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第1話 破滅の序曲②

 ワインで汚れたドレスをじっと見下ろす。真紅の汚れが、まるで血のように広がっていた。


「……冗談じゃない。こんな屈辱……ふざけないで。あの男も、あの女も」


 一歩、また一歩と下がりながら、私はぐっと胸を押さえた。虚ろな気分で失神しそうだった。だが、そのとき私の腕を支えた細い手がある。侍女のシエラだった。


「リディア様、大丈夫ですか?」


 シエラは心配そうな表情をしながらも、その瞳には奇妙な光がある。どこか嬉しそうにも見えた。私が彼女を(にら)みつけると、シエラはハッとした様子で首を振る。


「ごめんなさい、違うんです。私は……リディア様がこんな目に遭うなんて、耐えられません。でも、だからこそ……」

「……だからこそ、何?」

「私がすべてをお手伝いします。リディア様が望むことなら……どんなことだって」


 彼女の声には震えが混じっている。まるで狂信者が神を崇めるような熱に浮かされた響き。その視線は明らかに常軌を逸していると感じた。だが、私にとっては見慣れたもので、むしろ頼もしさすらある。


「ええ、ありがと……シエラ」


 私は彼女の申し出を受け止める。震える自分の心を、かろうじて支えてくれる支柱のように思えたから。


「リディア! お前……なんてことだ!」


 声のする方を見ると、父であるアルトゥーロ伯爵が憤怒の面持ちでこちらに歩み寄ってくる。この場にいるにもかかわらず、彼は私を救い出すタイミングを失ったのだろう。今さら遅い。


「婚約破棄を言い渡されたのか? どうしてだ……まったく、なんて醜態だ!」

「……お父様。私だって、好きでこんな目に遭っているわけじゃない」


 怒鳴り声を静めるように、冷たい口調で言い返す。父の覇気に押されはしない――私も伯爵家の娘なのだから。


「今は落ち着くんだ、リディア。相手は公爵家……しかもあのレオンハルトだ。無闇に騒いで社交界から白い目で見られたら、グラシア家の立場が一気に危うくなる」

「そんなもの、どうでもいいわ。あいつらを地獄に突き落とすのよ。私をこんな笑い者にした代償は……絶対に払わせてやる」


 父の言葉が耳に入らないほど、私の頭には怒りがぎゅうぎゅうに詰まっていた。自分が晒された屈辱を晴らすためなら、どんな手段でも使ってやる。レオンハルトとシャーロッテ、そして嘲笑った連中を思い切り後悔させたい。


 そんな私の決意に気づいたのか、父は一瞬息を呑んだ。その後、何かを思いついたように唇を歪めている。もしかすると、彼も同じように公爵家への反発心を燃やしているのかもしれない。伯爵家の名を汚されたとなれば、黙っていられるはずがない。


「お父様……見ていなさい。私は、あの男とあの女を、絶対に破滅に追い込んでみせる」

「……ふん。余計なことは言うな。これ以上騒ぐと面倒だ。今は退散するぞ」


 父はそう言って、私の腕をつかんで会場の隅へと誘導する。私はそれに逆らわず、しかし振り返り際に、あの惨状を――私に向けられた嘲笑や冷たい視線を心に焼き付けた。


 そこには、どこか面白がる目を向けている令嬢の姿も見えた。あれはカトリーヌ・フォン・エイヴァリン――私の「友人」を名乗る名家の娘。彼女は上品な扇子で口元を隠しつつ、目だけが笑っているように見えた。それが気に障ったが、今は責める力もない。


 傷ついたプライド。胸を(むしば)む怒りと恥辱。何より、私を嘲笑する周囲の様子が、まとわりつくように記憶に刻まれている。レオンハルトに杯を投げつけられ、ワインを浴びせられた屈辱に震えながら、私はひそかに誓った。


(許さない。絶対に許しはしない。私をこんな笑い者にした連中は、みんな地獄に落としてやる……!)


 ドレスの裾から滴る赤い液体が、まるで血のように感じられた。この夜会は華やかなはずなのに、私にとっては地獄の始まりにしか思えない。


「リディア様……どうか、ご自分を責めないで。私がいます。あの方たちを罰するのなら、お手伝いします」


 シエラが私の袖をそっと引く。彼女の瞳は、穏やかな光を放っていた。その献身的な態度に、私はふっと笑みを漏らす。自嘲気味に、だが確実に狂気の兆しを伴う笑い。


「シエラ、これから私たちは忙しくなるわよ」

「はい、何でもいたします」


 狂ったように輝くシエラの瞳が、やけに頼もしく思えた。父は私を守ってくれるかもしれないが、どこか信用できない部分がある。けれど、シエラは違う。私のためなら命を捧げると言いそうなほどだ。


 私は濡れたドレスを脱ぎ捨てるように払う。こんなもの、ただの儀礼に過ぎなかった。伯爵家と公爵家の結びつきを象徴するドレスも、もう用なしだ。


 先ほどまでの私なら、大勢の視線を集める夜会が大好きだった。でも今は、この場にいる全員が気味の悪い化け物に見える。誰も信じられないし、誰も愛せない。いいわ、それなら私がこの狂った世界で、最も底知れぬ狂気を振るう存在になってやる。


「リディア、落ち着け」


 父の声が聞こえる。だが、その言葉を聞いても、もう私の中の怒りは収まりそうにない。それは小さな爆弾のように、胸の奥でチリチリと音を立てている。


 私をあざ笑った人々も、軽蔑の目を向けた貴族も、みんなまとめて破滅させてやりたい。レオンハルトとシャーロッテ、その二人が幸せに微笑む未来なんて、認められるはずがない。絶対に潰す。地獄に叩き落として、二度と私の前で笑えないようにしてやる――!


「……待ってなさい。私が、あなたたちを地獄に落としてあげる」


 心の底から絞り出すように誓った。会場の外では、夜の冷たい風が肌を撫でる。私の息は荒く、胸は焦りと怒りでかき乱されている。それでも、この屈辱が私を突き動かす燃料になるのを確かに感じていた。


 笑い者にしてくれた恩は返さなくてはならない。たとえどんな手段を使ってでも。誇り高きリディア・ド・グラシアとして、全員を道連れにして破滅へ導いてみせる。それが、この地獄の夜会で受けた“祝福”に対する、私なりの答えになるだろう。


 顔を上げると、ほんの数歩先にいるカトリーヌが、私を見つめてにこやかに微笑んでいた。まるで「もっと面白いことになりそうね」と言わんばかりの表情。彼女が私の「友人」だというのなら、それでも構わない。利用できるものは全部利用するまでのことだ。


 私は泥を浴びせられたドレスをぎゅっと握りしめ、もう一度だけ夜会の中心を振り返った。シャンデリアの光が(まぶ)しく、笑い声はまだあちらこちらに響いている。私はここから逃げ出したわけではない。むしろ、ここが戦場の始まり。勝手に私を弱者扱いした連中を、(ひざまず)かせるための第一歩だ。


「絶対に……地獄に落としてやる――!」


 最も深い闇の底から、怒りの火を宿した言葉がこぼれ落ちる。華やかな音楽が止まらぬまま、私の屈辱に満ちた夜会は終わりを告げた。けれども、それは復讐のプロローグにすぎない。狂気に満ちた舞台の幕が、今ゆっくりと上がろうとしていた。

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