第4話 友人という名の観察者②
同じ日の夕刻。カトリーヌは伯爵家を後にしてすぐ、ある街角で足を止めた。人気の少ない裏通りに、レオンハルトの取り巻きの一人がいると知っていたからだ。彼は公爵家の従者で、レオンハルトに仕える若い男だった。
カトリーヌは“偶然”を装い、その従者と鉢合わせする。
「あら、こんなところでお会いするなんて奇遇ですわね」
「カトリーヌ様……こ、こんにちは」
従者は驚いた様子だ。まさか、こんな路地裏で名家の令嬢に声をかけられるとは想像もしなかったのだろう。
カトリーヌは軽く微笑み、相手の様子を探るように視線を走らせる。どうやら公爵家の用向きで外回りをしていたらしい。これ幸いと、彼女は問いかけの糸を引く。
「あなた、レオンハルト様のそばに仕えてるんですってね。少しだけお話を伺いたいことがあって。リディア様のこと……ああ、いえ、ちょっとした噂話ですよ」
リディアの名が出た瞬間、従者がわずかに顔を曇らせるのを見逃さなかった。やはりあの夜会の件は公爵家でも大きな話題になっているらしい。どうやらレオンハルトは“あの破棄事件”に関して多少なりと気にしている、という情報を持っていそうだ。
カトリーヌはわざと遠回しに、リディアが今どうしているか、どんな行動を取っているか、探りを入れる。従者は最初こそ警戒していたが、カトリーヌの柔らかな口調と美しい微笑に気を許し始め、ついには簡単に会話に応じてしまう。
「……そうですか。リディア様があれほどお怒りとは。レオンハルト様はあまり気にしていないように見えますが、周囲は何かしら警戒している部分もあるんですよ」
「まあ、そうなのね。大変そうだわ。もし何か私にも協力できることがあれば、おっしゃってね。私、昔からリディア様と親しい友人でもありますし、あまり事が荒立つのは望んでいないの」
(本当は、どれほど荒立とうが面白いわね、だけれど――)
心の声を噛み殺しながら、カトリーヌは社交の笑みを絶やさない。従者は「ありがとうございます」などと安直に返事をし、あっさりと胸の内を明かしていく。レオンハルトがシャーロッテを連れてどこそこへ行ったとか、最近は公爵家内でもゴタゴタが多いとか、さほど大きな情報ではないが、カトリーヌにとっては十分な“餌”だ。
「本当に助かるわ、教えてくださって。私もリディア様との仲をどう取り持つか、考えてみなくては」
「いえ、たいしたことでは……。それでは、これで失礼いたします」
従者が去った後、カトリーヌは一人きりでふふっと笑みを漏らす。レオンハルト側にも近づき、リディア側にも手を貸す。二つの陣営の間を行き来して、混乱が深まるのを眺める――それこそが彼女の望む展開。
自分はあくまで派手な行動は取らず、傍観者として観劇する。誰が先に破滅するか、どれほど醜く争うか。その過程を最前列の席で楽しむのだ。
「まったく、面白い展開になりそうじゃない。リディア、そしてレオンハルトとシャーロッテ……どこまでやり合うのかしら」
その独白は小さくて、路地裏の風にかき消されていく。けれど、その冷めきった笑みはまるで優美な悪魔のように妖しげだ。彼女の眼には、すでに結末を予感する輝きが浮かんでいる。
◇ ◇ ◇
夜。伯爵家の一室で、リディアはシエラと向かい合っていた。いつものようにシエラが静かに控えているが、その表情は硬い。先ほどからリディアに対して、カトリーヌのことを再度忠告しようかと迷っている。
「リディア様……今日のティータイムはいかがでしたか?」
「うん、カトリーヌといろいろおしゃべりしたわ。やっぱりあの子は頼りになるわね。レオンハルト周辺の話も少しだけど持ってきてくれそうよ」
「ですが、あの方にはお気をつけください。私から見ると、カトリーヌ様はどうしても信用しきれないと申しますか……」
