第14話 血塗られた闇取引②
「ねえ、カトリーヌ。伯爵家が何か大きな失敗をしたみたいよ?」
「あらあら、そうなの。噂によると、殺し屋が返り討ちに遭ったとか。怖いわねえ」
町外れの貴族サロンで、カトリーヌは第三者のように微笑みながら噂を楽しむ。レオンハルトとシャーロッテが伯爵家の失敗を確信し、さらに包囲を強めるのは明らか。伯爵家は破滅寸前だ。その話題はサロンの連中の格好のネタになっている。
「カトリーヌ様、伯爵家に近かったんでしょ? 危なくないの?」
「あら、伯爵令嬢リディアのことかしら? 私とは少し疎遠になってしまって……くすん。なんでも争いが激しいみたいで、お力になれないのが心苦しいわ」
涙ぐむ振りをしながら、彼女は実際に何も心苦しく感じていない。心の底では「もっと混乱してくれれば面白いのに」と願うばかりだ。もはや伯爵家の破滅も間近、リディアやアルトゥーロがどう暴れるか、その惨状を見届けたいという愉悦が渦巻いていた。
◇ ◇ ◇
夜更け。屋敷の廊下を足早に歩くリディアは、父が破れかぶれの最後の策を講じているという噂を耳にして足を止める。要は「もう一度殺し屋や闇商人を動かす」「王宮の役人を脅して嘘の証拠を出させる」など荒唐無稽な計画ばかりだという。
「父様、まだやる気なの……?」
「どうしましょう、リディア様。放っておいても自滅するでしょうけど、ここで先手を打てば伯爵家に残された資金やコネを強奪できるかも」
「……そうね。父様はどうせ負け戦。私が生き残るには、むしろあの人を捨てる方がいいかもしれない。使えそうな部分だけ拾って……」
つぶやきの果てに、リディアはひそかに背後をうかがう。誰もいない闇の廊下。シエラが一歩踏み出す音が聞こえ、かすかな悪意を共有する空気が漂う。
「もし、アルトゥーロ伯爵様が本格的に破滅へと突き進むなら、わたくしたちも動きやすいでしょう。あの方の存在がリディア様の邪魔になるなら、いずれ――」
「わかってる。いずれ、そうなるかもね」
リディアの言葉は重く、だがもはや迷いが少ない。父と娘の対立は激化の一途で、アルトゥーロの“最終反撃”が失敗に終われば、もはや伯爵家は壊滅か、それともリディアが取って代わるか――その結末はすぐそこにある。
◇ ◇ ◇
程なくして届く王宮からの正式な召喚状。もしくは、公爵家からの最後通牒。それがどんな形をとるかはわからないが、「グラシア伯爵家の終焉が近い」と暗に示唆される内容だと噂が広まり、伯爵家の従者たちは「逃げるなら今のうち」と話し合うほど怯えている。
「逃げるなんてみっともない。私は残るわ。リディア様はどうなるんだろう……」
「さあね。でも伯爵様もあれじゃ救いようがない。あのまま自滅するんじゃない?」
「……ひぇ、怖いよ……」
誰もが口にする破滅の予感。アルトゥーロの失敗は連鎖し、同盟貴族の離反は続き、王宮の嫌疑は増すばかり。伯爵家が積み上げた闇取引は次々と暴かれ、逃げ場を失いかけている。
そんな中でもリディアは「私は私のやり方で殺す」と言い放つし、アルトゥーロは「まだ逆転できる」と空回りを続ける。秩序も団結も崩壊し、血塗られた闇取引の失敗という事実が伯爵家を破滅寸前にまで追い込んだ。
夜の帳が下りる頃、館の片隅でランプの火が薄暗く揺れる。アルトゥーロは冷たい汗を拭い、書斎にこもったまま書類の山と格闘している。ドアの外ではリディアが「邪魔しないで」と立ち去り、もう愛想すら尽かしている。二人の間には深い溝、いや憎悪の溝さえ生まれかけていた。
