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第2話 父娘の暗部①

 夜会を後にした馬車が、伯爵家の正門に滑り込む頃には、外の闇がしんと冷え始めていた。車輪のきしむ音が止み、御者が小声で合図を送ると、扉が開かれる。侍女シエラの手を借りながら、私は乱れたドレスの裾を乱雑につかんで降り立った。見るも無残なまでに汚れたドレスは、結局あの夜会での惨劇を思い出させるばかりだ。


「リディア様、お足もとにお気をつけください」


 シエラは私を気遣って声を掛けるが、今の私はそんな言葉を素直に受け止められない。頭の中で煮えたぎっているのは、屈辱だけだった。婚約破棄――それも公衆の面前で、あんな形で。人生で最も恥をかかされたと言ってもいい。加えて、周囲の貴族連中の嘲笑。それを思い出すたびに体中が震え、今にも叫び出したくなる。


「………もう、こんなドレスなんか見たくないわ!」


 屋敷の玄関へ足を踏み入れた瞬間、私は怒りにまかせてドレスのフリルを引きちぎった。糸がはじけ、装飾のレースがバラバラと床に落ちる。つい先ほどまでは誇りに満ちて着ていた衣装なのに、今は憎しみしか感じない。


「リ、リディア様…! おケガをなさらないよう……」

「うるさい。こんな汚物、さっさと焼き捨ててやるわ」


 シエラの心配そうな声に振り向きもせず、私はドレスの裾を引き裂く。繊維が裂ける音が妙に耳に痛い。格子窓から差し込む灯りが、不規則に舞った布切れを照らし出すたび、あの夜会の屈辱シーンが脳裏をよぎる。


 そのとき、ふと気づけば、シエラがじっとこちらを見つめていた。普通ならば「リディア様、おやめください」と制止するはずだが、彼女の瞳は奇妙な熱を帯びている。半ば陶酔でもしているかのような表情だ。


「ふん……私を見て笑うがいいわ。こんなザマを晒しているのは誰のせいだと、あいつらに問いたいものよ」


 誰にともなくつぶやく。レオンハルト、シャーロッテ、そして夜会に集っていた貴族たち。みんなまとめて恨みの的だ。怒りと復讐の炎が、私の心を真っ黒に染め上げていく。しかも、その(いきどお)りを共有してくれる者はほんのひと握り。少なくとも、使用人は恐れて声もかけられまい。


「リディア様がご無事で、私はそれだけで幸せです」


 しかし、シエラは満足そうに微笑んでいた。ちぎれたレースを拾い集めながら、優しく抱きかかえるように腕に乗せる。その姿は一見献身的だが、どこか狂信的なまでの傾倒が(うかが)えて背筋が薄ら寒くなる。


「無事……? こんな目に遭って無事も何もあるものですか」

「ごめんなさい。ただ、リディア様の心が壊れてしまわないか、それが一番心配で……」


 シエラの言葉が妙に生々しく胸を刺す。どうやら、彼女は本当に私の状態を(おもんばか)っているらしい。倒れそうになるほどの怒りを抱える私にとって、彼女の存在は救いとも言えるかもしれない。執着にも似た優しさを感じるからこそ、私はシエラを側に置いているのだ。


「……心配無用。私はあなたが思うほど(もろ)くなんかない」


 乱れた呼吸を整えながら、屋敷の奥へ足を進める。廊下を抜けると、大理石の床が照らし出され、白く冷たい輝きが広がっていた。夜会の後なのに、まるで何事もなかったかのように静まり返る伯爵家。その静寂が、かえって私の胸をざわつかせる。


「さて、あの男が勝手に婚約を破棄したせいで、私たちの立場が危ういとか言うんでしょうね」


 そう吐き捨てる。あいつ――レオンハルトへの怒りと同時に、不安も渦巻いていた。公爵家の後ろ盾を失うどころか、伯爵家の信用まで失墜しかねない。社交界には悪意のある噂があっという間に広まるだろう。あの屈辱的な場面を見ていた連中が面白がるに違いない。


「おい、リディア」


 突然、低い声が背後から響く。振り向くと、そこに立っていたのは父――アルトゥーロ・ド・グラシア伯爵だ。以前は洗練された雰囲気を漂わせていたはずだが、今は不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、その目が鋭く光っている。


「父様……」

「詳しい話は、部屋で聞こう。ここでは目立つ」


 一言だけ残して、アルトゥーロは書斎へ向かうように顎をしゃくる。その背中からは焦燥感すら見える気がした。


 書斎に入るなり、アルトゥーロはドアを乱暴に閉めた。部屋には分厚い書類や古い書物が並んだ本棚、そして巨大な机が威圧感を放っている。そこに足を向けると、父は椅子に深く腰を下ろし、私に鋭い視線を投げた。


