第10話 侍女の暗殺計画①
伯爵家の廊下を、苛立ちに満ちた足音が響き渡る。
リディア・ド・グラシアは正面を見据えながら、まるでその眼下にあるすべてを蹴散らさんとばかりに速足で進んでいた。屋敷の使用人たちは、一瞥すらされないまま壁際に身を寄せてやり過ごす。彼女の怒りが顔からにじみ出ているのを感じ取り、怖気づいたのだ。
(もう、父様の失態に振り回されるのはまっぴら。私が手を下すしかないわ)
リディアの思考は一本の線で突き進んでいた。伯爵アルトゥーロの裏稼業が王宮に嗅ぎつかれた結果、伯爵家は崖っぷち。同時に、リディア自身が望んでいたレオンハルトとシャーロッテへの復讐計画が、とん挫しかけている。
貴族社会の大きな力が伯爵家を包囲し始めたいま、悠長な策略でじわじわと敵を追い詰める余裕などない。ならば――手っ取り早く“直接”潰すしかない。レオンハルト、そしてシャーロッテ。二人を血まみれにしてでも、この狂った世界から抹消する。それがいまリディアが行き着いた結論だった。
「……シエラ」
廊下を突き当たった先、彼女は愛用の書斎へと足を踏み入れる。その部屋には、一人の侍女が控えていた。リディアに比類なき忠誠を誓い、血生臭い裏工作ですら厭わない――侍女シエラ。彼女はリディアの姿を認めると、微笑みながら軽く頭を垂れた。
「リディア様、お待ちしておりました」
「ごめん、シエラ。話をするのが遅くなったわ。いろいろ……頭を整理する必要があって」
「お気になさらず。わたくしはいつでもリディア様のおそばにおります」
シエラの声は澄んだ湖のように落ち着き払っているが、その瞳には狂信めいた光が宿る。リディアのためなら何でもする――そう公言してきた彼女の忠誠心は、すでに歪みを越えた境地に達していた。
「私、はっきり決めた。あいつら……レオンハルトとシャーロッテを殺すわ」
「……ついに、その決断をなさるのですね」
「もはや時間がないの。父様は王宮の取り調べで手一杯だし、捏造工作も逆に隙を突かれた。先に仕掛けなきゃ、私の復讐なんて夢のまた夢」
リディアの声はうわずっているわけではないが、熱をはらんで震えていた。そこにあるのは最大級の怒りと憎しみ、そして自らが実行犯となる覚悟である。
「では、わたくしも動きましょう。具体的にはどのように……?」
「うん、少し考えがある。まずは毒であの二人を同時に狙うのが有効だと思うけど……レオンハルトには護衛が多いし、シャーロッテも公爵家にべったり。だから暗殺するなら、二人とも夜会やパーティで一網打尽にするのがいい」
「なるほど。大勢の人が集まる席なら、混乱に乗じて仕掛けられる可能性が高いですね」
シエラの表情には不穏な美しさが漂う。冷静に人を殺す方法を提案できるあたり、彼女の精神の危うさが垣間見える。
リディアは、父アルトゥーロから隠されている秘密の地下室の存在を思い出す。そこで伯爵家は“非常用”に毒や凶器を保管しているのだ。
「シエラ、あの地下室で毒薬や刃物を準備して。今までは支援工作の一環でちょっとずつ使ってたけど、本格的に品揃えをチェックしてみたい」
「承知いたしました。品揃えだけでなく、投与の仕方や刃の形状など、いろいろ吟味が必要ですね。わたくし、すぐに確認を始めます」
リディアが「頼んだわ」と答えると、シエラは小さく微笑み、まるでこれからお茶会の準備をするような気軽さで部屋を出て行く。
だが、その気軽さこそ“狂気”に他ならない。殺人道具を扱うにあたり何のためらいもなく、むしろリディアの役に立てる喜びすら感じているようなのだから。
◇ ◇ ◇
「ねえ、リディア。危ない計画を考えてるんですって?」
翌日、珍しくもカトリーヌが伯爵家を再び訪れ、リディアの私室へ姿を見せる。いつものように使用人を軽くいなしながら、笑顔を張り付けたまま椅子に座り込んだ。
リディアは「また風の噂ね。さすがカトリーヌ、耳が早いわ」と肩をすくめながらも、あまり警戒の色を見せない。彼女はカトリーヌの裏切りを疑いきれず、むしろ“友人”として使えるなら使おうという気持ちになっている。
