第9話 発覚する裏稼業②
一瞬の沈黙が重くのしかかる。リディアは息を呑み、シエラを見つめる。まさか、本当に父親を殺してしまおうというのか。侍女の瞳には狂信じみた忠誠が輝き、どんな相手であろうとリディアの復讐を妨げるなら処分する――そんな危険な意思がにじんでいた。
「シエラ……それは……」
言葉が詰まるリディア。アルトゥーロも一瞬その顔に凍りついたような表情を浮かべる。家族すら例外ではない、という非常識な提案が、リアルな狂気として室内に染み渡る。
「おい、侍女の分際で何を言うつもりだ。まさか、私に牙を向く気か」
「いいえ、伯爵様。あくまでも、リディア様が望むなら、という話でございます」
「冗談じゃない……っ」
血の気が引いたような声が漏れる。アルトゥーロは怒りというよりも恐怖を覚えはじめていた。何しろこの侍女は、リディアのためとあらば暴力も辞さないという噂を聞いている。いくら当主であっても、油断すれば裏から命を狙われる可能性すらある。
しかし、リディアは辛うじて理性を取り戻し、シエラを止めるように声を張り上げる。
「待ってシエラ、父様を殺して何の得があるの……! そんなこと考えちゃだめよ!」
「ですが、リディア様の計画を妨げるようなことがあれば――」
「もういい! あんたは黙ってて!」
リディアの叫びにシエラは口を閉ざす。書斎には再び息苦しい沈黙が訪れ、三者がそれぞれ異なる殺気を孕んだ視線を交わし合う。
結局、アルトゥーロが「こんな馬鹿馬鹿しい話があるか……」と喉を鳴らし、気勢をそがれる形で会話は終わる。父と娘と侍女の間に横たわる危ういトライアングルは、一触即発という形で止まっているにすぎない。
「……とにかく、私は王宮の役人と話をつけなければならん。お前たちは余計な真似をするな」
「わかったわ。でも父様、私の復讐を邪魔しないで。もうこれ以上チャンスを逃したくないの」
「私が築き上げたものを娘のお前が壊すな、と言っただろう! お前も勝手に暴走するな!」
「……いいわ。見守ってあげる。けど失敗したら、私の手で何とかするから」
にらみ合う親子。静かに息をのんで黙りこむ侍女。誰もが同じ伯爵家の者でありながら、利害が衝突し、互いを疑い合い始めている。
部屋を出るとき、リディアはちらりとシエラを見やった。先ほどの彼女の言葉――「お父上も……」――が耳から離れない。さすがにリディアも、まだ父親を殺すまでは考えていなかった。しかし、あの侍女なら本気でやりかねないと感じる。
(シエラ、あの子が私のために父様を――いえ、そんなこと……)
混乱した心を押し殺して、リディアは廊下を足早に立ち去る。こうして伯爵家は、アルトゥーロの裏稼業が発覚しかけているという緊迫した状況の中、親子の対立が顕在化していく。
その背後で、公爵家は「今こそ伯爵家を仕留める好機」と外堀を埋め始めていた。
◇ ◇ ◇
同じ日。公爵家の応接室にシャーロッテの姿があった。レオンハルトは彼女の報告に耳を傾けながら、微笑ましくカップを傾けている。
「伯爵家の裏仕事が王宮にバレて、大騒ぎしているんですってね」
「ああ、噂を流して火種を蒔いた甲斐があった。あのアルトゥーロがどんな顔をしてるか見ものだな」
「きっと焦ってるわね。リディアの復讐心も暴走するだろうし……うふふ、楽しくなってきたじゃない」
「まあ、俺も張り合いが出る。余裕があるうちにさらに追い込んでやろう。王宮の役人にも協力を仰いでいるし、伯爵家が守りに入れば逆に攻めやすい」
シャーロッテは嬉しそうに微笑み、レオンハルトは余裕の笑みを返す。彼らからすれば、伯爵家の混乱は好都合以外の何物でもない。
シャーロッテはまだ物足りないと感じていたが、近いうちにリディアとの直接対決があるかもしれないと思うと、その期待が腹の底で渦を巻く。
「さあ、あの父娘がどう足掻くかしらね」
「もがく姿を見物するのもいい。いずれ踏みつぶせばいいだけの話だ」
虚ろに光る二人の眼差し。その裏には伯爵家を追い詰め、完全に崩壊させる算段がうっすらと見えている。
ただ、彼らはまだ知らない。カトリーヌが自由に情報を操り、彼ら自身も踊らされていることを。あるいは、侍女シエラの危険な忠誠がどんな惨劇をもたらすかも――。
◇ ◇ ◇
夕刻、伯爵家の一室。アルトゥーロは帰ってきた部下たちの報告を聞きながら、頭痛を押さえ込むようにこめかみを揉む。
「王宮の取り調べはかなり本格的だ。何人か喚問されれば、一気に不正が暴かれる恐れがある」
「伯爵様、早めに逃げ道を確保するべきでは……? もしくは証拠隠滅を急がないと」
「……そうだな。何としてでもやつらを葬る。手段は選ばん」
低く呻くように、アルトゥーロは再度の決意を固める。リディアとの対立やシエラの危険性を脳裏で反芻しながらも、「負けるわけにはいかない」と呻く。
親子間で衝突していようと、自分が守るべきは伯爵家の威厳。ここで膝を屈すれば全てが終わる――それだけは避けねばならない。だが焦りが混ざった今、彼が選ぶ策はますます危険を孕むに違いない。
◇ ◇ ◇
夜更けになり、リディアは寝室の窓辺に立っていた。外の闇を見つめる瞳には、狂おしいほどの怒りと不安が宿っている。
「父様、失敗しないでよ。私の復讐が水の泡になったら……許せないから」
彼女の中で父親への信頼はすでに揺らいでいた。シャーロッテとレオンハルトを地獄に落とす夢が、裏稼業の失敗によって跡形もなく消えるかもしれない。そんなシナリオは絶対に受け入れられない。
もし父が本当に失敗したら――まさか、シエラが口にしかけたように「父親を消す」という選択肢に踏み切るのだろうか。リディアの唇が震え、無意識に独白を漏らす。
「シエラ……あなた、私のためなら父様でも殺すの? 本当に……?」
窓の向こうに浮かぶのは細い月。今にも消えそうな月明かりが、リディアの横顔を照らし出す。その顔には悲壮感と狂気が混ざり合っていた。
伯爵家が崖っぷちに立たされ、親子の対立が顕著になる中、リディアもまた追い詰められている。父アルトゥーロの失態に激怒し、復讐の芽が遠のくことを恐れる。
果たして、このまま父を捨ててシエラと共に孤立無援の行動に出るのか、それとも伯爵家の名の下に公爵家を叩き落とすのか――どちらにせよ、家族ですら疑い合う狂気の世界。
ラストの不穏な沈黙が夜を包み込み、リディアは強く目を閉じる。明日にはさらに過酷な運命が待っているに違いない。どんな形であれ、破滅が近づいている予感が胸を締めつけるからだ。
「……やるしかない。私も父様も、手段を選んでる場合じゃないわ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいたその声は、どこか危険な決意に満ちていた。窓の外に沈む月が、まるで悲鳴を上げるかのように淡い光を揺らし、夜は一段と深まっていく。
闇の底で、伯爵家の危機が加速する音が聞こえてきそうだ。誰もが無事ではいられない。シエラの狂信、アルトゥーロの焦燥、そしてリディアの復讐心……それらがどんな形で最終的に爆発するのか、今はまだ誰も知る由もなかった。




