最終話 狂気の果て②
リディアは呼吸も乱れ、血で握力が滑りそうになりながら短剣を逆手に持ち、レオンハルトの背へ再度の突きを狙う。だが、彼がシャーロッテを支えた弾みで梁がごと崩れかけ、「あぶない……!」という声が上がる。
「くそ……こんな、結末……っ」
レオンハルトはシャーロッテとともに何とか踏みとどまるが、一瞬のうちに周囲の火力が増し、床下からの爆風で二人を吹き飛ばすように熱風が襲う。そのままレオンハルトはシャーロッテを抱える形で瓦礫とともに別の段差へ転落し、煙の向こうへ消えてしまった。
リディアの周囲には巨大な火柱が立ち上り、追うことすらできない。結局、この場所には誰も残らず、ただ崩れた空間と立ちこめる煙があるだけ。
「う……あいつら、死んだかもしれない……」
体を起こそうとするが、あちこちが折れたように痛みが走り、まるでまともに立てない。炎はさらに勢いを増して天井を焼き、まるで家全体が今まさに崩れ落ちようとしていた。
リディアは乱れた呼吸のまま、もう一度短剣を握りしめる。それでも、立ち上がる力はもう残っていない。視界が回り、耳がじんじんと痛んで、まるで音が遠のいていくようだ。ちらりと見える屋根の一部ががくりと外れ、真っ赤な天井が落下してきそうだ。
「シエラ……ごめんね……私、あんたを守れなかった……あいつらを殺すことも……できなかった……」
熱くなった瓦礫が追い打ちをかけるように崩れ、リディアはそこからはもう動けない。最後に思い浮かぶのはシエラの笑顔、そして暗殺失敗の屈辱を何度も味わわされたレオンハルトの顔。全てへの憎しみが膨れ上がるが、叫ぶ声も出ず、ただ崩落の衝撃を受けるだけだった。
「……ああ……死ぬんだ……私も……あいつらも……」
つぶやきとともに視界が真っ白に泡立ち、ゴウンと地面が揺らいだ。屋敷全体が崩れ落ちる轟音が耳を貫き、火の粉が竜巻のように宙を舞う。これで名門伯爵家の最期は完全なる終わりを迎えるのだ。
リディアの意識は闇に落ち、血と炎に飲みこまれた身体はそのまま灰の底へ沈んでいく。
◇ ◇ ◇
外では、あちこちの人々が炎上する屋敷を遠巻きに見下ろしていた。公爵軍の一部も斥候を出していたが、激しい火事と爆発で近寄れず、半ば諦めている。レオンハルトやシャーロッテ、伯爵家の人間がどうなったのか――誰も確証をつかめず、ただ遠巻きに見守るしかない。
「うわあ……なんて燃え方だ……あれじゃあ、全員死んだろう」
「すでに逃げ出したのかもしれないが……あの有様じゃ無事じゃないだろうな」
「グラシア伯爵家もこれでおしまいか。公爵家も巻き込まれたかも……」
ささやき合う民衆や兵士たち。やがて屋敷の外壁が完全に崩壊し、燃えくずが大地に崩れ落ちる最後の衝撃が起こった。火の粉が舞い上がり、煙の壁が夜空を覆っていく。
その光景はまるで“地獄”そのものであり、観る者から一切の慈悲を奪い去る。こうして伯爵家も公爵家も、主要な登場人物たちが次々と血と炎の中に消え、もはや生存の望みは皆無に見える。
◇ ◇ ◇
翌朝、煙が薄れた廃墟を見下ろす人々は、言葉もなく佇んでいた。瓦礫の山と化した邸宅の跡地からは未だ熱気が漂い、辛うじて遺体の残骸が散らばっているのが見える。人の形を保っていないほど焼け焦げたものや、崩落に潰され原型を失ったもの――誰が伯爵家の誰だったか、判別などできない。
「伯爵家の者たちは……全員死んだのか……?」
「死体がいくらあるかわからんぞ。公爵家のほうも巻き込まれてるかも」
「誰がどうなったか……まあ、そんなのどうでもいいわ。これが貴族の愚かな終わり方ってわけさ」