「風の噂、というより、あなたの周りがなんだか物騒になってる気がしてね。私としては、余計なトラブルに巻き込まれてほしくないだけ」
「余計なトラブル、ねえ……。でももう遅いわ。公爵家と伯爵家は火花を散らしてるし、父様も信用できないし。自分でどうにかするしかないの」
「なるほど。つまり“自分で手を下す”というわけ?」
カトリーヌの瞳がわずかに鋭く光る。リディアは正面からそれを受け止めながら、少し迷った様子で唇をとがらせる。
「……ええ、そうかも。言っておくけど、あなたまで巻き込みたくはないわ。これは私が決めたことだから」
「うふふ、心配してくれてありがとう。でも私は平気よ。むしろ成功したら一気にすべてが片付くでしょう? 伯爵家もレオンハルトに悩まされずに済むし」
「そうよ。死んでしまえば、あの男と女に私が振り回されることもなくなる。スッキリするわ」
リディアの声音は完全にモノを捨てるのと同じ感覚で、暗殺を語っている。しかし、カトリーヌは怯えるどころか逆に興味深げに身を乗り出す。
「実行するなら、どのように? 危険な計画なんでしょう?」
「ええ、具体的には次の夜会。予定されている大きなパーティがあるじゃない? あそこに二人とも来ることは確実だし、私ももちろん参加する。シエラが毒と刃を準備してる」
「へえ、本格的ね。伯爵家の当主がどう言うかわからないけど、大丈夫?」
「父様がなんと言おうと、私がやるって決めたことだから止められないわ。あの人だって、いま自分の立場を守るのに必死よ。私のことなんて構ってる余裕ないでしょうし」
カトリーヌはその言葉に思わず胸の奥で笑みを噛み殺す。まさに狙い通り。伯爵家の当主アルトゥーロは王宮の取り調べで首が回らず、リディアは独断専行の暗殺計画に邁進。レオンハルトやシャーロッテの動きも活発化し、まさに「カオス」が加速している。
「危険な計画ね。でも成功すればすべてが片付くわ。……よかったら私も何か手伝おうか? 例えば、夜会の席でレオンハルト様やシャーロッテに意図的に近づいて、視線を逸らすくらいはできるし」
「あなた……手伝うって、本気なの?」
「ええ、リディアが望むなら。だってあなたの友人だもの。“本当に”心配してるし、“本当に”助けたいと思ってるわ」
その口ぶりは優しく偽りないように聞こえるが、実際はどうだろう。リディアは一瞬迷うように視線をさ迷わせるが、最後にはうなずき返す。彼女はもうカトリーヌを完全には疑いきれない段階にある。
「ありがとう……正直、助かる。シエラが実行役になるけど、あいつらを引きつける囮がいれば心強いわ」
「わかった。じゃあ、私にできる範囲で協力する。新作のドレスで夜会に行って、ターゲットをうまく誘導すればいいのね」
「ええ、そういう形で動いて。詳しい段取りはまた後日……」
リディアは目を伏せ、一度息を吐く。実際に人を殺すという重い決断に怯みがないわけではないが、復讐に燃える心がそれをかき消す。
カトリーヌは嬉しそうにリディアの手を取ると、「あなたのためなら喜んで」と甘い声をかける。しかし、その瞳にはどこか歪んだ楽しみの色が宿っていた。
(ここまで来た。後は夜会で“ちゃんと”惨事が起きるかどうか――見物ね。リディアが成功すれば、公爵家は血塗れの破滅。それも面白いし、もし失敗するならそれもまた愉悦。ふふ、最高じゃない)
心中で狂喜するカトリーヌだが、リディアはそれに気づかない。ともすればシエラのように警戒するかもしれないが、リディアがカトリーヌを信頼する気持ちの方が勝っているのだ。
「本当にありがとう、カトリーヌ。今回だけは頼りにしてるわ」
「ううん、私もありがとう。こんなに刺激的な作戦に関われるなんて、光栄だわ」
“刺激的”という言葉に、リディアはほんのわずかに眉をひそめる。しかしすぐに「彼女なりの冗談だろう」と納得してしまう。そうして二人は笑顔を交わし、まるで女子同士の秘密の計画を語るように盛り上がる。そこに狂気が潜んでいるなど、外から見れば想像もしがたい。




