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第3話 侍女の献身①

 夜が更け、月明かりだけが静かに伯爵家の廊下を照らしていた。その淡い光の中、侍女シエラは一人、深い息を吐きながら立ち尽くしている。


 朝から今まで、リディアのために奔走した。だが、もっと役に立ちたい。心の奥底で疼く欲求が、シエラを駆り立ててやまない。


「……リディア様」


 小さくつぶやいたとき、扉の向こうから声がした。ここは彼女の部屋に続く前室。ドア一枚隔てた内側には、リディアの冷徹な輝きがあるはずだ。自分はその光に仕える影――そんな意識を抱くたびに、胸が高鳴る。


「シエラ? そこにいるの?」

「は、はい。今、入ってもよろしいでしょうか」


 リディアの声はまだ寝起きなのか、低く響く。それでも、深く冷たい美しさがにじむ声音だ。


 シエラはそっと扉を開け、ベッド脇に近づいた。すると、リディアがベッドの上でうっすらと目を開いているのが見える。夜会から数日が経っても、まだ不機嫌そうな雰囲気を(まと)ったままだ。


「昨日は父様とまた話してきたわ。公爵家の手の内を探る必要があるって、相変わらずしつこいの」

「そうですか。リディア様は、どう思われますか」

「どうって……興味はあるわ。あのレオンハルトの周りを嗅ぎ回ったら、多少は有益なネタが転がってるかもしれないじゃない」


 リディアは淡々とした口調でそう言うが、瞳には怨念めいた光が宿っている。シエラは、その燃え上がる憎悪すら(まぶ)しく感じるのだ。


 伯爵家の命令も、リディアの復讐心も、すべてがシエラを突き動かす原動力となりうる。彼女にとっては、リディアこそが絶対だから。


「わたくし、早速、レオンハルト様の動向を探る行動に移ります。いくつか当たりをつけておりますので、お任せいただけませんか?」

「……ほんと、頼もしいわね。父様もあなたには期待してるみたいだけど。大丈夫なの?」

「はい。私の力など大したことはありませんが、リディア様のご期待を裏切ることだけは断じていたしません」


 リディアのためなら、彼女はどんなことでもやってみせる。そう心に決めている。ほんの小さな女の子だった頃から、この想いは微塵(みじん)も揺らいだことはない。


 ――思い返せば、あれはまだ幼かった日のこと。



 周囲に人家などほとんどなく、ただ荒野のように広がる土地の片隅で、シエラは孤児同然の生活を送っていた。理由も知らずに捨てられ、着の身着のまま震えて過ごすしかなかった幼少期。


 彼女を辛うじて救ったのは、巡回する慈善事業の馬車だった。もっとも、それは純粋な善意というより、伯爵家が「表向きの慈善活動」として貧しい子どもを拾い上げる計画の一環でしかなかったのだが。


 当時のシエラにとっては、何もかもが天の助けに思えた。眠る場所が与えられ、最低限の食事も得られる。それだけでも奇跡で、彼女は必死に感謝した。


 しかし、伯爵家に引き取られた後の彼女が見た現実は、決して優しいものではなかった。使用人たちは孤児上がりのシエラを見下し、陰口を叩き、軽蔑のまなざしを向ける。ある者は下働きとして(しいた)げ、ある者はいやがらせをして嘲笑した。


 そんな日々の中で、唯一差し伸べられた光が、当時まだ若かったリディアの存在だった。ある日のこと、廊下の掃除をしていたシエラは、つまづいて花瓶を割ってしまった。価値のあるものではなかったが、周囲の使用人たちが一斉に責め立て、シエラに暴言を浴びせる。無力さに涙がこぼれそうになったとき、リディアがふらりと現れたのだ。


「うるさいわね。あの子をそんなに責めないで。花瓶が割れたくらいで、そこまで騒ぐなんて品がないわ」


 澄んだ声が廊下に響いた瞬間、使用人たちはぎょっとして口を閉じた。リディアは、まだ少女ともいえる年頃だったのに、その目には伯爵家の長女としての威厳がはっきりと宿っていた。


 そして、床にしゃがみこんでいるシエラを見下ろして、「もう大丈夫よ」とでも言うように軽く息を吐いた。


「あなた、怪我はない?」

「……は、はい。ごめんなさい、リディア様」


 シエラはあまりに(おそ)れ多く、顔を上げることができなかった。こんなに偉いお嬢様に声をかけられる日が来るなんて、考えてもみなかったからだ。


「ふうん。ま、反省してるならいいわ。……誰か、掃除用具を持ってきてちょうだい。これ以上シエラに文句を言うようなら、私が許さないから」


 この言葉が、シエラの胸を焼き尽くすほどの衝撃となった。まるで天使の救いを受けたように思えて、胸が苦しくなる。顔を上げたとき、リディアの横顔が目に入った。輝く瞳と凛とした態度。シエラは思わず心を奪われてしまった。


