第2話 父娘の暗部③
そのとき、ノックの音がした。扉を開けると、シエラが静かに入ってくる。いつの間にか手にはタオルや水の入ったボウルが用意されている。私が息を整える様子を見て、彼女はさり気なくボウルを机に置いた。
「お身体を拭いて差し上げます。ドレスも傷んでおりますし、少し落ち着かれたほうが」
「……そうね。手伝って」
言われるままに腰を下ろすと、シエラが丁寧に髪をほどき、からまった束をブラシで解きほぐしてくれる。冷たい水で絞ったタオルが肌を撫で、夜会でかいた冷や汗やワインの匂いを少しずつ洗い流していく。
「リディア様、痛くありませんか?」
「大丈夫。それより、もう少し強く拭いて」
苛立ちをどこにもぶつけられず、私はシエラの献身を受けることにした。彼女は私が厳しい口調で言っても一切動じず、むしろ嬉しそうに微笑んでいる。まるで、ご主人様に罵倒されるほど幸せを感じるかのように。
「本当にあなた、妙な子ね。私にそんなに尽くして、何か得になるの?」
「得になるとか、そんなことは考えていません。ただ、私はリディア様のおそばにいられるだけで満たされるのです。お仕事をさせていただけるなら、どんなことでもしたいと思います」
「どんなことでも、ね……」
先ほど父と交わした会話が脳裏をよぎる。シエラを駒として使う……。彼女がその覚悟を持っているのなら、まんざら不可能でもないのだろう。にわかには信じがたいが、彼女の言葉に嘘の色は見えない。
「分かったわ。私が本気であいつらを潰すとなったら、あなたに頼むことが出てくるでしょう」
「はい。リディア様のためでしたら、どんな人間を相手にしても構いません」
その静かな返事を聞くだけで、私の胸に奇妙な安堵が広がる。このどうしようもない怒りと屈辱を晴らすためなら、もう倫理や道徳など捨て去ってもいいという気持ちになりつつあった。
「父様は、公爵家の裏を探るつもりのようだわ。あなたにも協力してほしいって言ってた」
「了解しました。ご主人様の意向であれば、何でも」
ご主人様。そう呼ばれるのは悪い気がしない。むしろ、その言葉の響きが今の私には心地よくすらある。
「本当、変な子……でも、頼りにしてるわよ、シエラ」
「はい、リディア様」
私は軽く溜息をつく。破かれたドレスや乱れた髪など、外見の汚れは洗い流せば済む。けれど、この心に刻まれた屈辱は、きっとそう簡単には癒えない。だからこそ、それが復讐の火種になるのだ。あのレオンハルトとシャーロッテに、同じか、それ以上の苦痛を与えなければ気が済まない。
手短に身支度を整え、ベッドに腰かけた。シエラがキャンドルを片付けながら、こちらに一礼をする。
「今宵はゆっくりお休みください。大変なお疲れでしょう」
「ええ……そうね。あなたも休んでいいわ」
そう告げると、シエラは部屋から下がっていく。扉が閉まると、一気に静寂が戻ってきた。窓からはわずかな月明かりが射し込み、部屋の隅に影をつくっている。
私は毛布に手を伸ばしながら、ぼんやりと天井を見つめる。焼けつくような怒りと、父への微妙な不信感。あのレオンハルトとシャーロッテを葬り去るには、どんな下劣な手段でも選ばなければいいのだろう。それが伯爵家の思惑にも重なるのなら、問題はない。
明日からは激動の予感がする。父は裏社会に精通していると聞いているし、私にもそれなりのコネはある。シエラの狂信的な献身が加われば、恐らく単なる策略以上の恐ろしいことが起こるかもしれない。
「……いいわ。もっと、もっと苦しんでから滅びるがいい」
真っ暗な室内で私はそうつぶやく。まるで自分が台本を持つ脚本家のように、誰かの人生を操れるような予感が湧いてくる。レオンハルトへの愛なんて、とっくに崩れ去った。今は憎しみだけが私を突き動かす原動力だ。
しばらくしてまぶたが重くなると、レオンハルトとシャーロッテの顔が浮かんでは消えていく。婚約破棄の宣言で私を嘲笑ったあの光景……今に見ていろ。必ず取り返しのつかない闇へ沈めてやる。
その夜、私はほとんど眠れずに朝を迎えた。悪夢にうなされ、何度も目を覚ましたとき、脳裏に浮かんでいたのは彼らの断末魔だった。想像の中で、あの笑顔を歪ませて苦しむ姿が映る。私はそれを見て、少しだけ心が安定するのを感じた。
翌朝。淡い光が差し込む部屋で、私は体を起こす。妙な眠気と達成感がないまぜになった気分。だけど自分でも驚くほど、復讐への意欲が高まっていた。
「……さあ、始めましょうか」
誰にともなくつぶやく。鏡の中で、私の瞳は血走っている。それでも口元は笑んでいるように見えた。今この瞬間から、グラシア伯爵家と公爵家との暗闘が幕を開ける。私の尊厳を踏みにじったあの夜会を境に、すべてが変わっていくのだ。
シエラが部屋へ来るのを待つ間、私はぼんやりと考える。父も動き出すに違いない。あの人が本気を出せば、裏稼業を使って公爵家を引きずり下ろすことだって可能だろう。問題は、いかに慎重に進めるかだ。なにしろ、相手は公爵家。失敗すれば伯爵家ごと潰される危険がある。
でも構わない。私にとっては、どの道もう後戻りできない。ドレスを台無しにされたあの夜から、私の人生は狂い始めた。或いは、もともと狂っていたのを自覚しただけかもしれない。
「おはようございます、リディア様」
扉が開き、シエラが朝の挨拶をする。私は彼女に微笑み返しながら、ボサボサの髪をかき上げる。とにかく急いで身支度を整えないと。父がどう動き出すのか、今日にも確かめたい。
「おはよう、シエラ。今日は父様のところへ行くわ。あなたも一緒に来なさい」
「はい。どのような場にでもお供いたします」
シエラの声は相変わらず静かだが、確実に高揚を伴っている。彼女の奇妙な忠誠心が、私をより深い闇へ誘うことになるのかもしれない。それでも今は、その力を借りるしかない。
「レオンハルトとシャーロッテ……私を裏切った代償は、高くつくわよ」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。シエラは唇を綻ばせたまま、黙ってうなずく。そんな彼女の様子を一瞥し、私は立ち上がった。もう、後戻りなどできない。私を笑った者たちには、それなりの報いを受けさせる。それが伯爵家の手段、そして私の復讐心が導く答えだ。
扉を開け、廊下へ一歩踏み出した。その先に待つのは、きっと穏やかではない結末だ。けれど、甘美な破滅が手招きしているのを感じる。狂った世界で、私こそが最高に狂ってみせる――そう意気込んでこそ、この屈辱にふさわしい報復ができるのだろう。
父娘の暗部が、今、動き出す。夜会の一件はただの前触れに過ぎない。これから始まるのは、伯爵家と公爵家の暗闘という名の復讐劇。私とアルトゥーロ、そしてシエラの歪んだ価値観が混ざり合い、さらなる惨劇を呼び込む――そんな予感を胸に、私の足音は伯爵家の奥へと続いていく。
あの夜の絶望を越え、そこには破滅の火種しか残っていない。だけど、それこそが私の心をかき立てる燃料になる。
この世には、まだまだ知られざる狂気が溢れているはずだ。私と父が手を組むなら、その火はやがて全てを焼き尽くすだろう。
「これから奴らを潰す。手段は選ばん」――その言葉が脳裏を過ぎるたび、私は口角を上げずにはいられない。