季の入った白い髪には、見覚えがある。

 

 春霞をかばって、腕をキョンシーに食らいつかれているその人物は……。

 

「バ、ババア……!」

「あらやだ春霞。諦めるなんてあんたらしくもない。おばあちゃんを見習いな!」


 黄色い道袍を着こみ、破邪の力を宿す桃の木剣を構え。不敵な笑みでこちらを振り返るのは──故郷にいるはずの、春霞の祖母である。

 

「いやババア! 腕噛まれてっから!」

「あんたねえ、こんなもんもち米で解毒できんだよ。おばあちゃんの知恵袋を忘れたのかい!?」


 ババアは「あらよっと」と噛みつくキョンシーをあしらって距離を取ると、懐から手早く応急処置の用具を取り出した。

 

 ババアのキョンシー知恵袋。キョンシーに噛まれた傷は、生のもち米やゆで卵をすりこむことで解毒できる。

 

 しゃしゃっ! と素早く手当てを澄ますと、ババアは道服を翻し、皇帝キョンシーに再び向き合った。

 

 突然の闖入者に、驚いているのは春霞だけではない。

 

「な、なんだあのババア……聞いてないぞ、誰だあれ!」


 キョンシー対毒婦の大一番を狂わされた楊皇叔は、派手に喚き散らしている。傍らでは同じく状況について行けない趙元皇后が「は?」と首を傾げていた。

 そんな場面へ、さらに駆け込みで現れる闖入者。

 

「やれやれ、城内が騒がしいと思えば……こちらで一体、何をなさっておいでかな。楊皇叔」


 夜風に白い美髯をなびかせながら現れたのは、宰相──劉伯叡(りゅうはくえい)である。

 

「劉宰相……! なんだ、あのババアは貴公の差し金か!」

「ええ。陛下のキョンシー患いを治療するため、遥々簡州慶雲山からお呼びした、洪峰霞(こうほうか)道士です。キョンシー治療に関しては当代一の腕前ですよ、彼女。ああ、そうそう……」


 つらつらと語った後に、劉宰相はこう付け加えた。

 

「じつは洪道士は、洪皇后の祖母君であらせられます。おそらくは皇后陛下にもキョンシー治療の心得があると見、私どもも敢えて手を出さず見守っていた次第。これまで陛下が暴走しなかったのも、きっと皇后陛下のひとかたならぬお世話のお陰でしょう。並みの道士ならば、護符を貼ったくらいで制御なんてできませんから」

「なにをいけしゃあしゃあと……!」

「ところで」


 宰相は白く長いひげをさすりつつ、落ち着いた口調で尋ねた。

 

「先刻、兵が大挙して皇后宮へ押し入ったとお聞きしています。それも楊皇叔の指揮であったと……」

「洪春霞は欲心から陛下を手にかけ、キョンシーに貶めた逆賊である! 我らはかの女狐を捕らえるために兵を動かしたまで!」

「ほう、なんの手続きも取らずに」

「うぐっ」


 しれっと皇叔の痛いところを突いて。老宰相は「ふふ」と老獪に笑って見せた。

 

「まあ、詳しい話は後ほど伺いましょう。陛下が元のお人に戻ったときに」

「ば、ばかな! キョンシーから人間に戻れるはずが……!」

「ま、見てなさいな」


 さて、大将軍と宰相が見守るなか。

 

 ババアとキョンシーは丁々発止、木剣と爪牙で渡り合っている。

 

 春霞のババアは御年七十七。喜寿である。けれども身のこなしはまるで子どものような──というか、猿のようである。小柄な体をしならせ、跳躍し、呼吸を巧みに操ってキョンシーを翻弄し。

 それはまさしく、春霞の良く知るババアの姿であった。道士をやってたのは知らなかったけど。

 

「ババア……健在ね!」

「これ春霞! 高みの見物決め込んでねえで手伝え!」


 観戦の体勢に入っていた春霞へ、どこにしまい込んでいたのだろうか、ババアは木剣をもう一振り取り出して投げつけた。

 

