第13話 崩れゆく秩序②
「あんな大声、始めて聞いたかもしれない……こわかったね」
「伯爵様とリディア様が、あそこまで激しく言い合いをするなんて……もう修復は無理なのかな」
下層の使用人たちが部屋の片隅でささやき合う。伯爵家の当主とその娘の対立がいよいよ本気で、破滅的だと噂になる。その噂は外部にもじわじわ伝わり、今やグラシア家が完全に分裂しているというのは公然の秘密になりかけていた。
「ねえ、シエラさん……リディア様が言ってた“誰でも殺してやる”って、本気なのかしら」
「しっ、余計なことを口にしない。私たちまで巻き込まれるわよ」
侍女たちが怖れを抱きながら片付けに走る。廊下の壁には、誰がこすったのか小さな傷がついていて、激しくやりあった余波を象徴しているかのようだ。
◇ ◇ ◇
リディアは自室に戻ると、ドレスの裾を乱雑につかんでソファに放り出した。外見は伯爵家の令嬢らしい優雅さを装っているが、その内側は苛立ちと憎悪が煮えたぎっている。
そこへシエラがスッと入ってくる。彼女はリディアの荒い呼吸を気遣うように手を伸ばすが、リディアはその手を強く払いのけた。
「ごめん……シエラ。私、今は誰にも触られたくないの」
「ええ、わかっています。ただ……もし伯爵様がこれ以上の妨害をしてくるなら、手を打たねばなりませんよ」
「もういいの。私には“父親”なんて存在しない。あの人は自分を守ることしか考えてないし、私も自分の復讐だけを考える。邪魔になるなら――いずれ私が排除するかもね」
リディアの口から出る言葉は、もはや通常の親子では考えられないほど危険なもので、シエラは逆に安堵のような笑みを浮かべる。主人の狂気に寄り添うのが彼女の歪んだ献身なのだ。
「そう、ですね。わたくしたちでやれます。伯爵様をも含め、あなたを脅かす全てを排除して、思うがままの結果を手に入れましょう」
「うん……あの男と女も殺すけど、父様まで私を追い込むなら――」
言いかけた言葉を、リディアは噛みしめるように飲み込み、口をつぐむ。いずれ、それもあり得るのだろう。まさか、自分が父親を殺す日が来るかもしれないなんて、考えもしなかったが、この狂った世界では何でもありになっていると薄々感じている。
深く息をついたリディアの瞳は、沈んだ闇の色を帯びたまま、寒々しく落ち着いている。絶縁状態に近い親子関係――それがもう形だけの“伯爵家”を意味するにすぎないと、彼女は思い知った。
「父様が、私をここまで追いつめるんだから……私も遠慮はしない。邪魔するなら、私が先に――」
「リディア様、わたくしはあなたのお言葉に従います。すべてはご命令どおりに」
シエラは心から嬉しそうに微笑む。どこまでもリディアと共に血の泥沼へと沈む覚悟なのだ。
◇ ◇ ◇
どこかでカトリーヌは、この伯爵家の混沌を遠巻きに傍観しているかもしれない。
あるいは、レオンハルトやシャーロッテが伯爵家の内情を嗤っているかもしれない。
いずれにせよ、伯爵家の秩序は音を立てて崩れかけている。裏稼業の問題、暗殺未遂の失敗、内部での親子決裂。これらすべてが同時に進んでいるのだから、破滅はもう目前だろう。
「父様、あなたのせいで私が破滅するなら、先にあなたを――」
リディアは小さくつぶやき、その先を言葉にしない。残酷な結末の輪郭が、廊下に写る灯火の影のようにゆらりと揺れる。
室内の暗がりに紛れて見え隠れするのはシエラの姿。彼女は静かに微笑みながら、「リディア様、ご安心を。いつでも」と心の中で繰り返している。屋敷の奥からはまだ調査官たちの押し問答が聞こえ、どうやらアルトゥーロが必死に食い下がっているようだ。
それが本気の絶叫なのか、ただの演技なのかは知る由もない。リディアの耳にはまるで遠い雷鳴のようにしか響かない。いずれ、この騒ぎが最悪の結末へつながる――その予感が主人公の胸に重くのしかかった。
狂気と憎悪が張りつめた伯爵家、崩壊寸前の親子関係。ここから先、二人の接触はもう二度と和解などという穏やかな方向へ向かうはずもない。血と怒声が飛び交う破滅の未来しか見えなかった。
こうして“崩れゆく秩序”が誰の手にも負えなくなったとき、次に訪れるのはさらなる惨劇か、あるいは全員の破滅か――。リディアもアルトゥーロも、親子であって親子でない歪んだ関係のまま、互いを殺すか殺されるかの境界に立っている。
夜の帳が降り、伯爵家の廊下には一層の冷たい風が吹き抜ける。遠くからは誰かの叫び声ともつかない音がかすかに響いていたが、それはすぐに静寂の中へ溶けていった。