 その日以来、彼女にとってリディアは「絶対的な存在」となった。殿下でも騎士でも神父でもなく、ただリディアこそが自分を救い出してくれた神そのものに思えたのだ。


「ご主人様……リディア様」


 ぼんやりとその記憶を反芻しながら、シエラは廊下を歩いていく。すっかり暗くなった時間帯。今夜、彼女はリディアのために「初めての密偵行動」を行うと決めている。レオンハルト側の動向を探るのが目的だ。


 ただ、正式に命令を受けたわけではない。あくまで自発的な行動だが、結果としてリディアの役に立つなら、それこそが自分の存在価値だと思っている。



「い、嫌だ……そんなこと知らない! 勘弁してくれ!」


 暗闇の裏道で、男の情けない声が響く。その足元には血が一滴、また一滴と落ちていた。男は公爵家に仕える下級役人らしい。シエラはその男を追いかけ、路地裏へと追い込んだのだ。


 手には小ぶりな短剣。照り返す月光が、刃に鋭い光を宿す。怖れで顔を引きつらせる男を眺めながら、シエラは淡々とした口調で問いかける。


「あなた、レオンハルト公爵家の執事と仲がいいらしいですね。あの方がどんな女を囲っているのか、何か知りませんか」

「し、知るわけないだろ! 離せ、離せ!」

「嘘をつかないでください。あなたが常連だという酒場の情報も得ています。そこに公爵家の使用人が出入りしていると聞きました。……少しでいいので、こぼしていただけません?」


 凍りついたような口調。しかしシエラの瞳には、どこか微笑んでいるかのような優しさも宿っている。だが、男はその微笑に不気味さを感じた。普通なら、この状況で脅しをかけるならもっと怒声や威圧があるはず。けれど、彼女はむしろ穏やかに、助けを求めるように話しているのだ。


 男は恐怖で足を震わせながら後ずさる。


「な、なんでそんなこと……俺は、そんな大事に巻き込まれたくない。勘弁してくれ」

「ですから、少し情報を教えていただければ助かります。レオンハルト様の身辺がどうなっているのか、どんな動きがあるのか……。聞けないのでしたら、私も強引になるしかありません」


 次の瞬間、シエラの短剣が男の腕をかすめた。赤い筋がスッと描かれ、小さな悲鳴が上がる。血がにじみ、男は思わず地面に倒れ込む。


 シエラは驚くほど冷静なまなざしを向け、男の血を見つめたあと、軽くまばたきをする。それは、まるで切り傷を確認しているだけの行動で、恐怖も罪悪感も微塵も感じさせない。


「ああ……大丈夫です。傷は深くありません。ですから、これ以上私の手間を増やさないでくださいね」

「ひっ、ひいい! な、何なんだお前は……!」

「私はただの侍女です。私のご主人様のために、情報を集めているだけ」


 その言葉に震え上がり、男はやむなく口を開いた。公爵家の内情を少し知っているだけで、命を狙われるとは思っていなかったらしい。シエラは淡々と聞き出し、必要と思われる内容を頭の中で整理していく。レオンハルトが最近出入りしている場所や、シャーロッテ以外にも交友のあるらしき令嬢の噂など、断片的だが貴重な情報を引き出すことに成功した。


「ありがとうございます。あなた、いい人ですね。無駄な抵抗をしなければ、私も余計なことをしたくありませんから」

「く、くそ……どうか、もう許してくれ。漏らしたなんてばれたら、公爵家に殺される……」

「それは……ご安心を。誰かに話したなんて、あなたは決して言わないでしょう? そうすれば安全ですわ」


 そう言い残して、シエラは男の顔をそっと撫でる。その優しげな手つきとは裏腹に、男は脅えきっている。小さく悲鳴をもらし、もう立ち上がる力もないらしい。


 シエラは短剣についた血を衣服で拭い、月を見上げた。静かな夜風が肌を()でる。彼女は殺害まではしなかったものの、初めて見た他人の血に対して何の躊躇も抱かなかった。それどころか、「これでリディア様に一歩近づける」と、胸の高鳴りを覚えたほどだ。


「じゃあ、私はこれで失礼いたします。どうか、お大事になさってくださいね」


 微笑みを浮かべたまま、シエラはくるりと踵を返す。男が懇願するような声を上げていたが、彼女にはもはや無意味だった。目的の情報は手に入った。あとはリディアの指示を仰ぐだけだ。


 血に濡れた裏道を、まるで何事もなかったかのように歩き去るシエラ。その姿は、闇に溶け込む影と見分けがつかないほど無機質に見える。

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