 孫は「臨月の妊婦に無理させんなクソババア!」と悪態をつきつつ、難なく飛来する木剣の柄を掴む。

 

 この瞬間。僥信はババアの口臭から彼女の死角を割り出し、攻撃を加えようとしている。祖母の脇腹を狙う鋭い爪を、あわやのところで木剣で防ぎつつ。

 春霞は戦いに乱入した。

 

「で、ババア! どうすればいい!」

「あんたちょっと見ないうちに、いっそう口が悪くなったねぇ。地元にいるころは『おばあちゃん♡』って呼んでくれたのに」

「うっさいババア! てかお腹の子に何かあったら許さないかんね!」

「この戦闘は専門家の監修のもと、妊婦の健康、安全に配慮して行ってるよ! 春霞は特殊すぎるバチクソ丈夫過ぎ妊婦なので、素人は絶対に真似しちゃダメ絶対!」

「いったいどこの誰に対する説明と配慮だクソババア!」


 孫と祖母はじゃれ合いながらキョンシーの攻撃をいなしている。ババアは鋭く斬り込んでくる爪を剣で弾いた後に、口を開いた。

 

「で、本題だ。陛下を元に戻すには──霊魂を修復するんだよ」

「霊魂……」

「皇帝陛下の霊魂は、いまバラバラの状態さね。実はババアはこの宮中で、それをかき集めてきたのさ」


 言いながら、ババアは背負っている背嚢(はいのう)を後ろ手でべしべしと叩く。そこに入っているのか。皇帝の失われし魂が。

 

「ただ、一部どうしてもすでに消えちゃったものがあってねぇ。それを今からなんとかしてやらなきゃなんないってわけだ」

「それ、一体何なの?」

「記憶さ!」


 爪を躱しながら、ババアは皺の寄った目元でにんまりと笑う。

 

「いやぁ、霊魂の中でも、感情を失わずに済んだのは良かった! 喜怒哀楽を失っちゃ、たとえ人間に戻ってもその後の人生が悲惨さ。その点、記憶ってのは、魂の中でも一番蘇らせやすい部分だ。なにせ、それを語って聞かせてやればいい。あんたの魂で、ちゃんと記憶を呼び覚まして、陛下に教えてやればいい! そうして記憶の間隙を繋いでやれば、霊魂は再び蘇る!」

「バ、ババア……いったいなにを言ってんの?」


 ガァ! とキョンシーがババアへ再び食らいつく。老女はうまいこと亡者に木剣を咥えさせて攻撃を防ぎ、にやりとこちらを振り返った。

 

「春霞。あんたと陛下には実は──幼少の因縁がある。それを思い出しな!」


 はぁ? と春霞は首を傾げた。

 

 皇帝、楊僥信と洪春霞は──あの晩が初対面だったはずだ。

 あの、絶命確定生搾りの晩。

 

(──いや、待って)


 ふと、春霞の脳裏に今までの記憶が去来する。

 回想の始点は、幼少期にまでさかのぼる。

 

 故郷、簡州慶雲山。

 崖下に倒れていた少年。

 おそらく大層やんごとない身分の、豪華な身なり、品のよさ……。

 

 あっ……と春霞は声を上げてしまった。

 つながってしまった。何もかも。というかなんで今まで気づかなかったんだ。

 

 あのとき──故郷の山で出会い、結婚の約束をしてくれた少年は……。

 楊僥信。彼だったのだ。

 

 記憶の中で曖昧だった少年の顔が、春霞の内ではっきりとした輪郭を描く。僥信の面影を宿して。

 

『春霞。いつか必ず迎えに行く。だからそれまで、誰にも嫁がないでくれ』


 少年が都へ帰る日。ふんふらふ~ん♪ と鼻歌を歌ってるところ、ひと気のない場所へ呼び出されたかと思えば。

 突然の求婚の言葉に、春霞は「ふふふん」とドヤ顔で笑ってみせたのを覚えている。

 

『ふふーん、それはどうかしら。春霞飽きっぽいから、あまり長くは待てないかもよ?』


 なんて春霞はおしゃまに答えてみせたけど、それから娘は十数年は待ち続けた。結局飽きて後宮に入っちゃったけれど。

 