人々は口々にささやくが、どの顔にも恐怖と嫌悪が混じっている。あまりに惨烈な結末で、どんな立場の者が見ても救いようがないと感じられるのだ。こうしてかつての名門・グラシア伯爵家も、同時に“勝ち組”とされた公爵家も、一夜にして地獄に堕ちた。
救いが訪れることはなかった。残されたのは焼け焦げた家具と血の跡だけ――狂気の果て、誰も生き残らない。
◇ ◇ ◇
その後、焚き尽くされた瓦礫の山を一部の人足が撤去しようとしたが、火事の余熱が強く、立ち入るのも困難だった。日が経つにつれ、燃えカスと共に幾つもの死体が発見されるが、どの遺体が誰なのか断定できなかった。
すでにカトリーヌはリディアに斬られて息絶え、アルトゥーロは瓦礫の下敷きで最期を迎え、レオンハルトとシャーロッテも逃げ場を失って火に呑まれた。シエラは主人を守るために命を捧げ、リディア自身も燃え落ちた天井の下へ姿を消した。あの火事で奇跡的に生還した者は一人としていなかったのだ。
「惨い……これが貴族社会の終わりか」
「これほど救いのない結末、あり得るのか……」
人々は足元を見つめ、口を閉ざす。血と炎に包まれた結末が、誰の姿も地上に残さず、すべてを灰と化してしまった。
こうして狂った世界の幕は下りる。貴族同士の誇りや復讐心、愛憎や裏切りの応酬が結局は自滅の道を辿ったという、あまりに醜悪なオチ。誰も勝者など存在しない。伯爵家も公爵家も、名家の人々も、裏切り者も、あまつさえ忠誠に殉じた侍女までも、一夜のうちに地獄へ消えていったのだから。
人々は黙って遠巻きに灰の山を見つめる。崩壊した邸宅の残骸が凶器のように尖り、そこかしこには骨や血痕が散らばっているが、どれが誰のものなのか区別もつかない。無数の命を飲み込みながら、夜は明けて朝陽が昇る。
もしあの燃えかすの中にリディアやレオンハルトの遺骸が埋まっているとすれば――それは見分けのつかない煤塵でしかなく、もう二度とその狂気を語ることはないだろう。伯爵家も公爵家も、あらゆる名声も権力も金も、すべて焼け払われて跡形もない。
こうして「狂気の果て」は真っ黒な灰に覆われて閉じる。誰も生き残らず、誰も救われない。互いを憎み合い、裏切り合い、殺し合った人々は、血と炎のうちに最期を迎えた。残されるのは廃墟と不気味な沈黙だけ――その沈黙は、街の人々を無言の恐怖で包み込み、しばらくのあいだ誰も口を開こうとしなかったという。
かくして伯爵家は消え、公爵家もまたその炎に巻き込まれ、すべての主要人物が地獄に堕ちた。誰の嘆きも届かず、どんな哀れも通用しない。その結末は、まさに救いなき世界の絶望に満ちた光景といえた。
程なくして廃墟は打ち捨てられ、瓦礫を整理する者も現れないまま、血の臭いだけが長くその場所を支配したという。ほんの数日後に街の人々がそこを通りかかったとき、荒涼とした黒い山が残り、火薬の焦げた残滓と焼け焦げた骨がちらばっていた。それはもはや誰の遺骨かもわからず、風が吹けば灰とともに舞い上がり、遠くへ散っていく。
こうして伯爵家と公爵家が繰り広げた狂った闘争は、あっけないほど血生臭い最期を迎えた。その後に残ったのは廃墟と鬱屈した沈黙。誰も勝利を宣言できず、誰も救いを受けられない――文字通りの地獄が、名門貴族の伝統と栄光を呑み込んだのだ。
この物語は、血と炎の狂宴の果て、主要人物のすべてが敗北し、滅び、絶望のうちに幕を下ろす。救いなどなく、残されたのは廃墟に漂う灰と腐臭だけ。歪な愛も、裏切りも、復讐も、すべてが同じ炎に焼き尽くされ、誰ひとり生存者は現れない。まさに“狂気の果て”――それがこの世界で導かれた、あまりに惨すぎる結末なのだった。
(完)




