第17話 破綻の始まり①
夜の森を抜け出したリディア・ド・グラシアと侍女シエラは、全力で小道を駆け続けた。周囲に漂う湿った土の匂いと、二人の体から滴る血が混ざり合い、危険な臭気を放っている。シエラは肩や腕に深い傷を負っていたが、リディアを守るため必死に痛みをこらえて走る。
いくら全力を出しても、背後から聞こえてくる護衛の追撃の足音は途切れず、怒号まじりの声が暗闇に反響していた。しかし二人は、道を外れて崖沿いの小径へ飛び出すなど奇妙な走り方で、なんとか視界から消えようとする。月明かりが木々の間を縫い、彼女たちの影をまだらに形づくる。
「シエラ……大丈夫? その傷、深いわね」
「わたくしは、まだ走れます……リディア様こそ、背中が……」
「平気……あいつらに捕まるわけにはいかないのよ」
リディアは唇を噛み、滲む血をそのままに走り続ける。目に浮かぶのは、あの邸宅で見せつけられた惨状――レオンハルトとシャーロッテの圧倒的な護衛、そしてカトリーヌの残酷な裏切り。カトリーヌが「やっぱり協力できない」と微笑んだあの場面を思い出すと、内側から烈火のごとき怒りが湧き上がった。
「裏切り者め……絶対に殺してやる……! あいつも、あの男も、あの女も……!」
どこか錯乱じみた声が夜の闇をかき乱す。シエラはリディアを必死に支えながら「そうです……あの者たちを必ず……」とつぶやき、まなざしに狂気の焔を宿す。もはや穏やかな生き方に戻る道などない。二人は血まみれで森を抜け、どうにか伯爵家の方角へと走った。
深夜になってようやく伯爵家の屋敷にたどり着いたが、そこも安全とは言い難い。暗闇の中、使用人が慌てた様子で逃げ出す姿が見え、まるで空き家寸前のように荒れ果てている。いつの間にか、大半の者が屋敷を捨てていったのだろう。
リディアはメインゲートの影に身を潜めて屋敷の様子を探る。警護もほとんどおらず、屋敷の明かりはまばらに点灯しているだけ。すると、急な足音が近づき、誰かが目を見張ってリディアの姿を認めた。
「リ、リディア様……? こんな傷だらけで……どうなさったのですか!」
「うるさいわね、放っておいて。あんたも逃げるなら勝手に逃げなさい」
「ひ、ひぇ……す、すみません……」
思わず厳しい口調で返すと、その使用人は怯えきって後ずさりし、何も言わずに屋敷から出て行ってしまう。リディアは「これでいいのよ。こんな屋敷、父様以外はみんな逃げ出してくれるほうが都合がいい」と吐き捨てるようにつぶやいた。
「シエラ、とりあえず中に入るわよ。あなたの傷を手当てする」
「すみません……リディア様こそ、肩から血が……」
「後でいいわ。あなたのほうが傷が深いんだから」
二人はどうにか屋敷のドアを開け、廊下を足早に進む。だが、内部で聞こえてくるのは狂気じみた怒鳴り声と、何かが破壊される物音だ。まさかアルトゥーロが乱心しているのだろうか。
廊下の奥に向かうと、伯爵家の従者が血相を変えて走ってくる。「リディア様、早く逃げたほうがいい! 公爵家の軍勢が押し寄せるって……!」と叫びながら通り過ぎていく。屋敷が戦場と化す――その兆候は十分すぎるほどあり、床にはひび割れや砕けた装飾品が散乱していた。
「公爵家の軍勢がここまで……!? 本当に全面衝突ってわけね」
「伯爵様……今どこに……?」
「さあ。もうどうでもいいけど……。とにかく後で様子を見てみるか」
リディアは、まずシエラを客間に連れて行き、簡単な応急処置を施そうとする。だが、部屋に入るとそこも荒れ放題で、すでに包帯や薬などが散乱していた。仕方なく床に落ちたものを拾い集め、シエラの傷を拭う。
「痛む? 我慢して、すぐ終わるわ」
「ご心配なく……これぐらい、どうということはありません……」