『だから、お迎えなら早めによろしくね。信にいさん──』


 信にいさん。それが幼い春霞からの、僥信への呼び名であった。いま考えれば、皇帝の(いみな)をもじった呼び名なんて畏れ多すぎてサーセン! って感じだけれども。

 

「信にいさん!」


 木剣でキョンシーの爪を受け止めながら。春霞は思いっきりそう叫んだ。

 

「ごめんなさい信にいさん! 私、全ッ然陛下が信にいさんだなんて気づいてなかった!」


 ギリギリと攻防のさなか。春霞は必死で呼びかけている。目の前のキョンシーの瞳が、少しだけ戸惑ったように揺れた……気がする。

 

「やっと思い出したね春霞!」


 ババアが快哉の声をあげる。


「まったくバカでアホな娘だよあんたは! 想い人の正体に気付かず十何年も待ち続け、そんで諦めた挙句──その想い人のところへ嫁いだのにさ! 嫁ぎ先でもまったく気付かないだなんて、ばあちゃん情けなくて涙出てくらぁ!」

「くそっ、ぐうの音も出ねえ!」


 ババ孫漫才は置いといて。

 春霞は身重の身体を俊敏に跳躍させ、皇帝キョンシーから距離を取る。

 キョンシーは……「ぐ、う」と呻きながらふらついている。目を見開き、俯いて。もしかすると、記憶が蘇りつつあるのかもしれない。

 

 思えば僥信は一途だった。

 後宮でも、趙皇后をはじめ、他の妻妾には手を出さず、貞操を守り。

 あの夜、春霞の寝所へ来たときも。緊張しながらではあったけど、真摯にとりとめもない会話から関係を深めようとしていたのに。

 

(それを……それをアタイ!)


 春霞は長年の想い人の成長した姿に気付かず、あろうことか即寝台に連行し、精根尽き果てるまで犯し尽くして腹上死させてしまった。

 しかもキョンシーにして垂簾政治を目論んだとかいうおまけつき。

 

(アタイはアホや!!)


 幼少の記憶が蘇るとともに、僥信の言動が過去の出来事と符合を見せていく。

 同時に春霞のアホっぷり、強欲っぷりも浮き彫りになる。やはりろくでもない女だ。けれど。

 

 春霞はキッと正面を見据える。僥信は月下、青白い顔で頭を抱えている。

 春霞のアホさはどうあれ、皇帝、楊僥信には元の人間に戻ってもらわなければならない。

 あのときの信にいさんに、戻ってきてもらうには──。

 

「いいかい春霞! 私はあんたに合わせる! 皇帝陛下を蘇らせる最高の愛の言葉、ちゃんと考えな!」

「応!」


 孫とババアは連携し、キョンシーを前後から取り囲んだ。

 ババアは背嚢から何かを取り出す仕草をした。何かを掴んでいるようで、何も掴んでいない。しかし春霞には分かる。ババアはきっと、宮中でかき集めた、皇帝の霊魂を握りしめている。

 

 慶雲山の祖母と孫に、もはや言葉は不要。眼差しだけで意思を交わし、春霞は皇帝キョンシーへ──僥信へ向けて口を開いた。

 

「信にいさん……いいえ僥信! いつまでキョンシーやっとんじゃてめゴラァ!」


 ダッ! 孫とババアは同時に駆け出し、挟撃する。ババアはキョンシーの背中めがけ、霊魂を握りしめた拳を振りかざし。

 春霞は木剣を頭上高くに振り上げて、キョンシーの脳天へ狙いを定めた。

 

「元の僥信に戻って、ちゃんと私のこと迎えに来いやーっ!」


 それが春霞なりの、愛の言葉であった。

 

 べちこん、とキョンシーの脳天を木剣が叩く。

 同時にババアの拳が、亡者の背中を打ちすえた。


 そしてキョンシーの動きが──止まった。

 

