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第1話 破滅の序曲①

 大広間いっぱいにシャンデリアが輝き、きらびやかな音楽が鳴り響いている。四方には絢爛(けんらん)なドレスを(まと)った貴族令嬢や、優雅なタキシード姿の紳士たちが談笑を交わし、笑い声を跳ねさせていた。そんな華やかな空間の中央を、私は――リディア・ド・グラシアが、まるで舞台女優でもあるかのように堂々と歩いている。


「リディア様、本日も本当にお美しいですわね」

「ええ、まったくです。どんな名家の令嬢もかないませんわ」


 周囲からは絵に描いたようなお世辞が飛び交う。聞き慣れた賞賛の言葉にもはや特別な感慨はない。それでもこうした夜会の舞台で、伯爵令嬢としての私は注目の的になっていなければ気が済まない。輝かしいドレスに彩られ、皆から羨望の視線を受けることこそが、私にとっての当然の景色だった。


 我が伯爵家――グラシア家が主宰するこの夜会は、ひときわ豪勢だ。父アルトゥーロが準備にかなりの費用をかけたせいか、来場者の数も格段に多い。そこには社交界の中心を担う公爵家、侯爵家、伯爵家の者たちが勢ぞろいしている。もちろん、私の婚約者であるレオンハルト・フォン・シュタインヘルツ――公爵家の嫡男も堂々と姿を現していた。


「リディア様、そろそろレオンハルト様がお見えになるかと」


 控えめに耳打ちしてきたのは、私の侍女、シエラ。彼女はいつも通り淡々と仕事をこなしているように見えるが、その瞳には熱っぽい光が宿っていた。以前から感じていることだが、シエラの私に対する態度は、普通の侍女の範疇を超えている。忠誠というよりは、もはや崇拝に近い。


「ええ、分かっているわ。今宵は私とレオンハルトの関係を公に示す、最初の夜になるかもしれないわね」


 そう言って口元をほころばせた。実際、今夜が特別なのは間違いない。私とレオンハルトが正式に婚約を結んだのは数か月前のこと。だけど、公的に披露する場はまだ訪れていなかった。だからこそ、この夜会は伯爵家としても公爵家としても、私たちの婚約を祝福する意味合いが強かったはずだった。


 もっとも、レオンハルトがどんな顔で私を見つめるかには関心がある。あの優雅で涼やかな笑みを浮かべながら「愛しているよ、リディア」とささやいてくれる瞬間だけは、私も心が高揚する。


「リディア、調子はどうかな」


 甘い声が背後からかかった。振り返ると、想像通りの美貌を引き立てる漆黒のタキシードに身を包んだレオンハルトが、軽薄そうに笑っている。栗色の髪をなでつけ、貴公子然としたたたずまいにはまるで隙がない。


「今宵の主役が、やっと私のところへ来てくれたのね。遅いわ」


 私はわざと少しだけ尖った口調で返す。それでも、彼が婚約者であることを示すように、軽く腕を組む仕草も忘れなかった。周りの貴族たちが「あらあら」と微笑ましそうに視線を向けてくる。優越感が満ちる。


 だが、そのときのレオンハルトの微笑は、どこか得体の知れない冷たさを(はら)んでいた。ほんの一瞬、ゾクリとした。けれど、深く考える前に彼が口を開く。


「リディア、ちょっと話がある。ここではなんだ。あちらへ」


 そう言うと、レオンハルトは私の手を取って、少し人気のない空間へと導く。舞踏会場の中央付近には多くの人が視線を送ってくるから、二人きりになりたいという発言も自然に聞こえた。恋人同士の甘い時間を周囲が察して、私たちの周りにできたささやかな円がくすんでいく。


「あなた、何をそんなに焦っているの?」

「焦っているのはそっちかもしれない」


 苦笑とも嘲笑ともつかない笑い方。思わず眉をひそめる。レオンハルトは少し離れたところでグラスを傾けると、その中身を一気に飲み干した。紅い液体が喉を伝う様子がやけに生々しい。


「リディア、お前はとても美しい。誰もが認める存在だ。……だけどな」

「なに?」


 胸がざわついた。どこか嫌な予感がする。いつもなら「今夜も綺麗だね」と軽やかなセリフを言う彼が、遠回しな言い方に変わっている。その空気にまとわりつく違和感は、心臓を締めつけた。


