芽生える記憶
自分が分からなくなる時がある。
自分自身が誰なのか。それ以上に、自分は何を思っているのか。それが馬鹿だから分からないのか、答えがない哲学だからか。そんなことも分からない。だけど、確かに分かることが一つだけあった。
「先輩、何ぼーっとしてるんですか?」
図書館の隅の方で本棚をぼーっと見上げていた俺に、覗き込むように見上げて来た少女。
「何か面白い本でもありましたか?」
そうやって先ほどまでの俺をまねて本棚を見上げた君の横顔は、きめ細やかなで真っ白な肌に、僅かに色付いた桃色の頬と唇が映えていて。長いまつ毛と小さくて丸っこい童顔が綺麗で。
たった一人、自分が好きだと思える人だった。
椚沢芽生。
神出鬼没の後輩だった。学生服姿は見たことがなく、こうして学校帰りに制服で市の図書館に寄っている俺の前に現れるときには常に私服姿だ。もちろん休日や夜遅くまで勉強している時でも、制服姿で現れることはない。
俺が知りえている情報は名前と、先輩と呼ばれていることから年下である可能性が高いと言う事だけ。どちらも裏付ける根拠はない。
何より恐ろしいのは、彼女は毎日、俺が図書館に行くたび決まって俺の前へと顔を出すのだ。それが入り口で待ち伏せをされている時もあれば、今日のように突然話しかけられることもある。
「いや、面白くはないさ。進学にするか就職にするか、参考になる本を探していた」
「なるほど、それで就職活動者向けの本棚に……先輩、高三でしたっけ」
「来年度でな」
「そうでしたか。じゃあ、やっぱり先輩ですね」
その呟きは、俺の方が年上、というか学年が上という認識でいいのだろうか。俺は四月生まれだから、芽生が高一で三月生まれだったら年齢的には大差がないことになる。
「あ、そう言えば私来月誕生日なんです。何かくれませんか?」
「来月ってことは二月生まれか。じゃあ、バレンタインチョコと交換な」
「ぶーぶー、それじゃプレゼントになりませんよ。別に、先輩の寂しいイベント日に花を添えるくらいは吝かではありませんが」
「もちろん、ホワイトデーには三倍にして返すよ」
「えっ、じゃあ二万円くらいするチョコセット送ります」
「いいのか? 俺は三倍の愛を込めて渡すって言っているんだが」
愛と言う無形の資材ならば俺の有限の懐事情と関係なく無限に存在している。三倍は何も値段だけではないのだ、と、見上げていた本を手に取りながらドヤ顔で芽生を見てやると、芽生は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして目を見開いていた。
体を強張らせて、いつもの余裕が嘘のように無くなった芽生は、おどおどとした様子で控えめに口を開く。
「じゃ、じゃあ……私は、先輩に、その……手作りチョコを、渡したいと、思います……」
「……そっか、ありがとう」
普段は見せないしおらしい態度に思わずこちらまで照れてしまい、ドヤ顔なんて一気に鳴りを静めて頬が赤くなる。それを誤魔化すように背を向けて歩き出せば、芽生も縮こまったまま後ろをついて来る。
ったく、冗談のつもりで、はぐらかされるかと思っていたからのセリフだったのに。それじゃあまるで本気みたいじゃないか。
本を片手に移動して、机に腰掛ける。芽生は一席分開けて隣に座る。その手には以前おススメしたライトノベルが握られていた。
「ん、それ」
「あ、はい……おススメしていただいて、面白かったので続きをと思いまして。今日はこの後、何冊か借りて帰る予定です」
「そうか。気に入ってくれたなら何よりだ」
よくよく見てみればその背表紙には第三巻と書かれている。どうやら本当に気に入ってもらえたらしい。
俺の趣味は結構守備範囲が結構広い。
児童小説から学術論文、エッセイや日記テイストの作品を読むこともあれば、ライトノベルや恋愛小説を好んで読むこともある。ライトノベル自体も恋愛物からギャグ作品、ノンフィクションもファンタジーももちろん大好物で、あまり苦手と言える本種はなかった。
純粋に活字が好きだ、と言えば一番納得できるかもしれない。俺は文字の羅列を目で追っている時間が一番心を落ち着かせることが出来ると思っていたから。
