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第3話 侍女の献身②

「リディア様、ただいま戻りました」


 深夜、伯爵家の離れにあるリディアの部屋を訪れたシエラは、控えめにノックをした。すでに屋敷のほとんどは眠りについているが、リディアはまだ灯りを消していないらしい。


「……こんな夜更けに、ご苦労だったわね」


 扉の向こうから聞こえるリディアの声は少し疲れているようにも思えた。彼女がドアを開けると、わずかに香る薔薇の香りと、ランプの淡い光が部屋に落ちている。


 シエラは静かに中へ進むと、小さく息を整えながら言葉を発した。


「本日、少しではありますがレオンハルト様の動向について探りを入れてまいりました。現段階での情報は、こんなところです」

「へえ……」


 シエラが差し出した紙には、メモのようなものが書かれている。字体は整っており、簡潔にまとめられている。リディアはその文字を追いながら、時折顎に指をやり考え込む。


「なるほど。あの男、シャーロッテとだけじゃなく、ほかの女とも密会している可能性があるのね。やっぱり最低な人間だわ」

「ええ、そう思われます。公爵家の側近の噂によれば、夜の街に出入りしているとのことも……。おそらく、あまり公にしたくない交遊がありそうです」

「ふん。これなら父様が計画しているスキャンダル工作にも利用できそうね。……シエラ、どうやってこの情報を?」

「その……少しお話ししただけです。大丈夫ですよ」


 シエラはにこりと微笑む。その唇の端には、先ほど拭いきれなかった血の痕がほんのわずかに残っていた。


 リディアは一瞬、不思議そうに首を傾げるが、次の瞬間、彼女の目が爛々と輝く。それはまるで「あなた、何かやったのね?」と問いかけるような光だった。


「シエラ、まさかとは思うけど……危ないことしてないでしょうね」

「いいえ、大丈夫です。リディア様に迷惑をかけるようなことはしておりません。全て、わたくし一人で済ませられる程度の行為です」

「そう……。まあ、どんな手段を使っても構わないわ。私の邪魔にならなければね」


 リディアの言葉に、シエラはうっすらと笑みを浮かべて首を横に振る。そう、どんな手段でも、結局はリディアのために使われるものであれば、許される――シエラはそう信じている。


「本当に、あなたって不思議な子。……ちょっと怖いくらいね」

「リディア様が怖いと仰るなら、私の存在価値もあるということですわ。喜ばしいことです」

「ふふ……。あなたがそれで幸せなら、私も助かるけど」


 リディアは少し疲れたように笑う。最近、父アルトゥーロの要求もエスカレートしてきて、対公爵家に向けた工作の下準備が忙しいのだろう。そんな中、シエラの情報は格好の材料になる。


 シエラは心中で、リディアの負担を少しでも減らせるのなら何でもする決意を新たにする。


「使用人の間でも、あなたに関わると消されるなんて噂が立ってるみたいよ。聞いたわ」

「そうですか。皆さん、騒ぎすぎですよね。私なんて、リディア様に比べれば何の力もありませんのに」

「いや、あなた……結構怖いわよ? さっきから血の匂いがする気がするし」


 リディアが鼻をひくつかせて苦笑する。シエラは内心で「しまった」と思ったものの、慌てた様子は見せずに首をかしげてみせる。


 その姿に、リディアは少し呆れながらも、どこか嬉しそうだ。まるで、自分のために不気味な仕事すら躊躇しない侍女を頼もしく感じているのだろう。二人の空気は、まるで共犯者のように怪しく溶け合っていく。


「でも、ありがとう。あなたがそうやって動いてくれてるおかげで、私も公爵家を一歩ずつ追い詰められるわ」

「いえ、リディア様のためなら。私は……あなたの笑顔が見たいだけなんです」


 その言葉に、リディアはほんのわずかに目を見開く。けれど、その表情はすぐに冷たい微笑みに変わった。


「私が笑顔になるときは、あいつらが地獄を味わう瞬間かもしれないわね」

「……素敵ですね。きっと、そのときのリディア様は最高に美しいと思います」

「シエラ、あなた……ほんとに変わってる」


 しかし、リディアは拒絶しない。むしろ、肩の力が抜けたようにリラックスした雰囲気になっている。彼女の暗い怒りを受け止め、かつ、どんな手段もいとわないと宣言する侍女――それがシエラだ。