「正直、限界なんだ。お前の性格には、もう耐えられない」

「……は?」


 頭の中が真っ白になった。まるで理解に時間がかかる。私が聞き返すと、レオンハルトは淡々と続ける。


「取り(つくろ)うのも面倒になったんだ。お前の傲慢さ、見下す態度、そして……そうだな、醜い自己愛。それに巻き込まれるのはたくさんだ」


 言葉が理解できなかった。私は伯爵令嬢リディア・ド・グラシア。身分も容姿も一流。加えて、公爵家嫡男レオンハルトの婚約者としては社交界の花形である自負がある。それなのに、この男がなにを言っている?


「ちょ、ちょっと……レオンハルト、冗談はやめて。こんな人の多い場で、そんなふざけたことを」

「冗談じゃない。むしろ手短に済ませたい。――婚約を破棄する」

「……はぁ?」


 あまりに唐突な宣言に、思わず呆気にとられる。すると、背後でざわざわと人々の息を呑む気配がした。どうやら、私たちの様子に興味を持った貴族たちが、遠巻きに聞き耳を立てているようだ。


「レオンハルト様……? それはどういう……ことですか……?」


 これはどこかの令嬢の声だろうか。それを聞きつけて、会場のあちこちから「え?」「なにごと?」とささやきが広がる。私の父、アルトゥーロ伯爵も視界の端でぎくりと動いた気がする。


「リディア、お前との婚約は今この場で解消する」


 そう言ってレオンハルトはテーブルに置かれていたグラスを手に取り、私のドレスの裾に投げつけた。派手な音を立てて砕け散ったガラス片と赤ワインが、雪のように舞う。ドレスが色濃く染まっていく光景を呆然と見つめた。


「どうして……? 私とあなたは、伯爵家と公爵家の結びつきで――」

「うんざりなんだよ、リディア。お前のわがままに振り回されるのは、もう我慢ならない。それに俺には……そう、心から愛する人がいるんだ。お前よりはるかに優美で、可憐な人が」


 遠目に見える彼の横には、ふわりとした淡いピンクのドレスを纏ったシャーロッテが立っていた。瞳は潤みがちで、まるで哀れんだように私を見ている。シャーロッテ・ベル・ローウェル――小貴族の娘で、レオンハルトとは公私ともに仲が良いと噂は聞いていた。でもまさか、彼女に婚約を乗り換えるなんて話は全くの寝耳に水。


「性格に耐えられない、ですって? それだけが理由?」


 喉がひどく乾き、声がかすれる。場の空気が凍りついているのが分かる。私がどれほど恥をかかされているか、この男は分かってやっているんだろうか。


「理由ならそれで十分だろう。あとは、もし今後しつこくすがりついてくるようなら……俺も容赦はしないからな」


 その言葉に、会場のあちこちから笑いが漏れた。「リディア様も大したことないわね」「あんなに高慢ちきだったのに、かわいそうねえ」とささやき合う女たち。その視線が私の肌を突き刺すように痛い。息が詰まりそうだった。


「……笑わないで」


 思わず小声で吐き出した。だが、その声は聞き流される。あちこちから聞こえるくすくす笑いと、私を見下す視線の束。レオンハルトは、その中心で優越感に浸ったように口元をゆがめた。


「笑わないでよ!」


 気づけば私は叫んでいた。誰も私を助けない。私のプライドは、この一瞬で踏みにじられたのだ。数分前まで自分を輝かしい主役だと思っていたのに、今や見世物にされているのだから。


「やれやれ、見苦しいぞ、リディア。哀れな女だ。さあ、シャーロッテ、行こう」

「はい、レオンハルト様」


 シャーロッテは申し訳なさそうなふりをしながら、目の奥では何かしらの優越を感じているようだった。ばかにしたような薄い笑いを携えて、彼と腕を組んで踵を返す。二人の後ろ姿が遠ざかるとき、人々の視線はさらに私に集中した。スキャンダルが大好きな貴族たちは、面白おかしく私の失態を語ろうとしたに違いない。

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リディアに共感しすぎたのか、読後はちょっと動揺しました。 こういう感情をちゃんと引き出してくるの、すごいと思います。
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