「あ、先輩、この間紹介した漫画、呼んでくれましたか?」
「あの、なんていうんだ? ギャグ要素強めの恋愛漫画だろ? 全巻買って読んでみた、普通に面白かったぞ」
「それは良かったです」
図書館特有の静まり返った喧騒に合わせた小さな声で、芽生はそう言って笑った。それからはお互いに小一時間ほど手元の本に集中する。俺たちは基本的に毎日この図書館に来ては読書をしているので、一般的な人と比べて読書スピードが速い。
300ページやそこらならあっと言う間に読み終わる。文量的に芽生の方が軽かったからか、俺が読み終わるよりも先に読み終わったらしい芽生が本を片手に立ち上がった。
「先輩、あとどれくらいいますか?」
「そうだな……あと一時間ってところか」
「分かりました。じゃあ、補充してきますね」
そう言って小さく手を振りながら去って行った芽生は、恐らく続きの巻を探しに行ったのだろう。補充と言うのは本のことを言っているらしい。確かに俺たち読書家からしてみれば本はなくてはならない栄養源。言い得て妙だな。
そんなことを考えながらも目を動かし、内なる自分との会話を続けることさらに四十分ほど。何度か読み返したりしながら一冊の本を読み終え、気付いてみれば芽生はすぐ隣で机に突っ伏して眠ってしまっていた。
その目の前に積み重ねられているのは先ほどのラノベの続き、四巻と五巻。最初は一席開けていたと言うのに、いつの間にか隣に来ていたらしい。気付かない俺も俺だが、芽生は普段から遠慮が過ぎる。気付けないことは稀ではない。
「芽生、起きろ。俺はそろそろ帰るぞ」
「……ん、ふぇ? 先輩?」
「ああ、お前のことが大好きな先輩だ。一人ぼっちになりたくなかったら起きろ」
「大好き……」
俺のセリフの一部を抜粋して呟いた芽生が、見る見るうちに寝惚けた顔を赤く変えていく。
「な、ななな何言ってるんですかっ⁉」
「おい、静かにしろよ。迷惑だろ」
「へっ? あっ、すいませんすいません……っ!」
俺に言われてここがどこだか思い出したのだろう。芽生は慌てた様子で周囲に向けて頭を下げる。その後で、下げた頭のまま俺を恨めそうに睨み上げる。
「それもこれも、先輩が突然、す、好きなんて言うから……」
「だって、本当のことだしな」
「っ⁉ そ、それって……」
頬の赤色が鳴りを潜めていく、けど、今度も桃色に色付いた。怒りと羞恥の感情は霧散し、そこには恥ずかしそうに佇むうら若い少女が一人落ち着かない様子で佇んでいた。
「揶揄い甲斐があって、俺はお前のことが大好きだぞ」
「な、なんか嬉しくありません!」
再び赤くなった芽生は、今度は息を殺しながら俺にぎりぎり届くくらいの声量で怒鳴り声を上げた。器用なことだ。頬を膨らませながら抗議してくる芽生に、俺は出来る限り優しく微笑みかけながら言った。
「目が覚めたなら帰るぞ。もう暗くなる」
「わ、分かってますよ、全く……」
ぶつぶつと呟きながらついて来る芽生を気にしながら、俺は読んでいた本を戻し、代わりに隣の本を手に取った。そのままカウンターへ向かって芽生と並んで貸し出し手続きを済ませる。その足で出口へと向かって、底冷えする外界の空気を頬で実感する。
「うぅ、寒いです」
「もう一月も終わりだかなぁ。暗いし送るよ」
時刻は六時。夏の頃ならまだまだ夕暮れ色に輝く太陽がまぶしい頃合いだが、冬至を迎え一か月ばかりしか経っていない今日この頃では深夜の暗闇の方が顔を覗かせている。そんな夜道を女の子一人で歩かせるのは忍びなく、毎度毎度の文句を口にする。
「いえ、遠慮しておきます。私家近いですし、先輩と反対方向だから、大丈夫ですよ」
「遠慮しなくていいんだけどな……ま、そう言うことならまた明日」
「ええ、また明日です、先輩」
にこやかな笑みを浮かべ、短髪と一緒に首元のマフラーを夜風になびかせる芽生に見送られながら、俺は帰路へと着いた。
翌朝、今日は休日なので朝一で図書館へとやってくる。家にいてもやることはなく、この前芽生におススメされて漫画をいっき買いしたために金銭面での不安が大きい俺はいつものようにここを選んだ。
