3.碧(あおい)(1)
暁が、勢いよくエレベーターに駆け込んで来た。
閉めかけた扉が、感知して止まる。
同時に、青いブレスレットをはめた手首が、内側からドアを押し留めていた。
やれやれ、とんだ迷惑乗車だ。
「ありがと!」
お礼を言うなり、暁は手を伸ばした。
5階のボタンを押す。
早押しクイズなら優勝クラスの素早さである。
「え? 児童館に行くの?」
「うん。碧も行く? 眠りの森の美女、5時からやるんだって。バレエのだよ」
暁は、クラシックバレエに親しんでいる。
母親が好きだからだ。
数年前のことだ。
母親は、娘に習わせる気満々で、この西センターのバレエ教室に連れていった。
それが、そもそもの間違いだったのだ。
その前の時間帯でやっていたのは、空手教室であった。
後の経過は、推して知るべし。
せめて情操面だけでもいい。
少しでも、優雅さとか品の良さとかを、身につけて欲しい。
切なる願いを込めて、暁の母は、よく子供を連れてバレエを観に行っている。
碧も、何回か一緒に劇場へ足を運んでいた。
母親同士の仲が良いのだ。
有名な演目なら、大抵連れて行かれている。
「眠りの森の美女」も、もちろん知っていた。
碧は、首を傾げた。
眼鏡をかけた目が、静かに考えている。
ずいぶんと落ち着いた雰囲気の少年だ。
口から出る言葉も、冷静だった。
「そんな予定、見かけなかったけど」
ポーン
軽やかなチャイム音がして、エレベーターの箱が止まった。
暁が、ぴょこんと飛び出る。
「行こうよ?」
にこにこ笑って、碧を振り返る。
「まあ、いいか」
碧も、なんとなく暁に付いて降りた。
新しくなった児童館には、興味がある。
リニューアル工事後、この階に降りるのは、二人とも初めてだった。
「おお~」
思わず、二人の声がハモった。
全然違う建物に来たみたいだ。
ここまでガラリと変わるなんて。
「ずるいよなあ。俺たちが学童クラブに通えなくなってから、ぜんぶ綺麗になるなんて」
碧は、不満気だ。
暁の後ろで、ぶつぶつ言っている。
振り返った暁は、にこにこしていた。
「でも、工事中は、廃校になった中学校に移されてたんでしょ。虫は出るし、エアコンは無いし、地獄だったらしいよ」
西センターがリニューアルオープンしたのは、先々月だった。
でも、最初は区出張所だけ。残りの施設は、後から順次開設していったのだ。
ようやく全て揃って通常営業に戻ったのは、実に今月に入ってからだ。
空手教室も、先週までは、西小学校の体育館を借りて行われていたのである。
こっちに戻ってこれて、本当によかった。
碧は、しみじみと思った。
友達や先生達まで、体育館に覗きに来ちゃったからな。
あれは、恥ずかしかった……。
暁は、いちいち歓声を上げて、うろちょろ進んで行く。
「うわあ! 碧、見て!」
碧も、思わず目を見張った。
清掃事務所のリサイクルセンターだ。
廊下の壁が、積み上げられた回収ボックスで埋め尽くされていた。
斜めの屋根と寸詰まりの胴をした、おもちゃのお家みたいなやつだ。
フタの屋根が、品目ごとにイラスト付で色分けされている。
カラフルな眺めだ。
「すごい数。紙だけでも、何種類もあるよ」
暁が、感嘆した。
「暁、こんなに細かく分別できる?」
「うーん、ムリかな!」
明るく断言する暁だ。
リサイクルセンターを通り過ぎると、小部屋が並んでいた。
以前は、すぐに児童館があったが、間取りが変わったらしい。
【多目的ルーム】
「って、なにかな?」
プレートを読み上げて、暁が首を傾げる。
A B C D
各ドアには、アルファベットが書いてあった。
部屋番号なのだろう。
碧は、室内を覗き込んでみた。
壁の上半分が、透明になっているのだ。
誰も、いないな。
椅子と机、ホワイトボードも置いてある。
「小さな教室みたいだ」
う~ん。
何か、教えたりするのに使うのか。
ああ。「言葉と聞こえの教室」とか、「日本語学習の補助講座」とかかな。
前は、児童館の部屋で、やってたもんな。
じっと考えている碧を、聞いた当人が、いきなり引っ張った。
瞳をキラキラさせて叫ぶ。
「ねえ、なんか変なのがある!」
ちょっとむっとした碧も、思わず首を傾げてしまった。
「……ほんとだ。なんだ、あれ?」
お風呂の浴槽みたいに見える。
つるつるした水色の巨大な陶器だ。
廊下のど真ん中に、どどーんと鎮座している。
なんで、こんなところに?
二人して近づいてみたら、あっさり分かった。
「手洗い場かあ」
細長い楕円形のプール中央に、長方形の中州があって、蛇口が並んでいる。
「変なの」
碧が呟いた。
こんなの、見たことがない。
蛇口は、みんな錦鯉の形をしていたのだ。
「全部、柄が違うよ」
暁が、弾んだ声をあげる。
そうか。水色のカラーは、水面。
気を付けのポーズで、錦鯉たちが勢揃いしているんだ。
足元にネームプレートが埋め込まれていた。
いや。正確に言うと、尾びれ元か。
「えっと、丹頂、昭和三色、大正三色……」
碧が読み上げた。
ネームプレートには、全てフリガナが付いていた。これなら、知らなくても読めていいな。
丹頂は、白地に、頭のてっぺんだけ、丸く切り抜いた赤が張り付いている。
黒地に、赤と白の紙片を貼り付けたように見えるのが、昭和三色。
反対に、白地に赤と黒が浮かんでいるのが、大正三色だ。
三色の和紙を使った、ちぎり絵みたいな模様の三匹である。
暁が、楽し気に続けた。
「九紋竜! 紅白! 山吹黄金!」
ピカピカ光る白地に、くっきりと墨が流れた、九紋竜。
紅白は、文字通り、おめでたい紅白の魚体だ。
金一色の山吹黄金。さらに、おめでたい。
「白写り、緋写り」
暁と碧は、ぐるりと手洗い場を回り出した。
二人の声が揃う。
こうなると、錦鯉の指さし点呼だ。
白写りは、白地に黒で、パンダ柄。
緋写りは、鮮やかなオレンジ色に、黒の模様が浮かぶ。どことなくスパイダーマンっぽい奴だ。
「ダイヤプラチナ、ドイツ孔雀!」
こんなのまで、いるんだ。
ダイヤプラチナは、全身が白銀に輝いていた。
そして、鈍く光る銀地に、ぽたぽた紅を垂らしたのが、ドイツ孔雀だ。
錦鯉スターズが、出揃った。
すると、暁が、流し台に貼ってあるプレートまで、ついでに指さした。
大きな文字で、こう書いてある。
「てをあらいましょう!」
一緒に読み上げた二人は、くすりと笑った。
仰せの通りにしよう。
これから、児童館に行くんだから。