第7話 牙をむく伯爵①
伯爵家の奥深くにある書斎。分厚いカーテンに阻まれ、外の光はほとんど届かない。巨大な机には散らばった書類や地図が山積みされ、その上に片肘をついているのはアルトゥーロ・ド・グラシア伯爵だ。
眉間に刻まれた深い皺が、ただでさえ厳つい表情をいっそう険しく見せている。部屋の片隅には数名の男が控え、緊迫した空気が張り詰めていた。
「……なるほど。あの公爵家の噂に尾ひれをつければ、向こうの評判はじわじわ落ちるだろう。計画としては悪くない」
アルトゥーロの低い声が書斎にこもる。そこにいるのは、彼の部下の一人――闇商人のパイプを握る男だ。黒い外套を羽織り、顔の半分を隠すように立っている。
「ええ、伯爵様。レオンハルト公爵家の財政運営には、いくつか隙があります。とくに愛人関係や賭博遊びの問題を捏造し、噂をばら撒けば、王宮の耳にも届きやすいでしょう」
「捏造か。……ふん、それであの男の評判を落とすつもりか。ちまちましたやり口だが、それも一つの作戦だな」
書斎の壁には伯爵家の紋章が飾られている。豪華な椅子に腰かけるアルトゥーロの目は、気怠そうに見えて、その奥には野心的な光が潜んでいた。
彼にとって、伯爵家の栄光は絶対だ。ところが、娘リディアがあの夜会で婚約を破棄されて以来、表向きの地位こそ揺らぎ始めているものの、まだ裏社会のコネを維持している。アルトゥーロはそれを最大限に活かし、公爵家を揺さぶろうと決心していた。
「これまでレオンハルト公爵家との縁は利用してきたが、奴らがこちらを軽視するなら叩き落とすしかない。……それに、あのレオンハルトだけじゃない。彼の取り巻きも鬱陶しい。今のうちに手を打たねば、こっちがやられる」
「さすが伯爵様、お考えが早い。わたくしどもも協力を惜しみません。ただ……あちらも黙っているとは思えませんので、慎重に進められますよう」
「ああ、わかっているさ。迂闊に尻尾をつかまれるわけにはいかないからな。……お前たちの働き次第で、報酬は弾んでやる」
アルトゥーロはそう言い放ち、机の上の書類を手で払いながら立ち上がった。椅子から腰を上げると同時に、部屋の空気が微妙に揺れる。彼の存在感が、あまりに威圧的だからだ。
部下の男たちは頭を下げ、静かに退出の準備を始める。伯爵家の当主の命令は絶対であり、それに背けば闇で始末される運命が待っていると、全員がよく理解していた。
「では伯爵様、我々は町に戻り、この計画を速やかに進めるとしましょう。噂が広がりきるまで、それほど時間はかからないはずです」
「頼むぞ。……何かあればすぐに報告しろ」
男たちが去ると、書斎にはアルトゥーロともう一人の姿が残った。奥の暗がりから、まるで影のようにゆっくり近づいてくるのはリディアだ。伯爵令嬢らしい華麗なドレス姿をしてはいるが、その表情はやや興奮気味で、瞳がぎらついている。
「父様、なんだか面白い話をしていたみたいね。レオンハルトの不正をでっち上げるの?」
「どこから聞いていた? 勝手に盗み聞きするとは、相変わらずだな」
「別にいいじゃない。私も伯爵家の一員よ。あいつをどうやって攻撃するのか、知っておきたいわ」
リディアは笑みを浮かべて書斎の机へと近づく。アルトゥーロは「また無茶を言い出すかもしれない」と警戒するように目を向けたが、その警戒心はむしろリディアの内面にあふれる狂気を物語っていた。
「お前に聞かせるほどのことでもない。噂を捏造して、レオンハルトと公爵家全体の評判を落とす計画だ。手堅い方法だろう?」
「手堅いわね。でもそれだけじゃ物足りない。もっと直截的に、痛めつけてやった方が面白いと思わない?」