無料で本を読めることの素晴らしさは、この国の治安の良さと経済力の賜物だと言えよう。公共機関に感謝である。
「あ、先輩」
と、図書館に向かう途中で思わぬ会合を果たしたのはいつもの顔だった。昨日の反省を活かしてかさらに厚着しているらしい芽生は、しかし意地でも下半身は見せたいらしい。白くて細い足を見せる丈のコートを揺らしながら、芽生は俺の方へと駆け寄って来た。
「先輩は今日も早いですね」
「芽生もだろ」
「それはそうなんですけど。私の方が家近いですし、気軽に来れるじゃないですか」
「そう言うものか? あと、前々から思っていたんだが芽生は俺の家の住所を知っているのか? 紹介したことなかったよな?」
「いえ、以前教えてもらいましたよ?」
「そうだったか?」
世間話を交わしながら図書館までの残りの道のりをゆったりとしたペースで歩く。一緒に並んで本を読むことばかりが多い俺たちだが、基本的に会話の話題には事欠かない。こうやってただ雑談する時間も案外好きだったりするのだ。
と、さっそく話題が途切れそうになったので女子のファッションについて尋ねてみる。
「それはそうと、足寒くないのか? タイツくらいはいたらどうだ」
「むっ、先輩、それ減点ですよ。女の子のオシャレを褒めるならともかく欲しくもないアドバイスをされた女の子の気持ちを考えてください」
「気難しいなぁ……」
純粋な疑問を口にしただけだったのだが、どうやら今のは批評に聞こえたらしい。芽生は不機嫌そうにそっぽを向いた。
すれ違いがあったとはいえ機嫌を損ねたのは俺であって、このまま今日一日不機嫌でいられるのも困るので自分の尻を拭くことにする。
「ま、いいんじゃないのか? 似合っていると思うよ」
「そ、そうですか?」
「芽生の足は綺麗だからな。でも、あんまり無理しすぎると風邪ひくから気をつけろよ」
「……もう、とりあえず褒めとけば機嫌取れると思ってるんだから」
まったく、と毒づく芽生は、それでも機嫌を直した様子で前を向いた。
「あれ、先輩昨日借りた本は? それ、別のやつですよね?」
「もう読み終わってさっき返却した」
「はやっ。あれ、辞書並みの厚さがあった気がするんですけど」
数時間後、俺たちは並んで本を読んでいた。職員の人たちも俺たちを見慣れて来たのだろう。すれ違うと会釈してくれるので、俺も気づけばそれに返したりしている。
「先輩って読書スピード異次元ですよね」
「勝手にアナザーディメンションに飛ばすな。人より多少早いだけだよ。長所でも何でもない」
「私は羨ましいですけどね。もっと早く読めればこの図書館の本を制覇することだって夢じゃないのに、って思います」
「まあ、早さが役に立つ場面もあるかもしれないな」
資料の読み込みとか、必要文献を調べるときとか。確かに教科書なんかを読む速度は人並み以上で、その点で得をした経験がないとは思わない。
「それに先輩記憶力いいから教科書読んだら覚えちゃうでしょ?」
「俺、自分が興味ない文献は基本的に覚えられないんだよなぁ。興味がある単元だったら点数は取れるんだけど」
「そうやってえり好みしなければ、暗記科目では好成績取れるんじゃないですか?」
「別に成績取ることが目的じゃないしな。俺はただ、本が読みたいだけだよ」
「変わってますね、先輩」
「そんなことを言われても」
小声で会話する。俺たちの日課は本を読んで会話する。人に迷惑をかけることは基本的にないので職員にとがめられることもない。
「芽生だって本好きだろ。勉強ができるって感じはしないんだけどな」
「そ、それは……私は先輩と違って早くないですし、記憶力だって決してよくありませんから。要領が悪い自覚はありますし」
「字が読めるってだけで強みなんだぞ。世の中には活字を目にするだけで拒否反応が出る人間だっているんだ。そういう分野で言うんなら、お前だって暗記科目、特に古典とか英語では武器に出来るはずだ」
「やっていない先輩には言われたくありません」
「反面教師って言葉があるんだよ」
「それ、自分で言うものじゃないですよ……」
「最近しくじり先生っているじゃないか」
「それとこれとは話が違うと思いますよ」
