第2話 父娘の暗部②
アルトゥーロは娘の侍女など眼中にないかのように、鼻を鳴らした。
「リディア、あの侍女はお前に随分と執着しているようだが」
「シエラは……私に絶対的に仕えているだけ。それ以上でも以下でもないわ」
「まあ、どうでもいい。だが、あの娘がいると楽にことが進むかもしれんな。私もお前も、人前で手を汚すわけにはいかない。ならば使える駒は使うに限る」
頭の片隅で、どこか引っかかるものを感じた。シエラを駒扱いにするなんて、あまりに父らしい発想だ。私はシエラを信頼しているわけではないが、彼女の忠誠心は本物だと感じている。しかし、父の言い方に微妙な不快感が拭えない。
「私の侍女に余計なことを指図したら許さないわよ」
「ほう、随分とご執心だな? だが、こう言ってはなんだが、親として言わせてもらうぞ。お前が公爵家を破滅させるなどと豪語するからには、それ相応の血が流れる覚悟が必要だ。まさか、綺麗事で済むと思ってはいないだろうな?」
「血……」
喉がひどく乾く。この伯爵家に生まれた以上、裏取引や脅迫程度なら珍しくもない。私も薄々感じていたが、それが本当に殺人や暴力に及ぶのだとしたら――そう、現実に起こりうるのだ。私が望むならば、父やその部下は容赦なく相手を葬り去る手段を選ぶかもしれない。伯爵家の威厳を守るためなら、幾人かの命が犠牲になっても構わない、という考え方が父にはあるのだろう。
だけど今の私には、そんな血生臭い手段を嫌悪する余裕はなかった。むしろ、自分の怒りを鎮めるためなら、そこまでしてもいいとさえ思い始めている。レオンハルトの嘲笑、シャーロッテの侮蔑、そして周囲の貴族たちの醜態。すべてが頭にこびりついて、眠れない夜を過ごすだろうと思うと、苛立ちが増すばかり。
「父様、私はもう引き下がるつもりはないわ。もし公爵家を潰せるなら、やれることは何でもやる。あいつらに復讐を果たすには、それくらいが妥当でしょう?」
「いいだろう。その強気が続くならば、私としても利用させてもらう。まずはレオンハルトを失脚させるために、公爵家の不正や弱点を探る。お前も口外してはならんぞ。家の中だけで動くんだ」
「分かったわ。私はあの夜会での仕返しさえできれば構わない。あれほど私を侮辱してくれたんですもの。地獄の底まで追い詰めてやる」
言葉を交わすほどに、私の胸の奥に燃え上がる炎は益々強くなる。復讐がこれほどまでに甘美で、そして冷酷な感情を呼び起こすものだとは知らなかった。
「そうか、覚悟を決めたのだな。ならば構わん。お前のその怒り、徹底的に発揮しろ。ただし、やり方を間違えたら伯爵家ごと破滅しかねない。私の許可なく勝手な行動は厳禁だ。わかっているな?」
「ええ、理解している。父様に従う……というより、協力するわ。公爵家を潰すための手段、なんでも試してやりましょう」
アルトゥーロは満足げにうなずいた。親子の会話というより、権力者同士の利害調整に近いやりとり。だが、そこには変質した信頼関係がわずかに芽生えているような気がしてならない。私は父をまったく尊敬していないが、今は同じ目的を持つ仲間とも言えるのだ。
「ふん。ならば、今夜は休め。疲れているだろう。詳しい手段は明日以降に話し合う。お前の侍女も連れてくるといい。どんな力を持っているのか、少し興味がある」
「シエラに興味を? ……分かったわ」
言われてみれば、シエラは確かに普通の侍女とは違う雰囲気を放っている。幼い頃から私に仕えるようになって何年も経つが、彼女ほど従順で、かつ得体の知れない存在は見たことがない。私の指図ならば、どんな命令でも実行しかねない――そんな気迫を感じる。それを父が見抜いているならば、利用価値があると判断しているのだろう。
「失礼します」
ドアの外で控えていたシエラが静かに姿を見せる。やはり予想通りというか、タイミングを見計らっていたようだ。私とアルトゥーロの会話が一段落したのを感じ取ったのだろう。
「伯爵様、リディア様。夜も遅いですし、何か必要なものがございましたら」
「ああ、シエラとやら。お前、ずいぶんとリディアに尽くしているらしいな」
アルトゥーロが急にシエラに話しかける。冷ややかな視線だが、じっと相手を観察するような目つきは、獲物を見定める肉食獣にも似ている。
「はい。私の生きがいは、リディア様のお役に立つことです」
「ほう。それほどまでにこの娘を?」
「はい、心から」
シエラの答えは実に淡々としたものだったが、その声には狂信めいた熱が含まれている。アルトゥーロは「なるほど」とつぶやき、皮肉な笑みを浮かべる。
「……いいだろう。リディアの手足となって働くがいい。今後は私にも協力してもらうことがあるかもしれんが、そのときは拒否するなよ?」
「もちろんです。リディア様が許可されるなら、私はどんな依頼でも遂行いたします」
その言葉に、アルトゥーロは満足気に鼻を鳴らす。一方、私は複雑だった。シエラがあまりにも無邪気に宣言するものだから、この子の頭の中をのぞき込んでみたくなる。忠誠を超えた執着が、父に利用されてしまうのではないか。だけど、どちらにせよ、私に反逆するタイプではない。少なくとも今のところは。
「さて、リディア。今宵はもう休め。お前には期待している。伯爵家の血を引く者としての責任を果たせ」
「わかったわ。……シエラ、行くわよ」
「はい」
私はシエラを連れて書斎を出る。扉が閉まると、重い空気が一瞬にして途切れるような感覚がした。深呼吸をしても胸の奥がモヤモヤするが、心なしか先ほどまでとは違う達成感のようなものがある。父と意見が一致したことで、復讐に向けた準備が少しずつ動き出す――そう感じたからかもしれない。
廊下を歩きながら、私はシエラに問いかける。
「シエラ、あなたなら分かると思うんだけど……私、本当にあいつらを殺してしまいたいって思ってるかも」
「リディア様の思うままに。もし本当にそうお考えなら、私は躊躇いなく手を汚してさしあげます」
「……そう」
シエラは淡々と答えながら、私の横にぴたりと寄り添う。その小柄な身体からは想像もつかない、暗く鋭い意志が伝わってくる。まるで「あなたが命じてくれるなら、私は地獄の底までついていきます」と言わんばかりだ。
「あとで私の部屋に来て。話したいことがある」
「かしこまりました。リディア様」
そう言って微笑むシエラを見ながら、私は自室へと向かう。廊下の奥にはいくつもの扉が整然と並んでいるが、そのどれもが陰気くさい空気を漂わせる。伯爵家というのは、こうして夜が深まると、まるで亡霊たちがさまよう洋館のように思える。
自室の扉を開けると、ランプの明かりが柔らかく床を照らしていた。夜会へ出る前には気づかなかったが、壁に飾られた鏡越しに見る自分の姿がひどい。ドレスを引きちぎったせいで裾がボロボロなうえ、乱れた髪はそのままだ。
「レオンハルト……許さない」
口を開くと同時に、鏡に映る自分が悲鳴をあげそうなほど憎悪に満ちた顔をしているのが分かった。プライドを傷つけられ、笑い者にされ、婚約を一方的に破棄された。あれほど仕立てのいいドレスを纏い、社交界の花形を気取っていたのに、いまや惨めな姿。思わず込み上げる吐き気をこらえながら、私はランプに手を伸ばす。