第8話 カトリーヌの罠①
伯爵家の玄関ホールは、朝の光を受けて大理石が淡い輝きを放っていた。そんな静かで優雅な空気をかき乱すように、一台の豪奢な馬車が敷地に乗りつける。扉から降り立ったのは、上品なピンクのドレスを纏ったカトリーヌ・フォン・エイヴァリン。
いつもながら堂々たる姿で、まるで自分の家のように伯爵家へ進んでくる。使用人たちは顔をこわばらせながら応対に回り、すぐにリディアへの取次を始めた。
「ごきげんよう、リディア。朝からごめんなさいね」
カトリーヌはにこやかに挨拶をしつつ、リディアの私室に通されると、小振りの帽子を脱いで使用人に預ける。キラキラとした微笑がそこに貼りついたまま、しかしその目は冷やかに様子を伺っている。
「カトリーヌ。わざわざ足を運んでくれるなんて、何かあったの?」
「ええ、少し耳寄りな情報があって。先に言っておくけど、確定情報ではないから注意してね」
その言葉にリディアは首をかしげ、ソファに腰を下ろすよう促す。いつものようにティーセットが用意されるが、ピリピリとした空気が漂うのを、侍女のシエラは感じ取っていた。
リディアの傍らで控えるシエラは、カトリーヌに向ける眼差しがどこか警戒じみている。しかしリディアのほうは、友人と信じて疑わぬ様子でカトリーヌを見やる。
「耳寄りな情報って、まさか公爵家絡み?」
「そう。実はレオンハルト様とシャーロッテが、『伯爵家へのなんらかの攻撃』を企んでいるんじゃないかって噂を耳にしたの」
「攻撃? 具体的には?」
「私も詳しくは聞けなかったわ。ただ、伯爵家の裏仕事を暴くような動きをしてるとか、社交界のパーティで伯爵家を失墜させる目論見があるとか……。信憑性はまだ半々かな」
ティーカップを持ち上げながら、カトリーヌはさりげなくリディアの反応を伺う。実はこの情報の大半は、彼女が“適当に脚色した偽情報”でしかない。目的はリディアを過激化させること、そして面白い展開を引き起こすことにある。
「なるほど。もし本当なら、あの公爵家の馬鹿どもが動き始めたのね。父様の裏仕事を暴く? そんなことさせるわけないじゃない」
「そうよね。私としても、あなたのご家族に危険が及ぶのは見たくないわ。だから少しでも早くあなたに知らせたかったの」
「ありがとう、カトリーヌ。あなたはやっぱり信頼できる友人だわ」
リディアの瞳には憤りと不安がない交ぜに浮かんでいるが、そこにはカトリーヌへの疑念は微塵も感じられない。シエラが「リディア様、どうかお気をつけください」と何度も忠告してきたのに、リディアはその声を取り合っていないのだ。
「そういえば、伯爵家の裏仕事って……噂で聞くと恐ろしそうだけど、本当にいろいろやっているの? 私、あまり詳しくなくて」
「まあね。父様はそれなりに手を伸ばしてるわ。でも、ここで詳しく話すようなことじゃないでしょう?」
「ふふっ、ごめんなさい。野暮なことを聞いたわね」
カトリーヌは口元を扇子で隠し、楽しげに笑う。その笑みの奥で、彼女がどれほどの陰謀を思い描いているか、リディアは知る由もない。
使用人が部屋を出ると、シエラが控えめに口を開いた。
「リディア様、カトリーヌ様から頂いた情報も、まだ確証はないのですよね。念のため、私の方でも裏付けをとってみましょうか」
「ええ、お願い。あいつらが何をしてるか、正確に知りたいもの。今さら公爵家に先手を打たれるなんて馬鹿らしいし」
「……かしこまりました」
シエラはカトリーヌに軽く頭を下げてから、部屋を退室する。目が合ったとき、一瞬だけ鋭い光を放っていたが、カトリーヌは何も言わず、相変わらず優美に微笑んでいる。
「シエラって侍女さん? いつもリディアに付き添ってるのね」
「ええ、私にとっては頼もしい存在よ。ちょっと過保護すぎるところもあるけど」
「うふふ、リディアが少し無茶をするからじゃない?」
意味深な台詞を落として茶をすするカトリーヌ。そんな彼女に、リディアは「まあね」と苦笑する。最近になって無茶を言うことが増えたのは自覚しているし、それを支えてくれるのがシエラだと理解もしている。
「ねえ、カトリーヌ。少しアドバイスが欲しいの。私……どうすれば、あの男と女を確実に追いつめられると思う?」
「レオンハルト様とシャーロッテのことね?」
「そう。もうすぐ父様の裏工作が本格化して、向こうを揺さぶれると思う。けど、ただ噂を流すだけじゃ物足りないの。もっと直接的に――」