最近、本を読みながら芽生と話をする機会が増えたからか文を消化しながら芽生の話を理解できるようになってきた。聖徳太子とは別のベクトルで特技を習得しつつある。
「で、今は何を読んでいるんですか?」
「女の子が誕生日に貰って喜ぶプレゼントtop10」
「嘘つかないでください。どう見ても小説じゃないですか」
「題材として取り上げられているんだよ」
「どんな内容なんですか、それ……」
ちなみに内容はよくあるミステリー。今のところ女の子も甘いものもスパイスも素敵なものも出てきていない。
「ちなみに、誕生日には何が欲しいんだ?」
「ふんっ、それは自分で考えてくださいよ。私が欲しい物を言ったら要求しているみたいじゃないですか」
「要求されたんだよ、俺は……ちなみに、俺は来月がお前の誕生日ってこと以外に何も知らないんだが」
「それは察してください」
「無理難題なんだが……」
現存する、もう、察してよ、と言われた時に問われているどの内容よりも難易度が高い気がする。単純計算二十九分の一だ。そのうえこれ以上のヒントはない。あてずっぽうではまず間違いなく当たらない。
「……ちなみに聞くんですけど、先輩の誕生日はいつですか?」
「察してくれ」
「至極困難なんですけど」
「お相子だよ」
ちなみに四月十三日だ。
「まあ、じゃあヒントです。バレンタインより前ですよ」
「じゃあ俺もヒントだ。ゴールデンウィークよりも前」
「そ、それ範囲広くないですか? 四月か五月の頭ってことはわかりますけど……」
「じゃあ、憲法記念日より前」
「あんまり変わってないです、それ」
全く、相変わらず我儘な奴だ。
「ま、四月まで俺たちの付き合いが続いていたら、教えてやるよ」
「そうですか。それなら今から貯金でもしておきますか。特別に私からプレゼントを渡しますよ」
「楽しみにしているよ。期待はしてない」
「そこは嘘でも期待しているって言った方が、女の子からモテますよ」
「モテ願望はないからいい」
「じゃあ、私から好かれますよ?」
語尾を上げながら、どこか期待するような視線で見上げてくる芽生。少し頬を赤らめ、恥ずかしそうな表情は全く隠せていない。それでも挑戦的なその態度に、揶揄っている場合じゃないなと、そう思った。
「じゃ、期待している」
「っ⁉ ええ、大いに期待していてください」
芽生は大きくはにかんだ。
「先輩、おはようございます」
「ああ、おはよう」
翌朝、相変わらず足を出した芽生が昨日よりも手前で出迎えて来た。
「今日のお昼、ご一緒しませんか? 昨日辺りを回っていたら美味しそうなラーメン屋さんを見つけたんですよ」
「ああ、たぶん俺も知っているぞ。行ったことはないから、一緒に行くか」
「はいっ!」
芽生は嬉しそうに笑った。
「ここです!」
三時間ほど図書館で時間を潰し、混んでは困ると早めに引っ張り出された俺は今朝の約束を果たすべくルンルン気分の芽生の後ろをついてきた。
そうして案内されたのはよくあるこじんまりしたラーメン屋。俺が想像していたそれだった。たまに通りかかれば店の外に待っている人が見えることがあるので、最低限の人気があることは確かだ。
ここに来る途中何気なく店のことを検索してみれば、決して悪くない評価がついていた。
「さ、入りましょう」
「そうだな」
暖簾をくぐって店内へ。少し昼より早いと言うこともあって人はまばらで、すぐに席に案内される。少し聞き耳を立ててみれば、ここの常連のようなお客が魔法の呪文を唱えているのが聞こえて、俺は少し心配になった。
「先輩、どれにしますか?」
「俺はとんこつ麺の硬さは粉落としで油普通味玉」
「先輩、絶対慣れますよね。……じゃあ私は普通の醤油ラーメンにしますか」
メニューを見てそう呟いた芽生が店主のおじさんに声をかけ、俺の魔法の呪文を復唱し、ついでのように醤油ラーメンを注文した。
脂っこい空気が充満した店内は冬とは思えないほどに熱気に満ちている。上着を一枚脱いで背もたれにかけていると、芽生がおもむろに話題を投げかけてくる。
「先輩、もしかしてそんなヒョロに見えてラーメンとか好きだったりします?」