「またそれ? あなたは本当にカトリーヌを疑ってるのね」
リディアは苦々しい表情でシエラを見やる。シエラは視線を下に落とし、声をひそめる。
「私の直感にすぎませんが……あの方は、リディア様が破滅する姿を見て楽しむタイプに思えるのです」
「そんなはずないわ。確かに少し変わったところはあるかもしれないけど、彼女は私の『友達』よ」
言い切られた瞬間、シエラの胸にわだかまる不安はさらに大きくなる。しかし、リディアが耳を貸す気配はない。
それを見てシエラは沈黙するしかなかった。今のリディアは、心を支えてくれる相手を強く求めている。その対象がカトリーヌだというなら、下手に否定して溝を深めるわけにはいかない。何より、リディアが幸せならば自分の存在意義も損なわれない――そんな歪な気持ちすら湧いてくる。
「カトリーヌは私の計画にも協力してくれるかもしれない。彼女ならうまく社交界を泳いで、いいネタを持ってきてくれるわ」
「そうですね……分かりました。どうかお気をつけください」
「ええ、ありがとう。あなたはあなたで、父様の指示に従って公爵家の弱みを探ってちょうだい。レオンハルトだけじゃなく、シャーロッテの方にも目を光らせなきゃ」
リディアは苛立ちを押し殺したまま、シエラに命じる。シエラは深く頭を下げて部屋を後にする。
ドアが閉まると同時に、リディアは息を吐き出すようにしてぼそりとつぶやいた。
「本当に……みんなが私を欺こうとしてるわけじゃない。カトリーヌだけは違うの。あの子だけは、私の味方でいてくれる。……そうでしょう?」
瞳を閉じると、庭先で優しく笑うカトリーヌの姿が脳裏に浮かぶ。幼い頃から同じサロンで出会い、互いを称え合ってきた関係。リディアは盲目的なまでに「彼女は友人だ」と信じていた。
だけど、その想いは危うい足場の上に成り立っている。カトリーヌの心の底には、誰にも分からない暗闇があり、そこでは他人の破滅を肴にして笑う冷酷な本性が渦巻いているのだから。
◇ ◇ ◇
翌日の朝。カトリーヌは自宅の一室で手紙を開いていた。内容は公爵家との晩餐会についての情報。レオンハルトやシャーロッテが出席するらしい。それを読んだカトリーヌは、ゆっくりと微笑む。
「この晩餐会にリディアが来ることはないでしょうし……私はひそかに顔を出してみようかしら。そこで得られる情報をリディアに伝えてあげたら、彼女はきっと喜んでくれるわね」
そうつぶやきながら、手紙を机の上に置く。その手紙とは別に、リディア宛ての書簡が山積みになっているが、カトリーヌはわざと中身を確認しない。相手が気になるなら自分から話題を振る。リディアが翻弄される姿を想像するだけで心が躍るのだ。
愛でも友情でもなく、破滅の兆しを観察する快楽が、カトリーヌを突き動かしている。まるで高価なドレスをまとった怪物のように、彼女は優美な笑顔を崩さないまま、他人の運命を弄ぶ算段を巡らせる。
「もっと面白いことになりそう……リディアも、レオンハルトも、シャーロッテも。誰が一番先に壊れるかしら。どちらにせよ、私にとっては最高の娯楽よ」
部屋にはカトリーヌ一人。誰にも聞かれないと確信して、低くくつろいだ声で笑みを漏らす。その顔は氷のように冷たくもあり、かつ情熱を帯びた危うい輝きに満ちていた。
そう――彼女は傍観者にして煽動者。友人という名を借りてリディアの内面を侵食し、公爵家にも近づき、好き勝手に情報を操るのだ。すべては壮大な悲劇を最高の座席で観劇するために。
狂った世界。そこでは表の仮面を巧みに使い分ける者ほど強くなる。きらびやかに繕われた社交界の裏側で、カトリーヌ・フォン・エイヴァリンはひそかに唇をほころばせる。
――「もっと面白いことになりそう」。
彼女のささやかな独白は、やがて訪れる破滅の予感を、ひっそりと告げていた。