 皇帝はもう、死んでいない。


      ── ── ── ── ── ──


「ガ……が……」


 前後から、記憶と霊魂を打ち込まれ。キョンシーは──楊僥信へ戻っていく。

 

 柔らかく膝を折り。地面にぺたりと両手をついて。

 鋭く伸びていた爪と牙が縮んでいく。

 青年の肌に生気が戻った。頬には赤みが差し、紫の唇には血色が戻っている。

 

 僥信はしばらく、四つ這いのままで呆然としているようだった。

 キョンシーは目が見えない。だから人間に戻り、急に復活した視界に戸惑っているのだろう。

 やがて僥信はおそるおそる顔を上げた。まるで、悪い夢から覚めたかのような顔で。

 

「しゅ……春霞……」

「ヴァーーッ! 信にいさーん!」

「ぐふっ」


 春霞は木剣をぶん投げて、奇声を上げつつ僥信へ抱き着いた。あまりの勢いに、皇帝は頭突きを食らって悶絶している。

 

「ご、ごべんだばい! わ、わたし信にいさんのこと、すっかり忘れてて……! ヴァー!」

「う、うるさ……鼻水やば……」


 その光景を、やれやれと見守るババア。うむうむと頷きつつ髭を撫でている劉宰相。あっけに取られている楊皇叔に趙元皇后。乳首を隠してる兵士たち。

 

 衆目のなか、春霞がまず口にするのは──懺悔である。

 

「ごめんなさい、信にいさん……じゃない、陛下……。私、陛下のこと、搾り取り過ぎて殺しちゃったうえに、キョンシーにしちゃって……」

「改めて言葉にされるととんでもない行いだなぁ」

「私、垂簾政治っていうのに憧れてて! やってみたいなって! だから確実に妊娠しようと思って! つい!」

「発想やば……」


 僥信は少し体勢を整えて、改めて春霞を抱き寄せた。

 青年は十数年待たせた想い人を、ちゃんと迎えなければならない。約束通りに。

 

「春霞……。あの晩後宮で再会したとき、ちゃんと幼少の約束事を切り出せなかった私を許してほしい。照れくさかったんだ。でも、あのときちゃんときみに思い出してもらえていれば、こんなことにはなってなかったのかもしれないね」

「信に……陛下……」

「信にいさんでいいよ。思い出してくれて、ありがとう。……それにしても、私たちは順序がめちゃくちゃだ。ものすごい紆余曲折だね」


 そう言って、青年はへにゃりと笑った。

 僥信の言う通りだ。終点こそ長年の恋の成就だけれども、そこにたどり着くまでの経路がしっちゃかめっちゃかである。まず初手で腹上死、次にキョンシー、懐妊からの宮中大擾乱(だいじょうらん)

 

「信にいさんの言う通りじゃあ~! わしゃあなんちゅう愚かな女じゃ!」


 お国訛りもろ出しで嘆く春霞に、僥信は柔らかく微笑んだ。

 

「改めて、洪春霞殿にお願い申し上げます」


 皇帝陛下は抱き合ったまま、少しだけ身体を離して春霞の目をじっと見た。幼少期の面影を宿す瞳は、柔らかくて優しい。

 

「どうか、この楊僥信の妻として──生涯傍らに寄り添ってください」


 求婚の言葉は彼らしく素朴である。

 春霞は──。

 

「む、むむむ、無理!」

「え」


 まさかの拒絶。しかし致し方ない。だって彼女は前科モリモリ。

 

「わ、私一度、陛下を殺してるし」

「でも故意じゃない」

「キョンシーにしたし!」

「でもいま私は生き返ったよ?」

「垂簾政治に憧れてるし!」

「もし私が早死にしたら、ぜひきみにお願いしたいよ」

「くそっ、ことごとく論破するな! あと長生きしろ! マジで!」


 腕の中でぐぬぬしている春霞に、僥信は改めての返答をせがむ。

 

「で。春霞、返事は?」

「……あ、う」


 アホで強気で強かな女は、顔を真っ赤にしてうつむいた。

 春霞にしては弱気な小さいつぶやきが、返事を告げる。

 

