第15話 最後の暗殺計画①
伯爵家の廊下は廃墟のような静けさに包まれていた。
父アルトゥーロによる裏稼業の逆転工作は失敗に終わり、伯爵家は風前の灯。かつては華やかなパーティや賓客が絶えなかったこの屋敷も、今はひっそりと暗く沈み、誰もが怯えるように呼吸を潜めている。
そんな陰鬱な空気をものともせず、リディア・ド・グラシアはドレスの裾を握りしめながら、深い決意に満ちた瞳で回廊を歩んでいた。彼女の脇を侍女シエラが離れずにつき従う。二人の間には奇妙な結託があり、そして残酷な計画があった。
「シエラ、私もう決めたわ。これが最後のチャンス。必ず成功させるわよ」
「はい、リディア様。お望みとあれば、どんな手段でも使いましょう」
リディアは足を止め、壁際に身を寄せるように立ち止まる。暗がりのランプの揺れる光が、彼女の横顔を照らす。かつての伯爵令嬢らしい上品さは影を潜め、今はただ“復讐”という猛毒に支配された女の姿がある。
「父様はもう当てにならないわ。あの人は最終的に自滅するだけ。私の復讐を邪魔するなら捨てる、それだけの話。……いいわね、シエラ。私たち二人で直接やるのよ」
「ええ、もちろんです。伯爵様がどれほど暴れても、今や公爵家には届かないでしょう。ならば私たちが動くしかありません」
「そう。失敗ばかり続けていられない。レオンハルトとシャーロッテを仕留めて、私の苦痛を晴らす。そこに情けは不要――」
リディアの声は低く重く、廊下を震わせる。かすかに残っている良識や情が、すべて焼き尽くされつつあるのを感じる。歯を食いしばりながら、復讐の鬼へと変貌していく自分を自覚するが、もう後戻りなどできない。
◇ ◇ ◇
一方、伯爵家の使用人たちは薄々気づいていた。伯爵当主アルトゥーロと、その娘リディア――もはや二人が同じ方向を向いていないどころか、互いを邪魔者扱いしていることを。伯爵家が破滅寸前だという噂はさらに広まっているが、それを止めようとする人間は誰もいない。
絶望を孕む廊下で、突然「リディア様、失礼します」という穏やかな声が響く。現れたのは、どこか朗らかな表情のカトリーヌ・フォン・エイヴァリン。彼女は、まるでこの屋敷が崩壊寸前なことなど知らないように軽快な足取りでやってきた。
「カトリーヌ……何の用?」
リディアは眉をひそめる。暗殺未遂の失敗以来、彼女はカトリーヌを完全には信用していない。むしろ内心では「裏切り者かもしれない」という疑念が渦巻いている。
それでも、カトリーヌの美しい微笑に対して、リディアは露骨に敵意を向けられない。カトリーヌの存在が“役に立つ”可能性を捨てきれないからだ。
「リディア、あなた最近ピリピリしてるみたいだから、ちょっと心配になって。……今度こそ実行するんでしょう? あの危険な作戦を」
鋭い指摘に、リディアは少しだけ目を反らす。だが、すぐに言葉を吐き捨てるように答えた。
「ええ、私はやるわ。あなたにはもう、うんざりするほど失望してる。前回、あなたが邪魔したんじゃないかって疑ってるの」
「ひどいわね。私はあのとき本当に手助けしたつもりだったのよ? 結果的に失敗したのは私のせいじゃないわ」
「……そう。なら今回も協力するっていうの?」
「もちろん。危険な計画ね。けれど、成功すれば一気にすべてが片付くじゃない? 私だって、もうこんなグラシア伯爵家が世間から嘲笑されるのは見ていられないもの」
カトリーヌの口ぶりは、一見すると“友人”を思いやる優しい声。けれど、リディアはその瞳の奥に妙な熱気を感じ取り、かすかに警戒心を強める。それでも、時間がない今、多少のリスクを承知で彼女の協力を受け入れることを選ぶ。
「わかったわ。あえてもう一度、あなたを使う。……でも裏切ったら、容赦しないから」