「全てを失ってなるものか……必ず、公爵家を貶めてやる……!」
アルトゥーロのつぶやきは悲痛だが、すでに狂気が滲んでいる。弱りきった獣が最後の力で牙をむくような、危険な刹那だ。そして、この暴走により、伯爵家はさらに深い闇へと滑り落ちるのだろう。
一方のリディアは、部屋に戻ってドレスの袖をきつく握りしめながら、低く息をつく。
「父様、勝手にやって。あなたが壊れるなら、それだけ私が動く余地が増えるだけ。使えるところだけ利用して、後は勝手に滅んで……」
その目は、父を“コマ”としか見ていない冷酷な光。かつての親子という絆は、もはや砂のように指の隙間から零れ落ちる。表面だけを保つ伯爵家の屋敷が、地獄へ通じる入り口のように思えてくる。
こうして、“血塗られた闇取引”は派手に失敗し、アルトゥーロは破滅寸前。もはや保身のためにどんな暴挙も辞さないだろう。レオンハルトは対策を完璧に整え、シャーロッテも余裕の笑みを浮かべている。カトリーヌは外から冷笑的に観察し、シエラはリディアとともに父に見切りをつけている。
伯爵家の終焉が近い、と誰もが感じはじめていた。果たして、次に訪れるのは社会的に伯爵家が滅ぶか、それとも血を伴う悲鳴が響くのか。狂気の世界では、どちらの結末もあり得る。
最後に届くのは、王宮からの正式な召喚状か、公爵家からの宣戦布告か――いずれにせよ、グラシア伯爵家の未来はほとんど閉ざされている。闇取引の傷跡が、家の衰退を明確に示すのだ。
深夜、冷え込む廊下でリディアは窓を開け、夜風に身を晒す。引き裂かれた家族の姿を想いつつ、牙を研ぎ澄ますように小さくつぶやく。
「父様……あなたが潰れるなら、私が公爵家を殺すチャンスがある。そういうことよ。最後まで無駄な足掻きしなさい。その隙に私が――」
全てを灰に変えてでも、復讐を果たす――そんな危険な決意が彼女の声に宿る。廊下の暗がりには、シエラが音もなく控えていた。彼女の瞳もまた狂気の炎を映している。
「リディア様、いつでも参りましょう。伯爵様がどう暴走しても、わたくしはあなたの意思を優先しますから」
「ええ。父様の闇取引が全部失敗して滅びても、私は私の道を行く。そっちの方が面白いじゃない?」
歪んだ笑みを交わす二人。伯爵家の閃光はまるで落日、やがて真っ暗な奈落へ消えゆくかもしれない――けれども彼女たちはそれを恐れない。自分の血と命を引き換えにしても、“あの男と女”を地獄へ道連れにすることしか考えていないのだ。
夜はさらに深まり、屋敷の至るところに不気味な静寂が広がる。遠くで騒ぎ立てていた闇商人や殺し屋の声すら、今は聞こえない。伯爵家は、まるで風前の灯火のように揺れながら、次なる惨劇を待つしかない。
「さあ、幕が下りる前に。みんな思う存分踊ってみせて。父様の闇工作、失敗に終わるなら、それもいいわ……その時は私が刃を振るうだけよ」
リディアのその言葉に応えるかのように、シエラが深くうなずいた。遠くからは、王宮からの召喚状が届いたという報せが小さく届き、使用人たちがざわめく声がかすかに聞こえる。
こうして「血塗られた闇取引」は見事に失敗し、伯爵家はさらなる絶望の淵へと足を滑らせる。終焉の足音が一段と近づく。妖しい月光に照らされた屋敷には、誰一人安寧を見いだせない。狂気の渦が深まるばかりの中、リディアとアルトゥーロ、そして周囲の人物たちがいかなる結末を迎えるのか――それは、もう避けられない悲劇として確実に形を整えはじめていた。