「別に好んで食べはしないさ。さっきの注文はなんとなく食べたかったものを言っただけだ」
「それであんなすらすら出てきます?」
「スタバの女子だって似たようなもんだろ」
「そうなんですか? 私はスタバも行かないから分からないですけど。いえ、それ以前にジャンルが違いすぎる気もするんですけど」
俺に言わせてみればスタバの女子は意味不明だ。読解不可能なのだ、あの詠唱は。
「先輩は行くんですか?」
「行かないから理解できないんだよ。コーヒーはブラック一択だろうに」
「高校生でその境地に至っているのは飾り気のない先輩くらいなものですよ」
はぁ、とため息を吐いて肩をすくめ、俺に倣って上着を背もたれにかけながら芽生は言う。
「お前だってレモンティー以外飲んでいるところ見たとこないぞ。もっと若そうな飲み物に興味はないのか?」
「若そんな飲み物ってどんな偏見ですか……タピオカとか?」
「あれってもう過去の産物じゃないのか?」
「私だって知らないんですよ、聞かないでください」
どうやら芽生を一般的な現役女子と一緒にするのは良くないらしい。
「だ、だからって別に流行に興味がないとかじゃないんですよ? 服とかだって、多少は流行を意識してますし……」
「そうなのか? うーん、それこそ俺には服の良し悪しなんて分からないけどなぁ……」
話題を振られたので、芽生の服装を改めて観察してみる。どこか恥ずかしそうに俯きながらも、芽生はそれを受け入れる。そして一通り舐めいるように芽生を観察していると、ラーメンを持った店主がやって来た。
「はい、お待ち」
「あ、ありがとうございます」
「とんこつこっちで、醤油そっちです」
慌てた様子で店主に礼を言った芽生を横目に商品を受け取る。ひとまず箸を取り、二つに割る。
「ま、似合っていると思うぞ。芽生らしいと思う」
「ラーメンの話ですか? 私醤油っぽいですかね?」
「服の話だよ、服の。流行がどうとかは分からないけど、着こなせているんじゃないのか?」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
それはラーメンの熱気か、それとも羞恥か。少し頬を赤く染めながら芽生が割った割り箸は、気の抜けるような音を立てた。
「美味しかったですね」
「そうだな。また一緒に来るか」
「次は私も早口言葉に挑戦します」
ラーメン屋を出てすぐ、冷たい風は頬を撫でる。しかし体の内はそれにも負けないくらいに暖かく、あまり寒いと感じなかった。
「先輩はまた図書館ですか? ご一緒しますよ」
「そうだな、行くか」
芽生と二人並んで道を歩く。大通りの脇道は、当然車の喧騒で満ちている。時々すれ違うスーツ姿の男、サッカーボールを持った小学生、減速しないロードバイク。それらが視界に映っても、やはり、俺の視線は隣の丸っこい顔にくぎ付けだった。
最近分かってきたことがある。
俺は、芽生のことが好きだ。もちろん、Loveの意味で。分からなくなっていった心が盲目になっていく感覚は、どこか道に迷った時のような焦燥と並行しているような気がした。時に、熱中にも似た高揚感とも並行していた。
それから、二週間ほど。
今日は芽生の誕生日だ。あいつは恐らく、俺が芽生に言われるまでもなく誕生日を知っていたことも、それをもとに準備を進めていたことも知らないのだろう。朝からどこかそわそわした様子で俺の隣で本を読んでいた。
この様子なら、例え誕生日を事前に知っていなかったとしても特に問題なく察知出来ていたかもしれない。
だが、今日は焦らす。もとより誕生日を秘密にし続けていたのは芽生の方だ。気付かれなかったとしても文句は言えない立場のはず。しびれを切らして今日が誕生日だ、とあちら側から言ってくるか、俺の計画実行時刻まで時間を稼ぐまでは行動しない。
なに、念入りに支度はしてある。何の問題もないはずだ。
「せ、先輩。今日の夜って予定ありますか?」
「え? ああ、珍しく食事の予定があってな。悪い」
「そ、そうなんですか? もしかしてご家族と?」
「いや、若い女と」
「ふえっ!?」