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

「春霞!」


 わぷっ、と春霞は彼の胸の中に埋もれている。

 僥信の頬は、さっきまでの死人っぷりが嘘のように薔薇色に染まっている。


 皇帝は元の人間に戻り、長年の想い人と一緒になりました。めでたしめでたし。


……とはいかない。居合わせた中に、納得できない者が二名。

 

「おいおい! 私は認めないぞこんな展開!」

「そうよそうよ! 結局そいつ──陛下を殺した毒婦であることに変わりはないじゃない!」


 楊皇叔と趙元皇后だ。

 怒り心頭の楊皇叔は、皇帝陛下へ声高に異議を唱えた。

 

「陛下、お考え直しください! 結局そいつは野心にまみれた毒婦! たとえ今回のことをお許しになったとしても、今後また悪心を起こさぬ保証はありませぬ! 即刻、処刑を!」


 大将軍の一喝に、いまは僥信は怯えず、ただただ叔父をじっと見据えている。

 そして皇帝は意を決したように立ち上がった。これまで恐怖の対象であった大柄な叔父へ、反駁の言葉を叩きつける。

 

「笑止、毒婦で何が悪い! 天下を統べる帝王たる者、並び立つ妻がまともな感性では物足りぬ!」

「んなッ……!」


 これまで「暗君」と思われていた若者の、尊大な物言いに。

 楊皇叔はたじろいだ。まさか開き直られるとは思わない。

 そんな楊皇叔の後ろから、彼の肩をポンと叩く老宰相。劉宰相はにこやかな笑みで、皇叔へ語り掛けた。

 

「ふふふ、皇叔。果たしてあなたに洪春霞を糾弾する資格がありましょうか。これ、十年ちょっと前のあなたの日記」

「あっ、それ! なんで持ってんの!?」

「いえいえ、洪道士が宮中で陛下の霊魂をお探ししている際に、偶然見つけたそうでしてね。えーとなになに? 簡州慶雲山行啓の折……?」

「やだーっ! 読まないでー!」


 はてさて。

 皇叔──楊劈仁(ようへきじん)は十数年前、当時の皇太子・楊僥信の慶雲山行啓に同行し、彼の警護を担当していたものの。

 幼い皇太子を山の崖へ誘導して、暴行を加えたうえ崖から突き落とし、殺害を謀った。

 

 すべては皇位継承権を簒奪するために。

 

 日記に書かれていたのは、そのときの計画に関わる全てである。

 しかし僥信は結局生還した。幸い、幼き日の春霞に発見され、彼女とその祖母による介抱を受けて命を取り留めたからだ。

 

 十数年越しに暴かれる、楊皇叔の企み。劉宰相は日記の一部始終を読み終えて、被害者・楊僥信本人へ確認する。

 

「……というあらましで、合っていますか陛下?」

「うん、間違いなく。正直一度死ぬ前の私は、はっきりとは記憶していなかった。おぼろげに叔父上が恐ろしかったことを覚えていてね。それで、朝見のたびに叔父上に怯えていたんだと思う」


 そこで僥信は、傍らの春霞に視線を落とす。

 

「でもいまので全部思い出した。妻が記憶を繋いでくれたから……」


 というわけで、被害者本人による証言も出そろった。劉宰相は警吏を呼び、粛々と楊皇叔を捕縛させている。皇叔は若干抵抗のそぶりを見せていたものの、大勢の警吏に囲まれて意気消沈したようだ。「もう帝位簒奪はこりごりだよーっ!」と喚きつつ、刑場へ護送されていく。

 

「趙さんとやら。あんたはうちにきな」

「え?」


 ババアはババアで、なぜか趙元皇后へ話しかけている。趙金蓮はきょとんとするけれど。

 

「見たところ、あんた薬湯に関して才能がありそうだ。きな。慶雲山(ウチ)で鍛えてやる。第二の人生、始めてみないかい?」


 いいだろ? とババアは皇帝と皇后へ目配せする。春霞は僥信の代わりに、「もち!」と親指を突き立ててみせた。

 

