最終話 狂気の果て①
燃え盛る炎が闇を突き破り、夜空を血の色に染めていた。崩れ落ちた伯爵家の屋敷は、火と瓦礫の山となり、そこかしこから断末魔の叫びが響く。優美だったはずの階段も壁も廊下も、いまや瓦礫に埋もれ、一面の焼け焦げと煙、そして飛び散る血にまみれている。
そのなかを、リディア・ド・グラシアはかろうじて息絶えずに歩んでいた。ドレスは破れ、顔や腕には無数の傷。髪は煤で汚れ、目は血走り、唇は震えている。だが、彼女の瞳には最後まで消えない炎が宿っていた。仇への復讐という執念を抱えながらも、もはや何もかも焼き尽くす火の海を前にするしかない。
「シエラ……どこ……?」
かすれた声で呼びかけても、返事は聞こえない。屋敷の崩落に巻き込まれ、あれほど忠実だった侍女は見失ってしまったのか。それでもリディアは扉や柱を跳び越え、血で濡れた足跡を辿りながら廊下を進む。火柱が近くで爆ぜ、空気が灼熱の怒号を孕むなか、一瞬、床に倒れかけた人影を見つけた。
「……シエラ!」
近づくと、そこには大きな柱の残骸に右足を押さえつけられたシエラがうずくまっていた。腕や肩には既に幾筋も深い切り傷、激痛のあまり呼吸もままならない。顔を上げると、炎の光が映える瞳に涙が浮かんでいる。
「リディア様……」
「生きてた……よかった……今助ける!」
リディアは煙を吸い込み、咳き込みながらも懸命に柱を押そうとする。だが満身創痍の体では到底重くてびくともしない。シエラは弱く首を振る。
「もう……無理……リディア様……足が……」
「嫌よ、こんなとこで死なせるもんですか。あんな連中を道連れにするまで――」
「リディア様……」
シエラは小さく微笑み、わずかに血の混じった息を吐く。かつての落ち着いた声ではなく、苦痛に歪んだ途切れ途切れの言葉。
「もう……十分かもしれません。わたくし、最後まで……あなたについていけた。だから……」
「やめて……! そんなこと言わないで……シエラ!」
「最後まで、リディア様のそばに……いたかった……」
言い終わるか終わらないかのうちに、周囲の床がさらに傾き、天井からさらなる瓦礫が落下する。リディアは必死にそれを手で払い、シエラを庇いながら立ち上がるが、傷だらけの身体は痛みに悲鳴を上げる。一方、シエラは弱々しくリディアの手をつかんだまま、意識が遠のいていくようだ。
リディアの目が潤む。涙が浮かんではこぼれ落ちる。侍女をこんな地獄に付き合わせたのは自分――そんな自責が胸を打つ。だからこそ、なおさら見捨てられない。
「シエラ……駄目よ、行かないで。あなたがいなきゃ、私は……!」
「リディア様……本当に……お慕いしていました……あなたの夢も、怨みも……全部背負う気でいました……」
「だったら死なないで! 死んじゃだめよ、シエラっ!」
焼け落ちる木の梁が激しく床を砕き、赤黒い火の粉が舞い散る。その音のなかでシエラは消え入りそうな息のなか、最後の言葉を残す。
「すみません……お守りできず……でも……愛して……いま、した……」
力尽きるシエラの腕が、リディアの手からだらりと落ちる。リディアは必死に揺さぶり、「シエラ、シエラ!」と呼びかけるが、侍女の瞳は閉じられてもう開かない。応答のない冷たい手を取り、「嫌……嫌よ!」と泣き叫ぶ。
「こんなの……あんまりじゃない……! シエラ……私を守るために……っ」
しかし悲嘆に暮れている時間はない。上階から崩れてくる天井の衝撃で、再び爆裂音が轟く。階下の床が完全に崩れ落ち、その振動でリディアはシエラを抱えるようにされるが、もう手遅れだとわかっている。失意と絶望が胸を突き刺す。
「シエラ……大好きだったのに……あなたを失うなんて……」
涙がこみ上げても、すぐに煙が眼を焼き、息が詰まる。リディアはシエラの身体を離して、焔の床を見つめる。
怒号のように燃え盛る炎。その奥で、何者かの足音が近づき、最後の生存者を探す声がする――しかしもうリディアにとってはどうでもいい。シエラを失った今、彼女は遺恨の全てを爆発させるしかない。
「許さない……あんたたちも、カトリーヌも、みんな……私から大事なものを奪って……」
震える脚で立ち上がると、足下に落ちた短剣を拾い、歪な怒りの笑みを浮かべる。屋内の火勢に照らされて、真っ赤な光を返す短剣がリディアの意志を表しているようだ。
燃え落ちる天井の隙間から、夜空の黒が覗く。その先にぼんやり浮かぶのはレオンハルトの影――どうやらあちらも屋敷に取り残され、抜け道を探しているらしい。シャーロッテの声も混じって聞こえてくる。
「こんなのありえない……逃げ場が……ない……?」
「落ち着けシャーロッテ。まだどこかに道があるはずだ」
だが炎は容赦なく敷地全体へ延焼し、庭も含めて逃げ場を失っているようだ。レオンハルトたちは勝ち誇っていたはずだが、最終的にはこの火の海に巻き込まれている。勝ち組だったはずの二人が、今となっては必死に命乞いする立場になるなど、誰が想像しただろうか。
リディアはその姿を見届けるため、狂ったように廊下を進み始める。悲鳴を上げる身体を鞭打って。崩れた柱が行く手を塞ぐが、ドレスを焦がしながらそれを乗り越える。もう一度だけあいつらを視界に捉え、殺してやる――それが彼女の最後の生きる目的になっていた。
「……シエラ、私……あなたの仇を取るわ」
決意をつぶやいたところで、足下の床板が崩壊し始める。地震のような衝撃とともにリディアはバランスを崩し、一階部分へ激しく転落する。
視界がぐるりと回転し、床に叩きつけられた衝撃で息が止まる。朦朧とする意識のなか、また別の方向から爆裂音が響く。もはや地獄以外の何ものでもない光景だ。
「リディア……まさかこんなところで……」
熱を感じて顔を上げれば、近くにレオンハルトとシャーロッテがいた。二人も血と煤だらけで、肩や背中には焼け跡が見える。護衛兵は既にほとんど死んだか逃げ出したのか、二人だけが残され、歪んだ表情で息をしている。
「き、貴様……まだ生きてたのか……!」
「……レオンハルト……シャーロッテ……」
リディアは短剣を握りしめ、怒りの光を瞳に宿す。シャーロッテが「まだ来るというの……? 馬鹿げた執念ね」と呆れを込めて言うが、その声にも既に絶望が混じっている。真っ赤な火炎が背後の壁を食らい、瓦礫の山がいつ崩れてもおかしくない状態だ。
「こんな……焼け落ちる場所で……何になるんだ。助からないぞ、伯爵令嬢」
「だったら道連れにさせて……!」
リディアが身を躍らせて短剣を突き出す。レオンハルトは負傷した足で避けきれず、「ちっ……!」と歯を鳴らしながらどうにか腕で弾く。金属音が響き、血が飛び散ったのはレオンハルトの腕か、それともリディアのか――定かではない。
「レオンハルト様……!」
「離れろ、シャーロッテ。あいつは狂っている」
シャーロッテが一歩下がるが、その足元の床が大きく崩れ、悲鳴を上げて落下寸前になる。レオンハルトは彼女をつかむが、自分もバランスを失い、二人して溝に落ちかけたところを焼け焦げた梁に引っかかってどうにか止まった。