薄く絞った悲鳴が響く。周りに配慮したのは偉いと思うがそのせいかそこそこ変な顔を浮かべている自覚は、恐らく芽生にないのだろう。
「だ、誰ですかっ⁉」
「ん? 後輩」
「も、もしかして彼女さんとか?」
「いや、別に。本の虫の俺が、彼女なんて持っているわけないだろ?」
「そ、そうなんですね、ふーん」
それはどこか安心したような、それでも動揺を含んだような笑みだった。どちらかというと、引きつった笑み。
「どうかしたのか? 何か用事があるなら、週末にでも付き合うけど」
「あ、い、いえ、なんでもないです。あはは……」
誤魔化すように笑って本へと視線を落とした芽生は、小さくため息を一つ。もはや隠すつもりなどなさそうな落胆を前に、少し悪いことをしたかなと思う。ただ、人心掌握テクニックの一つ、飴と鞭を使用中の俺は今更引き下がれない。
こうやって俺が芽生の誕生日に気付いていないと気分を落とさせ、その後で本当のことを打ち明けて一気に機敏を高める。上げて落とす、常套手段ではあるが逆に言えば効果はあるのだ。なんとも打算に満ち溢れたこの会話は、俺のポーカーフェイスでその全容を包み隠されていた。
「そ、そう言えば、私の誕生日ことなんですけど……」
一時間ほどが経った頃だっただろうか。本を読み終え、新しい一冊を手に戻って来た芽生がそんな風に喋りかけて来た。
「ああ、そろそろだよな。プレゼントでも買って、鞄に入れておくか」
「そ、それはずるいと思いますよ? ちゃんとこの日、って決めて気合い入れて支度してもらわないと……ちなみに予想は付いているんですか?」
「ん? どうだろうな。そろそろ何だろうけど、それ以上はなぁ」
「そう、ですか。ま、まあ、せいぜい頑張ってくださいね。あと一週間と少しでバレンタインです。一応、まだ過ぎてないってことは教えておいてあげますね」
ちなみに、芽生は昨日分かりやすく機嫌がよかった。鼻歌交じりで俺の隣を歩き、ニコニコ笑顔で本を読み、満面の笑みで俺に別れを告げたのだ。それを今の、何とも言えない魂の抜けた表情にまで追いやるのは、流石の俺でも気が引けた。
小説などの人の感情を描写する作品ばかりを読んでいると、ある程度相手の仕草や口調で気分や機嫌が予測できるようになるらしい。今の芽生の感情を予想するのならこんな感じ。
あんなことを言った手前自分からは言い出しにくい。本当は今日だし気づいてほしいけど、最悪、先輩がこれからの一週間のどこかでプレゼントを渡してくれる日を誕生日ってことにして受け取ればいい。本当の正解は私しか知らないんだから、先輩に嘘の正解を教えて喜んであげるのも、後輩として吝かではない。
なに、あの堅物の先輩がプレゼントをくれるって言っているだけましってものだ。
そんなところだろうか。芽生から多少なりとも好意を読み取っている身としては、彼女がそれなりに期待をしていることを分かっているつもりだ。その期待の下限はともかく、上限は見誤らないようにしたいな。
芽生の期待だけは、裏切りたくないと思っている。不思議だった。
それからまた一時間くらい。時刻は十八時、もう外は真っ暗だ。そろそろかな、と芽生を見ると、そわそわとした様子でこちらの様子を伺っている。手元の本にも意識が行っていないのだろう、さっきからページが進んでいない。
そして、俺の横眼も本格的に芽生を捉えて来たころ、目が合った。
「あっ」
思わず、と言った風に芽生が声を漏らす。
「先輩、もう帰るんですか?」
「ああ、そろそろ約束の時間だ」
「そ、そうですか……」
明らかに気落ちしている。寂し気で、悲し気で、それどこか泣きそうで。年下だってことは分かっていたけど、本当に幼く映って見えていた。ああ、これ以上は無理だ、そう思った。
自分が分からなくなる時がある。自分自身が誰なのか。それ以上に、自分は何を思っているのか。何をしたくて何を考え、何を軸に生きているのか。そもそも、何、に値するものは存在しているのか。
そんなことさえ、分からない。周りの人たちが何、を認識できているのかすら分からない。俺は、私は、僕はと自問を続けるこの毎日が異質なのか。それくらいは、分かっていたかった。
ただ、今だけは直感的に動いていた。