 使用人たちはその闇に気づき、遠巻きに彼女を恐れている。だが、それでいい。シエラにとってはリディアさえいれば十分だから。


「これからまだまだ大変になるけど、あなたを頼ることが増えそう。よろしくね、シエラ」

「はい。何でも仰ってください」


 長い沈黙の後、リディアは首を少し振ると、部屋の窓辺へ歩み寄る。月明かりを背にした彼女の姿は、凛として妖艶だ。まるで夜の女神が微笑んでいるように見える。


「さて、情報は手に入った。あの男がシャーロッテ以外にも女を囲っているかもしれないという事実……。どう動かすかは私次第。でも、どうせなら最高に惨めな目に遭わせてやりたいところね」

「リディア様……」

「ふふっ、これからもっと調べてちょうだい。私はあいつらに無様に転げ落ちてもらうための道を用意する。そのときになったら、あなたの力も借りるわ」

「はい。よろこんで」


 シエラは満面の笑みでうなずく。血の匂いさえ気にならないほど、この瞬間の幸福感がたまらない。リディアと共に堕ちていくなら、むしろそれは甘美な堕落ではないか――そんな考えすらよぎる。


 夜の静寂の中、二人の視線が交わり合う。そこには主従の言葉を超えた狂気が宿っていた。


「……それにしても、シエラ。この情報、父様にどう報告するかしら。適当に誇張してやろうかしらね。そうすれば、あの人はさらに熱心に公爵家を潰そうとするでしょ」

「伯爵様は、リディア様の思惑に沿って動く可能性が高いかと思われます。どのように駒を進めるかは、リディア様のお好きなように」

「うん。ありがとう。私、あなたがいれば何とかなる気がする」


 そう言って、リディアは小さく息を吐いた。今の彼女にとってシエラは、最も信頼できる存在なのかもしれない。たとえそれが歪んだ形であれ、リディアの心は少しずつ救われているのだろう。


 シエラにしてみれば、この上ない喜びだ。自分の命がリディアの役に立てるなら、どんな汚れ役でも(いと)わない。


「では、私は一度下がります。明日の朝にはさらに詳しい話を整理し、伯爵様に報告をなさるのでしょう?」

「そうね。時間を無駄にするわけにはいかないわ。あの裏切り者たちを苦しめる種は、早く育てないと」


 リディアが唇にわずかな笑みを刻む。それはどこか刹那的で、そして漆黒の欲望を帯びた妖しい笑み。シエラは、その姿にひれ伏さんばかりの気持ちで胸が締めつけられる。


 人はあまりに異常なものに接すると、恐怖と共に一種の陶酔を感じることがあるらしい。シエラが感じているのはまさにそれだった。リディアの狂おしいまでの復讐心と、自分自身の盲目的な崇拝。二つが混ざり合い、底のない暗闇へ落ちていくような快感が、シエラの背筋を伝っていく。


「シエラ」

「はい、リディア様」

「…………」


 リディアは言葉にはしなかったが、その視線は「次の行動も頼むわね」と告げていた。シエラは「もちろんです」と目で答え、頭を下げる。


 部屋を出る直前、リディアが背を向けたままささやいた。


「情報は手に入りました。あとは……どうしてやろうかしらね」

「ええ、楽しみですね。リディア様」


 最後の言葉をかわし、シエラは静かに扉を閉じる。緩やかな足取りで廊下を進みながら、心に込み上げるのは妙な昂揚感だ。今日、初めて直接的に血を流させた。それさえも、自分には恐怖よりも歓喜に近かった。


 リディアのために何ができるか。どこまで自分を捨てられるか。答えはもう決まっている。自分の命も、他人の命も、すべてリディアの意志に従って動く駒でしかない。もし、彼女がさらなる暴虐を望むなら、シエラはそれを実行に移すだけだ。


 廊下の先から、遠巻きに使用人の足音が近づくのが聞こえる。慌てた気配がある。おそらく、シエラがいると知って逃げ腰になっているのだろう。


 「シエラに関わると消される」――そんな噂を耳にするたびに、彼女は自分が少しずつ人ならざるものに近づいているのを感じる。しかし、それもまた構わない。もはや後戻りなど考えられないのだから。


「リディア様、私はあなたの手足として、何だってするわ」


 小さくつぶやきながら、シエラは暗闇に溶け込むように姿を消していく。誰よりも静かに、誰よりも危険な足取りで。彼女の歪んだ忠誠は、これからもっと深い闇を呼び寄せるだろう。血の匂いを帯びた夜の風が、それを祝福するかのように屋敷の中を吹き抜けた。

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