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「青色以外ならなんでもいいです」
その時、ペイトンは内心「えっ」と思った。動揺を悟られないようにわざとらしく無表情を作るくらいに衝撃を受けていた。なにせ、ここ最近読み漁っている恋愛指南書やらロマンス小説には、恋人や妻に自分の瞳の色のドレスを贈るのが愛情ないし独占欲の証としてはよい、みたいな記述が溢れていたから。それをいきなりピンポイントで拒絶されて頭が真っ白になった。確かに自分は嫌われ夫である。嫌いな人間の目の色のドレスなど着たくないだろう。だからといってはっきり言い過ぎでは? もう少し言い方があるだろう、とうじうじした思考が湧いた。尤もそれはペイトンの被害妄想で、アデレードはペイトンの瞳の色だから拒否したわけではないし、なんならペイトンの虹彩が青かどうかを把握しているのか怪しいくらいなのだが。
しかし、そんなことを知るすべのないペイトンは、鼻っ柱を折られて「いや、惚れられたら迷惑だから全然構わない。寧ろ良かったのだ」と振られた後で掌を返す器の小さな男よろしく、グラディスがアデレードに見本地を広げて細かく説明するのを黙って聞いていた。でも、その悶々とした思いは、アデレードが生地を手に取り、うんうん悩む姿を見ているうちに消え失せた。こんなに真剣に吟味しているならば、少なくとも迷惑がってはいない。ジェームスに「なんで急にドレスなんか贈るんだ」という反応をされた時、若干不安があったから、
(やはりドレスの新調を提案して良かったではないか。お礼だって言われたぞ)
と安堵した。
ジェームスには黙っていたが、ペイトンは昨夜の帰り道での会話もさることながら、行きの馬車で「何処かに連れて行こうか?」という誘いをすげなく断られていることに対しても地味にボディブローを受けている。だから、ダレスシトロン服飾店へ来訪するようにアデレードへ伝えることも、ジェームス経由で伝言した。
「自分で言えばよいでしょう」
とジェームスが哀れなものを見るような眼差しを向けてきたが、
「いいから、店へ行って直近で一番早く予約の取れる日を指定して、日程が決まったら彼女に伝えてくれ」
と強引に押し付けた。
でも、今日依頼しに行って今日になるとは思っていなかった。フォアード侯爵家からのオリジナルドレスの発注ならば、多少無理を押しても近日中に予約を捩じ込んでくれると予測はしていたが早急すぎる。アデレードは基本的に暇だが、ペイトンは仕事があるのだ。だがそれも、何の因果か、最近無駄に会社に入り浸り、恋愛本を読む息抜きに仕事に没頭していたことが功を奏して、あっさり会社を抜け出すことができた。
「では、次はドレスの型を選んでいただきます。実物を見た方がわかりやすいのでこちらへ」
ペイトンがあれこれ一人考えている間に、生地選びが完了し、次の工程へ流れた。グラディスが徐に立ち上がり衣装室へ向かう。
ペイトンもグラディスに「小侯爵様も是非ご一緒にお選びください」と言われて付いていってはみたものの、アデレードの好みなど知らないし下手に自分がうろうろしたら気が散るだろうと入り口近くで待機することにした。
衣装室ではアシスタント二人が加わり、次々にアデレードにドレスを宛てがっていく。アデレード自身も、好きにドレスを見て回ってよい許可を得て、自分の好みのデザインを探している。
ペイトンは実に今更ながら、この時、初めてアデレードをまじまじと観察する機会を得ていた。初日のことはなんだか良く覚えていないし、昨夜の馬車では斜め向かいに座り、レストランでは隣に座っていたから。それに、例え正面にいたとしてジロジロ見るのは憚られる。今なら、アデレードはドレス選びに夢中でこちらに全く意識が向いていない。
ペイトンはここぞとばかりにアデレードを注視した。
栗色の髪に薄い茶色の瞳。小柄でもなく大柄でもない。自然にピシッと背筋が伸びた姿勢が育ちの良さを感じさせる。第一印象は、何処にでもいるような令嬢、だった。よく見ると結構キツそうな顔つきをしていて、ツンとして見える。だが、笑うと途端に目がなくなり善人丸出しみたいな雰囲気になる。店の従業員にへらへら笑い掛けるのは高位貴族の令嬢にしては珍しいのではないか。
そんなことをつらつら考えていると、アデレードが何度も同じドレスを手に取るのが目についた。
三着のドレスを作るため、グラディスやアシスタント達が代わるがわる「これは最近の流行りです」とか「こちらは定番の人気作です」といろんなドレスを選んでくるが、その合間合間にアデレードは繰り返し一つの同じドレスに触れていた。店員達のお勧めのドレスではないから言い出しにくいのかなんなのか、アデレードはこっそりチラチラ見ているだけだ。
(気になるなら選べばいいじゃないか)
ダレスシトロン服飾店で取り扱う時点で、夜会に参加して恥をかくドレスでないことは保証されている。流行り廃りがあるとして、そこはオリジナルで作る強みで、グラディスが手腕を発揮してくれるだろう。だというのに、アデレードは一着目も、二着目も一向に気にしているドレスを選ぶ気配がない。最後の一着を決める段階になって、ようやく周囲に分かるように手にしたかと思えば、
