第13話 崩れゆく秩序①
伯爵家に暗い風が吹きはじめたのは、表沙汰になりかけた裏稼業の一報が届いた直後のことだった。
早朝から屋敷に乗り込んできた調査官たちの足音が、廊下に憂鬱な反響をもたらし、使用人たちは驚いて右往左往する。すでに伯爵家の者が隠そうとしていた書類や細かい会計記録まで目をつけられ、詰問される始末だ。伯爵アルトゥーロは、手持ちの権力を総動員して調査官を牽制しようとするが、どうやら思うようにいっていないらしい。
「くそっ、いつのまにこんな手回しを……あの公爵家め、王宮と組んで一気に仕掛けてきやがったな」
アルトゥーロは苛立ちを隠し切れず、机を拳で叩く。書斎の扉の外では調査官が声を荒らげ、あれこれと「証拠を出せ」と命じている。だが、以前ほどの買収や隠蔽工作がうまくいかない。公爵家が先回りし、王宮にも圧力をかけているのだろう。
「伯爵様、わたくしどももいろいろ手を尽くしていますが、買収しきれない状況です」
「お前たちまでそんな情けないことを……! 何のために金をばらまいてきたと思ってる」
「申し訳ございません。ですが、先方の連携があまりにも迅速で……」
重苦しい空気が書斎に充満する。アルトゥーロは短く舌打ちして従者を追い出すと、激しく額に手を当てた。
そこへ、ドアを遠慮なく叩く音。振り返ると、いつもの無遠慮な足音が近づいてくる。娘のリディア――暗殺未遂を失敗し、今や父親の頭痛の種にしかなっていない存在。アルトゥーロは「今さら面倒事を増やすな」と目で訴えたが、リディアは怯む様子もなく入ってくる。
「父様、ちょっといい? こんな騒ぎになってるけど、まさか手も足も出ないなんて言わないわよね?」
「……今はそれどころじゃない。お前の相手をしている暇はないんだ」
「はあ? あなたの裏仕事がバレかけてるせいで、私まで巻き添え食うんだから、黙って引き下がるわけにはいかないわ」
「巻き添え、だと?」
激昂するアルトゥーロに、リディアも一歩も引かない様子で睨み返す。書斎には嫌な熱気が立ちこめ、書棚に積まれた書類が湿ったように見える。
「ええ、巻き添えよ。公爵家の包囲網が父様のせいで強まったから、私がやろうとしてる復讐だって、どんどん難しくなる」
「馬鹿を言うな。私が築き上げた権力がなければ、お前の復讐だって実行不可能だろうが。失敗したのはお前自身のせいじゃないのか? 暗殺未遂を起こして大騒ぎになったのを忘れたのか!」
「……あれは私の問題。父様には関係ないわ。どうせ協力もしてくれなかったし」
「貴様……!」
アルトゥーロのこめかみがピクリと震える。裏稼業の発覚危機で精神が磨り減っているうえに、娘からも責め立てられ、その苛立ちは爆発寸前だ。
「なんでこんなに騒ぎになったのかしら? 父様が裏で綺麗に処理しておけば、こんな事態にはならなかった。今さら取り繕っても遅いわよ」
「お前ごときが偉そうに……お前が結局“暗殺”を成功させられず、伯爵家の信用を落としたのを棚に上げるな!」
「信用を落とした? それって、最初からなかったようなものじゃない? 父様の裏仕事がバレるなんて無様すぎるわ」
「き、貴様あぁ……!」
乱暴な叫びとともに、アルトゥーロの手が机を殴りつける。書類が落ち、インクの瓶が揺れる。息を呑んだ使用人が廊下の先で固まっていたが、誰も仲裁に入る勇気などない。
「失敗した娘が偉そうに言うな。私が今どれだけの苦労をしていると思ってる。お前はただ復讐とやらにかまけて、伯爵家に汚点をつけることばかり――」
「父様だって汚点を隠し切れなかったでしょ。それで私に責任をなすりつけるなんて、本当に情けない」
「この……お前は、本当に私の娘なのか! そんな言葉を父に向けるなんて、最低だ……!」
「父親だなんて、もう思ってないもの! あなたがちゃんとしてれば、こんなことには――」
二人の声が重なり、激しい口論は修羅場の一歩手前。どちらも怒りで顔を赤く染め、罵り合いの激しさを増していく。
「お前など娘ではない! いい加減にしろ!」
「そっちこそ、私の父親じゃないわ! 私をこんな目に遭わせた張本人だって、わからないの!」
バン、と扉が開いて入ってきたのは、侍女シエラ。廊下で聞きつけた怒号に駆けつけたのだ。彼女は一瞬で状況を把握し、リディアが激昂していることに冷や汗を覚える。
「リディア様、伯爵様、どうか落ち着いてください……! こんな争いをしている場合では――」
「シエラ、どいて。私、父様に言いたいことがまだあるわ」
リディアはシエラの制止を振り払い、アルトゥーロの前に詰め寄る。アルトゥーロも引こうとしない。背後で書斎の窓が半開きになっていて、夕刻の冷たい風がカーテンをはためかせる。陰鬱な空気が部屋を満たしていた。
「あなたが築いたものって、結局裏社会の闇取引でしょう? そこから金を巻き上げて伯爵家を守ってきた? ふざけないで。今やそれがバレて破滅寸前じゃない!」
「破滅寸前だと? まだ終わってはいない! 私は王宮の調査官を何とか誤魔化す手を考えている。お前こそ、その無謀な暗殺など二度とするな!」
「嫌よ。私はあいつらを殺すまでやめない。レオンハルトもシャーロッテも、そして……邪魔するやつがいれば誰でも殺してやるわ!」
「貴様……それでも伯爵家の娘か!」
「伯爵家? ああ、そうだったわね、私は“伯爵家の娘”だった。けど、それが何の役に立つの? あなたが表に立っている限り、私を止める権利なんてない!」
声を荒らげるリディアの頬がうっすら赤く染まり、目には涙の痕すら見える。怒りと悲しみが混ざった表情に、アルトゥーロは言葉を失いそうになるが、すぐに己のプライドがそれを許さない。
「よく言ったな。お前など……もう娘ではない。伯爵家の顔に泥を塗る不肖の存在だ。これ以上私を巻き込むな!」
「言ったわね……! 上等よ。父様なんて、もう“存在しない”と思うことにする」
「勝手にほざけ、愚か者が!」
二人の瞳が鋭く交わり、最後の罵り合いを終えたように沈黙する。しばらくしてリディアが踵を返して書斎を出ようとしたそのとき、シエラの声が小さく響いた。
「リディア様……もし本当に、伯爵様があなたの復讐を阻むようでしたら――」
「いいわ、シエラ。もう父様には期待してない。あの人のせいで私は危うい立場に陥ったのだし、逆に私を危険視してるんでしょう? なら、先に動くのはこっちよ」
言い放つと、リディアはドアを乱暴に閉める。廊下に漂う冷気が、まるで伯爵家の家庭崩壊を象徴するかのように凍りついていた。
部屋に取り残されたアルトゥーロは、荒い息を整えながら拳を握りしめる。心の奥底では娘を憎みきれない気持ちがあっても、今はそれ以上に家名を守る自負が勝っているのだろう。
「リディアめ……私を踏み台にする気か。貴様こそ、うかつに動けばただでは済まないぞ。何としてでも生き残ってやる。娘など、もう知るか……!」
怒りの言葉を吐き捨てると、書斎の窓から吹き込む風がさらに強くなり、書類を数枚巻き上げていく。伯爵家の秩序も、この風のように四散してしまうのだろうか――誰もそれを止めることはできない。