勢い込んで言いかけたリディアを、カトリーヌはスッと制するように手を上げる。扇子の柄がカップの縁に軽く触れ、コトリと音がした。
「待って、リディア。その言葉、あまり大きな声で言わないほうがいいわ」
「……え?」
「公爵家に限らず、どこに盗聴の目があるかわからないもの。あなたが直接手を下す……なんて話、表に漏れたら困るでしょう?」
「そ、それは……」
リディアは一瞬ドキリとする。自分がシエラに語っている凶暴な計画や、父アルトゥーロと口論した内容が、もし漏れているとしたら――想像するだけで背筋が冷えた。
しかし、その不安を感じさせまいとするように、カトリーヌは朗らかに笑う。
「大丈夫よ、私以外に聞いている人はいないと思うけど。一応、念には念を入れましょうって話。ね?」
「……そうね。ありがとう、カトリーヌ」
完全に油断しきっているリディアに、カトリーヌは内心ほくそ笑む。まさか、リディアがこれほどあっさりと自分を信頼してくれるとは思わなかったほどだ。このままなら、いくらでも彼女の計画を聞き出せる。
「それより、リディアはどうする? 伯爵家の力を使えば、レオンハルト様を社会的に抹殺するのも夢じゃないと思うけど」
「……そうするつもりよ。捏造工作なんて手段の一つ。私としては、やはり身体的にも痛い目を見せてやりたい。あの男とシャーロッテ、二人とも」
「うふふ、やっぱりあなたは行動派だわ。まあ、きっと近いうちに思い通りの機会が来るんじゃない?」
「そうかしら。だったら早く訪れてほしいわ。……もう我慢の限界」
くぐもった声で吐き出される怒りから、リディアがどれほど憎悪に取り憑かれているかがうかがえる。カトリーヌはそんな彼女の憤りを煽りつつ、優しく微笑む。
「無理はしないでね、リディア。万が一にも危険が迫ったら、いつでも私に相談して。あなただけは巻き添えにしたくないから」
「ありがと。あなたがいてくれると助かる。カトリーヌこそ、私に何かできることがあれば言って」
「もちろん。今のところはないかな。私は私で、あなたのために情報を集めるつもりだから」
そう言って、カトリーヌは「それじゃあ、今日はこれで失礼するわね」と立ち上がる。リディアは惜しそうに表情を歪めるが、無理には引き留めない。
部屋を出る際、廊下で待っていたシエラと目が合う。シエラはかすかに眉をひそめるが、カトリーヌはあっさり通り過ぎる。
「お邪魔しました、シエラさん」
「……お疲れさまです、カトリーヌ様」
その短い言葉の間に、不穏な空気がすれ違った。しかしカトリーヌは、まるで何事もなかったかのように伯爵家を後にする。その背中はどこか軽快で、まるで獲物を仕留める狩人が帰還するようでもあった。
◇ ◇ ◇
「リディア様、カトリーヌ様を信用しすぎではありませんか?」
カトリーヌが去ったあと、シエラは部屋に戻り、厳しい口調で尋ねる。彼女にしては珍しく切迫した声だ。
「シエラ……またその話? 私だってバカじゃないわ。カトリーヌが何を考えてるか疑いたくなるときはある。でも、あの子は昔から私の友人なのよ」
「ええ、ですが今は状況が状況です。カトリーヌ様はどうも意図的にリディア様を煽っているように見えます」
「……煽ってる、ねぇ」
リディアはシエラの顔をまっすぐ見る。侍女の目には強い危機感が宿っていて、それが嘘や誤解とは思えない。
「それに、彼女はあなたに随分といろいろ尋ねていました。伯爵家の裏事情や、あなたがどんな手を使うつもりか……」
「それは……友人だからこそ聞いてくれるのよ。私のために情報を集めてくれるって」
「……甘いです。彼女はあなたが言ったことを、どこへ流しているかわかりません」
「もういいわ、シエラ。これ以上、カトリーヌの悪口を聞く気はない。あなたが心配してくれる気持ちはわかるけど、私はカトリーヌを信じてる」
リディアの声音が苛立ちに満ちる。シエラは口を結ぶしかなかった。リディアを盲信する侍女が、カトリーヌに警戒心を抱いている光景もまた狂気じみているが、リディアは今まさに反論を受け付けられない心理状態だ。
シエラは困惑したように一礼し、部屋を出る。リディアは肩を落としながら窓を見つめる。もしかしたらシエラの言い分にも一理あるかもしれない、という不安が脳裏をよぎるが、それをかき消すほどに“カトリーヌだけは信じたい”という思いが強い。
「カトリーヌが裏切るなんてこと……ないわよね」
小さくつぶやく声が、誰にも届かない虚空へ消えていく。