シエラは顔を青ざめさせながらも微笑を絶やさない。その従順さにリディアはわずかに胸を痛めるが、今さら立ち止まるわけにはいかない。二人とも今晩のことで疲労の極みに達しているが、いつ公爵軍が屋敷を包囲してくるかわからない。
「シエラ、終わったら父様の様子を確認してみましょう。死んでるかもしれないし、生きてるなら使いみちがあるかも」
「わかりました。ですが、お身体をお大事に。リディア様も相当出血しているのですから」
「平気よ、こんなのまだ軽い方……」
痛みをこらえながら包帯を巻き終えたリディアは、ふらつく体を起こし、シエラに肩を貸した。互いに擦り傷や裂傷を抱えながらも廊下へ戻る。そこには無秩序に散らかった破片が積み上がり、まるで崩壊の象徴のように壁がひび割れている場所すらあった。
「これが……伯爵家ね。父様が守ると言い張った、あの家名の結末がこれ」
「リディア様……」
シエラがかける言葉も見つからず、二人は黙って奥へと進む。すると、突然屋敷の外で大きな怒号が響いた。金属のぶつかり合う音や銃声めいた轟音。公爵家の手勢が既に屋敷周辺へ押し寄せてきたのだろう。
リディアは額に冷や汗を浮かべながら、シエラとともに階段を下りて玄関ホールへ向かう。そこは既に半ば戦場となり、従者の一部が抵抗しているのか、なぜか武器を手にして乱闘している姿が見える。公爵家の軍勢は一気に入り込んでくる勢いだ。
「本当に全面衝突してるじゃない。まさかこれほど早いとは……」
「もう逃げ出したほうがいいかもしれません……。しかし、伯爵様はどうなさったのでしょう?」
シエラが辺りを見回す。するとホールの中央で、アルトゥーロが数名の部下を従えて必死に応戦している姿が目に入る。血走った目で「貴様ら、ここで皆殺しにしてやる!」と叫びながら剣を振り回すその姿は、まさに狂乱の極みに近い。
「父様……」
「リディア? 貴様……今までどこで何を……!」
一瞬、視線が合う。アルトゥーロもリディアの姿を認め、怒鳴り声をあげながら護衛の攻撃をかわしている。しかし、彼も片腕がひどく負傷しており、血が床に垂れている。
状況は明らかに公爵家側が優勢。アルトゥーロを含む伯爵家の少数が応戦しても、人数や装備でまったく歯が立たない。激しい剣戟の音が響く中、玄関扉は既に破壊され、貴族社会の“体裁”など完全に崩れ去っている。
「父様……あなた……どうしようもないわね」
「黙れ、娘の分際で! 貴様こそこんな時に傷だらけで何をした……!」
「暗殺に失敗したのよ。でも、今度はあなたも失敗してるわね」
二人の間に火花が散るが、そこに公爵家の兵士が踏み込んできて「アルトゥーロ伯爵、覚悟しろ!」と叫ぶ。アルトゥーロはそちらに剣を向け、狂気じみた声を上げる。
「巻き添えでも構わん、皆殺しにしてやる……伯爵家を侮辱した報いを受けろ!」
リディアはその様子に呆れと苛立ちを覚えつつも、父が作った乱戦の隙を見て回り廊下へ引き返す。シエラが手を貸し、痛む足を引きずりながら奥へと急ぐ。
四方から剣戟、絶叫、血の匂いが充満する。廊下の壁に血しぶきが飛び、一瞬で地獄絵図が形成されていた。リディアはチラと背後を振り返り、父が暴れる姿を認める。
「父様……勝手にやりなさい。私たちはここに巻き込まれる気はないわ。使えるところだけ利用させてもらう」
「リディア様、こっちの廊下がまだ空いてます」
「わかった。そこから逃げ道を探しましょう」
公爵家の手勢が屋敷を埋め尽くしていく中、リディアとシエラは必死に屋敷の奥へと走る。彼女たちにとって、ここに留まる意味は薄い。全員が血みどろの戦闘に巻き込まれる前に、どこかに籠城するか、または脱出するかを考えねばならない。