「……座れ、リディア」

「いえ、立ったままで失礼するわ。長話はしたくないわ」

「貴様……その態度はなんだ」


 普段なら、アルトゥーロにこんな言葉遣いはしない。けれども、今日ばかりは私の神経が限界を超えていた。さっき夜会で感じた屈辱を思うと、自分の尊厳がボロボロに傷ついているように思えてならない。その苛立ちを誰かにぶつけずにはいられないのだ。


「態度? 笑わせないで。あんな派手な夜会を開いて、よりにもよって、私が公衆の面前で婚約破棄を突きつけられるなんて、あなたの計画ミスでしょう?」

「……計画ミス? お前こそ、余計な言動をしてレオンハルトの機嫌を損ねたのではないか?」


 私と同じように、父の声にも怒りがこもっている。ただし、その矛先は私へというより、公爵家のほうに向いているのかもしれない。彼にとっても、今回の顛末は思わぬ痛手だろう。伯爵家と公爵家の結びつきは、表向きの権威だけでなく、裏の利権にも大きく関係しているはずだ。


「機嫌を損ねた? それくらいで婚約破棄されるなら、最初からあんな偽善者と縁を結ぶ必要なんてなかったわ」

「リディア、落ち着け。お前がそう簡単に手放せるものではない。あの男――レオンハルトは公爵家の嫡男。やり方ひとつでこちらの利益にもなる」

「そう。だから何? 結局、あなたはあの男との縁を維持するために、私にもっと大人しくしろとでも言うつもり?」


 父が私を(にら)む。けれど、私は睨み返すように彼の目をのぞき込んだ。思ったよりも目が血走っている。父も怒りや不安を抱えながら、必死に頭を回転させているのだろう。


「今さら大人しくなんてできません。私はあの屈辱を絶対に許さないわ。レオンハルトも、そしてシャーロッテというあの女も。まとめて破滅させてやる」


 ビリビリと空気が震えるような感覚に襲われる。言葉に出した瞬間、自分の感情が音を立ててはじけ飛んだ気がした。父はしばらく黙ったまま、机の上に組んだ両手を凝視している。


「破滅、か……」

「そう。あの男とあの女、そして私を笑った全員を地獄に落とす。私は伯爵家の長女として生まれ育ったわ。家の名誉を守る気概があるのはむしろ当然でしょう」

「ふん……なるほどな」


 アルトゥーロは顔を上げ、ニヤリと唇を(ゆが)めた。まるで、私の言葉を面白がるかのような表情だ。彼の喉の奥から低く笑い声がこぼれる。


「リディア。お前、意外と使えるな」

「は……?」

「お前の復讐心、私も共感するところがある。あのレオンハルトに対しては、私も腹に据えかねていたからな。公爵家との関係は維持したいが、やつらがこちらに喧嘩を売ってきた以上、手段を選ばずに抑え込むしかないだろう」

「……まさか、本気でそう考えてる?」


 私は耳を疑った。父が本当にレオンハルトを潰そうとしているのだとすれば、それはとんでもないことを意味する。公爵家を敵に回すのは、伯爵家にとってリスクが大きいはず。でも、同時に莫大な見返りもあるのかもしれない。


「もちろんだ。あの生意気な公爵家の小僧には、多少思い知らせねばならん。グラシア伯爵家を甘く見た報いを受けさせるのだよ」


 私には、父が本気で憤慨しているのか、あるいは復讐を利用して何らかの利益を得ようとしているのか、判別がつかない。ただ、その目の奥に渦巻いている欲望は確かに狂気じみているように見えた。まるで、私を“道具”として使おうという気配を隠そうともしていない。


「父様、じゃあ……」

「どうせあのレオンハルトが結んだはずの縁談は破談になった。グラシア伯爵家の威厳まで落とされたのだ、黙っている理由がない。伯爵家には貴族社会でも独特のコネがある。裏仕事も含めてな」


 暗い書斎で繰り広げられる会話は、常識から大きく逸脱している。親子の談話で語られる言葉にしては、あまりに危険なものばかりだ。裏仕事、コネ、駆け引き――どれもが、私に馴染みのあるものでもあったが、こうまで露骨に口にされるとさすがに異様さを感じる。


「父様、具体的に何か考えているの?」

「……さあな。詳しい話はこれからだ。ただ、お前の言う『破滅させたい』という気持ちは利用価値がある。私は合法・非合法を問わず、必要に応じて手段を講じる。お前も手を貸せ」

「手を貸すわ。だって、私の敵はあの公爵家なんだから」


 そう口にしたとき、書斎のドアの向こうで物音がした。見ると、シエラが控えめに立っていた。先ほどまで私のドレスを片付けていたのか、手には布の切れ端が残っている。


「お許しを……お二人だけで話し込んでいるようなので、少し外で待たせていただいておりました」

「……シエラ」


 私が名を呼ぶと、シエラはほんの少し会釈をし、静かに扉を閉める。

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