第16話 裏切りの連鎖①
しんとした夜の闇を、一台の馬車が揺れながら走っていた。黒く塗られた車体は目立たぬよう灯りを消し、御者はわざと遠回りの道を選んで周囲の視線から逃れる。これから行われるのは、貴族間の華やかな舞踏会――ではなく、血と暗殺の宴。
車内では、リディア・ド・グラシアが深くフードを被り、沈黙に包まれていた。彼女の脇には侍女シエラが寄り添い、絶対の忠誠を秘めた瞳を伏せている。
「いよいよね、シエラ。あの男と女を殺す――今度こそね」
「はい、リディア様。今夜、すべて終わらせましょう」
リディアは短くうなずき、グローブを確かめる。中には細身の短剣が隠し仕込まれている。かつては毒を用いた暗殺計画を失敗し、父アルトゥーロの無謀な工作も功を成せず伯爵家は崩壊寸前。もう残された手段は、自分の手で直接的に仕留めることだけ。
この舞踏会の情報をもたらしたのはカトリーヌ。前回の失敗のあとも「今度は本当に協力するわ」と言い添えたが、リディアは完全には信用していない。裏切りの疑惑が消えないまま、けれど背に腹はかえられないと知り、あえて「罠でも構わない」と飛び込む覚悟を決めた。
「父様はもうどうでもいい。あの男、レオンハルトと、あの女シャーロッテ――二人を殺せれば私の目的は果たせる。伯爵家が滅びてもかまわない」
「……わたくしはリディア様についていくのみです」
シエラはまるで教義を唱える信徒のように微笑む。血生臭い結末を想像しても、少しも怯む素振りはない。むしろ“主人のために命を懸けられる喜び”に満たされているようだ。
やがて馬車が止まる。会場となる邸宅から少し離れた位置でリディアたちは降りた。運転手は既に逃げ腰だが、リディアはそんなことに構わず、シエラと二人で夜の小道を歩き出す。
「行きましょう、シエラ。鍵を破壊して、裏口から忍び込むのよ」
「はい。カトリーヌ様が手引きしてくれることになっているはずです。もっとも、本当に味方かは分かりませんが」
「分かってる。裏切ったら、そのときは殺すだけ」
手の中の短剣をそっと確認する。風が冷たいが、リディアの体は怒りと憎悪で火照っていた。
◇ ◇ ◇
邸宅の周囲には、既にそれなりの人影が動いていた。常ならば、夜会や舞踏会に集う華やかな来賓たちの馬車が行き来しているのだろうが、今夜は特に厳重な雰囲気が漂う。実際、敷地の正門には護衛らしき人物が何人も立っており、入り口を固めている。
リディアとシエラは屋敷の裏手を回り込むように慎重に移動する。そこには高い塀と、細い勝手口らしき扉がある。あらかじめ鍵の所在を聞いていたらしいが――。
「おかしいわね。鍵が……見当たらない。壊すしかないかも」
「ええ、急ぎましょう。人目につかないうちに」
音を立てぬように錠前をこじ開けようとした瞬間、人の気配が横から忍び寄る。リディアが短剣を振り上げそうになったが、低い声が「リディア、落ち着いて」とささやく。見ると、カトリーヌが扇子を手にして佇んでいた。
「カトリーヌ……! 本当にここで待ち構えてたの?」
「ええ、そうよ。あなたが潜入しやすいように鍵を外しておいたわ。今は護衛たちが正門に集中してるから、裏口は薄い」
「……ありがとう」
リディアは警戒しながらも、ここで彼女を問い詰める時間も惜しいと判断し、ひとまずカトリーヌの導きに従う。鍵を外された扉が静かに開き、かすかな物音とともに夜の廊下が見えた。
そして、カトリーヌが「急いで」とジェスチャーし、リディアとシエラが忍び足で内部へ。薄暗い廊下を慎重に進むが、今はまだ護衛や貴族が主たる会場に集まっているため、ここは人影が薄いのだ。
(意外とスムーズ……まさか、本当にカトリーヌが協力してくれてる?)
そんな疑問がリディアの脳裏をかすめる。だが、目の前のチャンスを逃すわけにはいかない。シャーロッテとレオンハルトが屋内のパーティで油断しているならば、そこを奇襲するだけでいい。
しかしシエラは冷静だった。廊下の奥を見やり、「カトリーヌ様、本当にここを進むだけでよろしいのですか」と小声で確認する。
「ええ、まっすぐ突き当たりを曲がって、階段を下りた先にいるわ。あの二人、今は一階のサロンで話し込んでるはず。護衛も少ないはずよ」
にこりと笑うカトリーヌ。その笑顔に、シエラは奇妙な違和感を覚える。リディアもまた、彼女が人が良すぎると思うが、何より早く復讐を遂げたい気持ちが勝っていた。
「よし、シエラ、いくわよ。邪魔者は全員排除」
「はい、リディア様」
物音を忍ばせながら階段へと進む二人。その背後で、カトリーヌが笑みを深める。まるで「これから起こる血塗られた光景を楽しみにしている」というかのように。
◇ ◇ ◇
階段を下り切ると、そこにはだだっ広いサロンがあり、手前に簡素な仕切りがしてあった。その奥で、確かにレオンハルトの声が聞こえる。「そうか、さっそく伯爵家のやつらが来たらしいな」と。鋭い言葉に混じって、シャーロッテの笑いがうっすらと耳に届く。
「聞こえる……あいつら、いるわね……!」
リディアが低い声で意気込む。シエラもまた、手に短剣を握りしめて殺気を漂わせている。今度こそ直接刃を突き立てる。その苛烈な決意が二人の呼吸を高めていく。
だが、その背後から再び声が響いた。「ええ、ごめんなさい、リディア。やっぱりあなたには協力できないわ」と優しげな語調で。振り返ると、そこに立っていたのはカトリーヌだった。
「はあ……? 今さら何を――」
「実は私、あなたを“売る”つもりなの。もし成功されると、私が面白い見物をできなくなるんですもの。ここであなたが死ぬかもしれない方がずっと素敵よ」
カトリーヌは扇子をはたいて笑う。その目には冷徹な光があり、さきほどまでの協力者の態度とは明らかに異なる。
「あなた……やっぱり裏切り者だったのね」
「裏切りって……最初から伯爵家を助ける気なんてなかったわ。ただリディアがどこまで暴走するか見物したかったの。ごめんなさいね」
その瞬間、リディアの胸中で何かが大きく弾けた。やはりカトリーヌだった――過去の暗殺計画が失敗したのも、今夜の潜入がスムーズすぎたのも、すべて彼女の仕掛けだと確信する。怒りがこみ上げ、短剣を握る手に力が入る。
「ふざけないで……! あなた、私にこんな屈辱を――」
「ごめんなさい。あなたが実行に移す前に、こっちで話を通してあるの。ああ、もうあなたの敵が揃って待ってるわよ。あなたの最期、楽しみにしてるの」
カトリーヌの嘲笑を最後に、突如周囲の明かりが一斉に灯される。隠れていた護衛兵や屈強な男たちが続々と姿を現し、リディアとシエラを取り囲むように陣形を組む。