「ええ、理解してる。私の命なんて、あなたの手のひらにあるようなもの。それでも、一緒に公爵家を叩きたいの」
微笑むカトリーヌの隣で、シエラは無言のまま冷ややかに見つめている。心の中で「この女は信用ならない」と叫んでいるが、リディアが決めた以上、口を挟むまいと自重していた。
◇ ◇ ◇
夜も更け、リディアはシエラとともに“最終作戦”を練るための会議を行う。伯爵家の小書斎は荒れ果て、父アルトゥーロは別室で暴れているらしいが、二人はそちらに気を向ける気は毛頭ない。
テーブルには地図や屋敷の見取り図が広げられていた。ターゲットは公爵家の当主レオンハルトと、その愛人とも言うべきシャーロッテ。今度こそ暗殺を成し遂げなければならない。
「どうやら、二人は近々また外出の予定があるわ。大規模な舞踏会というほどじゃないけど、やっぱり貴族同士のパーティ。そこに姿を見せる可能性が高い」
「はい。あまり大きくないパーティのほうが、護衛の数や配置も少ない場合があります。大勢の場だと護衛や人混みでごまかす余地があったのに……今度はどうでしょう」
「逆よ。人が少ないから、護衛が動きやすいかもしれない。でも、私たちがじっくり狙うには好都合」
シエラは短剣の細工を確かめながら、リディアを見つめる。その瞳には、かすかな高揚感が宿っている。この歪な侍女にとって、“主人の命令で人を殺す”という行為は、極上の喜びに等しいのだ。
リディア自身も、父の協力なしでこの計画を実行することに奇妙な高揚を感じていた。「自分こそが伯爵家を支える存在なのだ」とでも言わんばかりに、裏で暗殺を遂行し、怨敵を葬る――それが彼女のすべて。
「さらに、カトリーヌが囮になってくれるらしい。今度こそ本当に協力するかどうかは疑わしいけど、奴らを会場で引き留めてくれれば助かるわ」
「信用できませんが、利用できるならしておきましょう。私たちも警戒を怠らず、合図がうまく噛み合わなければ切り捨てればいい」
「その通り。カトリーヌの裏切りが確定したら、そのときはあの女も例外じゃないわ。死ぬのはあいつらだけじゃ済まないかもね」
激しい殺意をはらんだ言葉に、シエラは静かに微笑む。狂気は既に天井を突き抜け、理性のブレーキは存在しない。まさにこの二人は“最後の暗殺計画”を遂行するために狂奔しているのだ。
◇ ◇ ◇
一方、公爵家ではレオンハルトとシャーロッテが今度の“パーティ”に備えて護衛を配置する準備を進めていた。既に伯爵家からの攻撃が何度かあったと噂され、警戒心は高まっている。
「レオンハルト様、また伯爵家が暗殺を狙ってくるという話ですが?」
「いいさ。今度も返り討ちにするまでだ。あいつら、もはや砂上の楼閣だろう」
「うふふ、伯爵家は滅びが近いわ。こんな状態で無理に仕掛けるなんて、愚かとしか思えない」
レオンハルトの微笑みには余裕がにじむ。シャーロッテもニコニコと笑いながら腕を組む。二人とも伯爵家を完全に見下しており、いつでも潰せるという意識だ。カトリーヌから流れてくる情報で、リディアの動向もある程度把握している。
「伯爵家は混乱の極みにあるらしいからな。おそらくリディアの単独犯行に近い形になるんじゃないか?」
「そうでしょうね。あの娘、制御不能だもの。アルトゥーロ伯爵の存在感なんてもう形だけなんでしょ?」
「ふん、面倒な娘だ。まあ、俺たちも罠を張って待つとするか。堂々とトドメを刺してやってもいいが、手間がかかるからな。やってくれるなら勝手に自爆すればいい」
レオンハルトたちは全て掌の上で踊らせるつもり。まさか、リディアが最後の足掻きでどこまで狂気を引きずるかは想定外かもしれないが、少なくとも自分たちが負けることはないと思い込んでいる。