リディアは机の端に腰かけ、足を組む仕草を見せる。眉を吊り上げたアルトゥーロは低く唸るように言った。
「直截的? まさかとは思うが、お前……暴力沙汰を考えてるのか」
「『まさか』じゃないわ。シャーロッテも含めて、あの連中に血の制裁を加えるぐらいはしたいの。あいつら、私を散々バカにしてくれたんだから」
「阿呆が。貴族の娘が血を流すなんて言語道断。公になるような行為は許さん」
アルトゥーロが怒気を含んだ声でリディアを叱責する。しかし、リディアはまるで悪びれない表情だ。むしろ痛快そうに唇を歪め、父親の目を挑発するようにのぞき込む。
「言語道断? でも父様、あなたは裏社会でいろんな手を使って敵を片付けてきたでしょう? 私にさせない理由は何?」
「私は当主だ。お前のような小娘が手を血に染めるなど、許されるはずがない。これは伯爵家の品位にも関わる」
「伯爵家の品位? 失笑ものね。裏で人を殺すのも品位の一部だというのなら、私が動いても問題ないじゃない」
苛立ったアルトゥーロは思わず机を叩く。書類がばさばさと音を立てて崩れ落ちるが、リディアは全く動じずに上目遣いで父を睨む。
伯爵家の看板を守るために、暗殺や捏造を当たり前に行うのがアルトゥーロのやり方。だがリディアは娘ながら、もっと激しい“復讐”を望んでいる。そこには親子ながら、微妙なズレが生じ始めていた。
「……とにかく、お前が表立って血生臭い真似をするのは許さん。裏工作でじわじわと奴らの評判を落として、王宮の取り調べを引きずり込めば、あっという間に破滅させられるんだ。余計なことをするな」
「はいはい、わかったわ。言われた通りにはしないけど、あなたの計画を邪魔する気はないわよ。どうせ捏造で追い詰めるなんて、多少は効くでしょうから」
「……お前、何を考えている?」
「さあ、秘密。父様は自分のやり方でやればいいわ。私も私で、あの女とあの男に制裁を加える手段を探すだけ」
リディアの口調があまりに勝気なため、アルトゥーロは渋面を作る。彼女が自分以上に強い復讐心を燃やしていると知っていても、娘が危険な道へ突き進むのは放っておけない――という複雑な思いがあるのかもしれない。
しかし、その感情を露わにできるほどアルトゥーロは甘くはない。彼は伯爵家の当主として、娘をも利用しつつ、自らの野望を成し遂げる覚悟を持っている。
「ふん。自由にしろ。ただし、私が計画する捏造工作の足を引っ張るな。公に名が出るような騒ぎは起こさないことだ。お前が指示したとバレたら、伯爵家ごと終わるからな」
「わかってるわよ。なにも堂々と『私が殺しました』なんて言うわけないでしょう?」
リディアはパッと笑顔を作って見せる。まるで父親を翻弄するかのような、その悪戯めいた笑みに、アルトゥーロは言葉を失う。それでも、再度の衝突を避けるかのように彼女から視線を逸らした。
「……もう部屋を出ろ。私にはやることが山ほどある。公爵家を潰すための裏工作は、時間との戦いでもあるのだ」
「わかったわ。せいぜい頑張って。私も私で『生ぬるくない』やり方を考えるから」
リディアは椅子を降り、くるりと踵を返して書斎の扉へ向かう。ドレスの裾がゆったりと揺れ、まるで貴婦人の優雅な歩みのように見える。ところが、その背中から漂う雰囲気は凶暴な獣に近い。
扉が閉まる寸前、アルトゥーロは何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にはしなかった。親子のわずかな対立がひそやかに息を潜め、変わりに伯爵家の闇がさらに濃くなっていく。