「ハイ大団円! 撤収~!」

「お疲れっしたー!」


 そんなこんなで、しっちゃかめっちゃかな一夜が明ける。兵士たちは乳首をおさえながら三々五々散っていった。

 

「……久しぶりの朝日だな」


 東の空を眺めつつ、僥信がつぶやいた。キョンシーは日光が弱点だから、陽光を見ること自体が久々だ。

 白く眩しい暁光に、青年の整った面持ちが照らし出されている。

 その横顔を見つめながら春霞は思った。長じてからの彼の顔を、春霞は暗い夜の闇の内か、死に顔になってからしか見たことがない。だから幼い頃の面影に気付かなかったのかも──。

 

 あとなんかめっちゃお腹痛い。

 なんかこう──生まれそう。

 

「し、信にいさん……やばいかも」

「しゅ、春霞?」

「生まれる……!」


 どわっ! とその場の全員が焦り散らかした。

 

 疾風怒濤の展開に、誰もがひと息つく暇もない。

 僥信はひたすらおろおろ、それをババアが「しっかりおし!」と励まして、趙元皇后は毒汁の入っていた鍋を手に「産湯を沸かしてきます」と慌てていて、それを劉宰相が「その鍋やめてマジで」とたしなめている。

 

 おぎゃあと産声の響く頃には──空に彩雲がかかっていた。

 

      ── ── ── ── ── ──


 史書に曰く。

 

 楊僥信は希代の仁君であった。政をよくし、民を安んじ、臣民問わず心を砕いて慰撫を尽くした。

 ただ──「腹上死したうえ一時キョンシーと化し、のちに生還する」などという荒唐無稽な記述に関しては、作り話として後の世の史家には黙殺された。本当のことなのに。

 

 名君と伝わる夫とは逆に。

 その皇后、洪春霞にまつわる史書の記述は、まさしく悪女を描く筆致である。アホで強欲で強かで、どこかしら豪快で。夫君をキョンシーに貶めたり改心して彼を生還させたりと、虚実曖昧で強火すぎる言動が多く、彼女の功績、もしくは存在自体が虚構だと考えられている。実在してるのに。


 夫妻は後世の歴史愛好家から非常に愛された。ネタ的な意味で。


 真面目でちょっと気弱な夫に、頭のネジがはずれた妻。でこぼこ夫婦は力を合わせ互いを励まし合い、天下に安寧の世をもたらしたという──。

 

      ── ── ── ── ── ──


「よーしよーし、あぶぶぶぶ~」


 百花咲き乱れる庭園で。春霞は腕に抱いた赤子をあやしていた。傍らには、少し自信のついた顔つきの楊僥信。

 夫婦は赤子を連れて紫庭を散歩している。うららかな春の日、あたたかな空気のなか、泳ぐように蝶が舞っている。

 

 生まれた赤子は女の子だった。春霞の腕の中で、蝶へ手を伸ばしながらきゃっきゃと笑っている。

 皇嗣ではなかったけれど──春霞は幸せだ。

 とはいっても。

 

「ねえねえ、信にいさん。やっぱり男の子ほしいよね~」

「え!? いや、あの……」


 僥信はぎょっとしながらこちらを振り向いた。「子ども生んだばかりでする話!?」と驚いている彼へ、「だってあなた皇帝でしょ」と春霞は当然のように返す。

 

「ま、いまは産後で身体も辛いし、先々の話と思ってもらっていいんだけどさ~」

「ほっ……」

「ちょっと! なんで安心してるの!」

「だ、だってきみが子作りの話をすると、その……」


 僥信は赤くなるやら、青くなるやらである。

 そんな夫君へ、春霞はにんまり笑ってみせた。

 

「ふふふん、だーいじょうぶ! もし死んじゃっても、またキョンシーにしてあげるから!」

「ヒッ……」


 皇帝、楊僥信は完全に恐怖している。春霞は「冗談冗談! わっははは!」と豪快に笑っているけれど。

 わなわなと怯えながら、青年は懇願するように告げた。

 

「もう、殺さないで……」


(おわれ)

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