「芽生、これから一緒にレストランどうだ?」
「……へっ?」
立ち上がった俺に目もくれず落ち込み、俯いていた芽生が素っ頓狂な声を上げて顔を上げる。芽生の背後に立った俺はその頭に手を乗せて、優しく小さく左右に揺らす。
「誕生日おめでと」
本当は一緒にエントランスまで行って、帰り際に誘う予定だったのを覚えている。そこまで引っ張って、出来るところまでもったいぶってやるつもりだった。だけど、あの瞬間に芽生の落ち込んだ顔を見た時、励ましてやらないと駄目だなって口が開いた。
自分は打算的な人間だと思っていた。それは自己理解だと思っていた。自己肯定感が高くて、理屈的で、本が好き。知識欲に忠実で、好き嫌いがはっきりとしている。俺自身はそんな自分が好きだった。
自分が分からなくなる時がある。
この芽生って女の子のことを見ていると、理屈とか論理とか打算とか。全部吹き飛んで何も考えられなくなる。
先輩、先輩と呼ばれると自分自身が分からなくなる。名前もあるはずだ、立場もあるはずだ。なのに俺は、芽生と一緒にいるときの俺は、芽生の先輩以外の何物にもなれなくなる。
それ以上に、自分が何を思っているのか。何をしたくて何を考え、何を軸に生きているのか。その何、って存在が芽生だってことは、最近になってようやく分かって来た。そんなことさえ分かっていなかった俺は、もう過去のものとなった。
あの日、芽生の誕生日。想いと一緒に渡したネックレスは今も芽生の首元で輝いている。あの日、芽生に貰ったチョコレートの味は今でも何となく思い出せる。あの日、三倍にして返した愛情を噛み締めた、幸せそうな芽生の笑顔は一生消えることはない。
そして今日、四月十三日。
高校三年生になって、いざ受験だってみんなが躍起になる中、俺は一人余裕をこいていた。俺は既に模試で志望校A判定を貰っている。中学からの五年間部活も彼女もなしに暇を持て余していた俺は頭の出来だけは悪くないのだ。
というか、二月の模試で本気を出した。三倍にして返した愛情の中に、一つ約束したかったから。そして、芽生も約束してくれた。
新入生の歓迎や新年度の準備も終わり、少しだけ変わったクラスメートのメンバーとの交流もそこそこに、俺は放課後学校の図書館へと向かった。市の図書館の方が断然好きだが、こちらもラインナップは悪くない。それに、今日は本を読みに来たわけではない。
今年、俺は図書委員に立候補した。人数が膨れてじゃんけんになって、久しぶりに熱くなったのを覚えている。どうしたって約束を諦められなかったから。そして勝ち取ったこの権利を、あの約束を果たすために使おう。
やって来た図書館、委員会の集まりにはまだ少し早い。そんな静けさの一角に、短髪を春風になびかせ、窓から覗く桜を背景に幻想的な雰囲気を纏う読書中の生徒が一人。俺の気配に気付いてかすっと顔を上げた彼女は、にへらと笑みを浮かべて口を開いた。
「先輩、こんにちは」
約束の内容。俺は、今年一年は受験生として忙しくなるはずだけど、出来るだけ時間を作ること。芽生は、俺の本当の後輩になること。どうやら互いに約束は守れそうだった。
自分が分からなくなる時があるけれど、芽生が好きだってことは忘れない。
自分自身が分からない時は、芽生の呼ぶ声を思い出そう。
自分が何を思っているのかなんてことは、考えるまでもなく頭に浮かぶ。
恋と言う名の盲目は、俺に本当の俺を教えてくれる。見失うことのない標識に、そっと笑顔は咲いている。いつまでも続く葛藤の中で、彼女だけはずっと隣にいてくれる。
分からなくなる自分の中に、確かに存在するその名前はこだまする。
「芽生」
大きな笑顔を浮かべたその少女は、静かにすっと立ち上がる。人気のない本棚の陰で、悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の前に立った。
「先輩、お誕生日おめでとうございますっ!」
跳ねた語尾に連れられて、俺の笑顔も零れだす。
自分が分からなくなる時がある。その時は、いつだって今日のこのことを思い出そう。
俺は世界でたった一人、芽生の彼氏だってことを。




