名前と出発
「えっと?」
『手紙はもう、しまっていいと思うよ』
「あ、うん」
いわれるままに手紙をポケットにしまうミリア。
だけど内心の迷いがあるようだった。
それを見た黒猫──コータが説明する。
『わかってると思うけど、その手紙の中にさっきの彼が入ってたわけじゃないからね。
彼は、簡単にいえばトラファガー便のエージェントプログラムさ。
手紙の中身を読み上げ、君に聞かせるのが主なお仕事だね』
「……なるほど、つまり今のは、中の人がお仕事終了で帰っちゃったってこと?」
『うん、その理解でいいよ』
コータは大きくうなずいた。
『手紙の仕事はおわり、ここからは僕が引き継ぐよ』
そうしてコータは身をブルッと震わせると、居住まいをただすように身を軽く整えた。
さらに塀の上にとびあがり、ミリアより高い目線を確保した。
『改めて自己紹介するよ。僕はコータ、見ての通り猫の姿をしているけど、一応これでも銀河のいち市民だ。ここまではいいかな?』
「あー、はい。えっと、しゃべる猫だと思ったけど猫じゃないってこと?」
しゃべる猫。
それはそれで信じられない事だけど、それを言うならさっきまでの手紙を運んできた猫の人や乗り物、手紙自体も色々とおかしかったわけで。今さらではあった。
『まぁ、僕の事はどうでもいいさ、今はとにかく君をお父上のところに届けなくちゃね』
「……本当に連れて行ってくれるの?」
『もちろんだけど、それより準備はしなくていいのかい?』
「え、準備?」
『ここに呼ばれるまで、僕は地球を出る準備をしてたんだ。君も急いだほうがいい、今すぐ』
「……何か大変なことがあったの?」
『ああ、最悪だよ。今後のことはわからないけど、かりにいつか戻るとしても今は避難したほうがいいね』
「……そんなにひどいんだ」
『うん、ひどいよ』
コータは、ためいきをついた。
『ここ日本は猫好きが多くて暮らしやすそうだったんだけどなぁ。残念だよ』
「日本は長いの?」
『いや、でも話にきいてたよ。銀河でね』
「……なんで宇宙で日本の話なんか?」
『そりゃあ、銀河での僕の身元保証人が元日本人だからね』
「え、宇宙に日本人がいるの?」
『いるよ』
それは想定してなかった。
「それにしては状況が不穏?」
『今、地球にきてる連中は銀河連邦というんだけど、彼らは地球みたいな星が大嫌いでさ、昔から地球に地道に関わってきた別勢力の連中とケンカになってるんだよ。
そういう君こそ、あまりいい状況じゃないんじゃないの?』
「うん」
『即答か……今の保護者と信頼関係がないってこと?』
「こっちが幼児だからって私の名前まで奪おうとした人たちよ。信じられるわけないわ」
『げ、ボルダ人の名を奪うって……なるほど』
「?」
『事情があるんだけどね、ボルダ人の名付けは特別なんだよ』
「特別?」
『名前を心の奥底──魂といってもいいかな、そういう根源のところに刻むんだ。君が誰で、親は誰かってね』
「……もしかして、わたしがミリアでい続けられたのって」
『うん、お父さんとお母さんだね。ふたりが愛情をこめて刻んだんだ──わたしたちのミリアって』
「!」
ミリアの顔がゆがみ、涙が少しこぼれた。
しかしミリアは何かに耐えるようにして、そして涙をおさめた。
『泣いてもいいよ別に』
「だめ、それどころじゃないんでしょ?」
『そのとおりだけど……いいの?』
「うん、あとで落ち着いたらピーピー泣くから。その時は見ないでね」
『おう……ボルダ人だなぁ』
「なにかいった?」
『なんでもないよ』
やれやれとコータはためいきをついた。
『了解わかった。
さて、それじゃあ速やかに移動しようと思うけど、荷物は?』
「それなんだけど、そもそも宇宙にいくのに何がいるのか想像もつかないんだけど?」
『普通に着替えと、それから持っていきたいものでいいよ』
「わかった、ちょっとまっててすぐ戻るから」
◆ ◆ ◆
ものの10分くらいでミリアは戻ってきた。小さなリュックをしょっていた。
『その中にすべての荷物が?』
「一泊分しかないけどお泊りセット、ワンボードマイコン、それからキーボード、モバイルバッテリーだよ」
『へ?ワンボードマイコンって?』
女の子がもつとは思えないモノの名前にコータが首を傾げた。
「スマホに色々入れてたら、みんな見られちゃうもの。
勉強用って名目で買ってもらった『ラズベリーパイ』に暗号化して収納してあるの。
もちろん彼らでも解析はできるだろうけど、ないよりはマシよ」
『へぇ……電源は?』
「日本のAC100Vか、それともUSB-Aの5Vって作れる?」
『それなら大丈夫』
「そっか……ところでコータ、着替えはもっといる?」
『地球の服は目立ちすぎるからね、最低限でいいよ』
「あとの服は現地調達?」
『うん』
「わかった……じゃあ、これでいいよ。つれてってくれる?」
『おう』
◆ ◆ ◆
ミリアは何も言わなかったし、その意図するところをコータも察していた。
つまり。
まがりなりにも世話になったはずの『保護者』たちに、ミリアは挨拶する気もないのだと。
実際、安全を考えれば挨拶しない方がいいのだけど。
(普通なら、よほど敵対でもしてなきゃ筋は通したいもんだよな。会話からして、彼女からは年齢よりも成熟した思考を感じるし、愛情がなくとも今まで経済的に援助してくれたのは変わりないだろうし)
もちろんミリアの若さもあるだろう。
だがこの淡白というより温度感すらない態度に、コータは覚えがあった。
(なんの罪もない子供を、なんて寒々しい環境で育てやがるんだ──ったく、絶対、無事に届けるぜ。待っててくれよ大神官補佐官どの)
「え、どうしたの?」
『ああ、ごめんな。さ、いこうか』
「うん、いこう!」
満面の笑み。
女の子と猫は、はるか二千光年彼方への旅に、いま、一歩を踏み出したのだった……。