「……私にはそっちの方が似合いますか?」
と、自分の持っているドレスではなく、グラディスの抱えているドレスを指して言う。笑ってはいるが、さっきまでのあの目がなくなる笑顔ではない。思わずペイトンは、
「君が好きな方を選べばいいじゃないか」
と口出ししてしまった。
「……私あまりセンスのよい方ではないので。結婚して初めての夜会に参加するなら、少しでも似合っている服装の方がいいと思いまして」
アデレードが困り顔で答える。
初対面でおかしな理論を展開して自分の主張を通したくせに、何故自分の気に入ったドレス一着が選べないのか。あんなにチラチラ見ていたくせに、とペイトンは不快な気持ちが湧いた。アデレード自身がグラディスの勧めるドレスを選ぶというなら、反対する理由などないはずなのに、
「似合うか似合わないかより、君が好きか嫌いかで決めればいい」
なんとなく引けずに繰り返してしまう。
「……そうですね。だったら、こっちの型にします」
だが、今度はアデレードは簡単に意見を変えた。持っているドレスを自分に宛てがい、あの目が消える妙にへらへらした笑い方で笑い始めた。意味不明。そんなにそのドレスが良かったなら初めから言えばいいじゃないか。この娘の思考回路がよくわからない。やっぱりちょっとおかしいのではないか。ただ、呑気な笑顔を見ていると、自分の中の苛立ちがなくなるのを感じた。何故そうなのかは、よく分からなかった。
▽▽▽
アデレードは、ドレスのお礼をしなければ、と悩んだ。男性への贈り物としてはど定番の時計の購入を考えた。が、ペイトンの趣味はよく分からないので、翌日、ジェームスに相談すると、
「では、観劇の後、食事に誘ってあげてください。きっと喜びますよ」
という答えが返ってきた。ドレス三着と食事では釣り合いが取れなさすぎでは? とアデレードは困惑したが、
「いいんですよ。愛する妻にプレゼントを贈るのは通常のことですし、本当はお礼など不要なんですから」
とジェームスは穏やかに微笑んだ。
「でもそれは契約じゃないですか。それで貢がせるのは悪徳すぎでしょ? 私、物質的なことまで縛る気はないですけど」
アデレードが言うと、ジェームスは、ははっと笑った。
「奥様は真面目な方ですね。でも本当に時計を贈るより、食事に誘う方が喜びますよ」
ジェームスはそんなことを繰り返す。もしかしてペイトンにお礼は貰わないように言含められているのかもしれないとアデレードは思い、埒があきそうにないので、
「……そうですか。だったら食事に招待します。何処かよいお店ってありますか?」
「ローズウェルズ劇場ならば、レストランが併設されていますよ。演目に因んだメニューなどもあって良いのではないでしょうか」
「予約ってできますか?」
「もちろんです」
「ではお願いします」
と取り敢えずはジェームスの話に乗った。「旦那様はこの時計を欲しがっています」みたいな答えをちょっと期待していたが、主人の私生活をぺらぺら話さないのは当然かもしれない。やはり直接本人に尋ねるのが一番まどろっこしくない。最近のペイトンは、九時出社十七時帰宅という生活のリズムで安定しており、朝夕の食事はアデレードと共にしている。ジェームスとのやり取りがあった日の夕食の席で、早速、
「観劇の後、レストランを予約しました。ドレスのお礼のつもりです」
とアデレードは端的に告げた。
「お礼なんて、別に……夕食は僕が誘うつもりだったんだ」
ペイトンはごにょごにょ言った。
「もう予約しましたので」
「そうか。……その……すまない」
「いえ。あと、それだけじゃドレスに釣り合っていないので、もっとちゃんとお礼をしたいのですが、好きな時計のブランドとかありますか?」
アデレードは、そこそこよい時計を贈るつもりなので本人の趣味に合わせた方がよい、と直球で尋ねたが、
「あれは別にお礼をしてもらう類のものではないから気にしないでくれ。君が気に入ったならそれでいい」
とあっさり断られてしまった。いや、ちょっと「お礼をしてもらう類のものではない」意味がわからないんですけど、と正直アデレードは思った。が、食い下がろうにも、年上の侯爵家の人間が「礼は不要」ということに、しつこく逆らうのはマナー違反にあたる。贈りたいなら勝手に贈る、というのがこの場合正しい手順となる。あの契約が変な風に作用して面倒くさいことになったな、とアデレードは苦く思った。
(お母様に相談して、適当な品物を送って貰おうかしら)
結婚に関して父は喜んでいたが、母は心配していた。国内一のデザイナーのオリジナルドレスを三着も新調してくれて、白い結婚の相手として大変良くして貰っているが、ぶっちゃけあんまり借りになることは申し訳ない、とかなんとか書けば、安心するし、良い返礼品を送ってくれるに違いない。結局、アデレードは、
「ではお気持ちだけ頂きます。有難うございます」
とその場では返事はしたものの、両親に宛てて手紙を認めることにした。