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 王立公園は、極彩色の花々と芽吹いた青葉が混ざり合う鮮やかな景色に包まれていた。陽射しは柔らかくも力強く、石畳の小道を渡る風が爽やかな香りを運んでくる。  


「晴れて良かったです。雨なら午後も学校の講堂でしたから。ノイスタインはこの時期、雨が降ることは殆どないけど」


 アデレードとペイトンが到着した時には、既に園内は卒業生や祝福に訪れた来賓で賑わっていた。園内の中央には天幕とテーブルが整えられ、果実やワインが並んでいる。食事をしながら会話を楽しむ者、小さな楽団が奏でる音楽に合わせダンスに興じる者、と各々が穏やかな昼のひとときを楽しんでいた。


「謝恩会って、特に何をするわけでもないんですね」


 新婚夫婦らしく腕を絡めて遊歩道を歩きながら、アデレードが真面目な顔で身も蓋もないことを言うと、


「こういうのは雰囲気を楽しむものだから、殆どの人間が目的なんかないよ」


 とペイトンは同調した。


「小説とかお芝居なんかじゃ、先生に涙ながらの別れの挨拶をしたりしますよね」

「普通に生活していたら、涙ながらに別れを惜しむほど教師に世話になったりしないからな」


 ペイトンが再び冷めた感想を返してくるので、そういうものかな、とアデレードは納得した。


「旦那様の卒業式はどんな感じでした?」

「……そうだな。晩餐の席で、父に勧められて初めて葉巻を吸ったんだが、強烈に目眩がしてそのまま寝込んだ。散々だったよ」

「それ、卒業式の思い出って言うんですか?」

「これから仕事で付き合いがあるからと勧められたんだ。そんなに一度に吸い込む奴があるかと注意されたのは今でも理不尽だと思っているよ」


 ペイトンでも親に怒られたりするのか、と妙にツボに入った。笑っては悪い、と思いつつアデレードは笑った。


「……君ね」


 ペイトンが呆れて言う。見上げる目は穏やかで優しい。アデレードはパッと視線を前に戻した。なんとなく手持ち無沙汰で耳に触れると慣れない金属の感触。イアリングをつけていたことを思い出した。同時に、出掛けにニヤニヤしていたセシリアの顔が浮かんだ。


―― ペイトン様って、アデレードのこと好きみたいよ。

―― あの人、明らかにアデレードに甘いもの。


 ありえない想像が脳裏に走って嫌な動悸がする。心臓の音がうるさく、地面が遠い。意識だけがふわふわする感覚に肝が冷えた。自惚れた考えを持つのは嫌だ。だって、そうやって勘違いして、馬鹿みたいな惨めな思いをしてきたのだから。


「どうした?」


 突然無言になったせいかペイトンが顔を覗きこんでくる。アデレードは無性に腹が立った。一瞬でも浮ついた思考になった自分に。一層、セシリアの言うように今ここで、


「つかぬことお尋ねしますが、旦那様って契約抜きにしたら私のこと好きじゃないですよね?」


 と白黒つけた方が良い気さえしてきた。そうだ。それがいい。


「旦那様って、」

 

 アデレードが勢いで声を出した時、


「まぁ、アデレード様ではございませんの。ご卒業、おめでとうございます」

「本日のお召し物、目を引く華やかさでいらしてよ。とても印象的ですわ」


 何処から現れたのか、ドレスをひるがえした令嬢達が笑顔で近づいてきた。揃いも揃って、かつて学校内でアデレードを嘲笑っていた顔ぶれだ。今更、取り巻きのように擦り寄ってくるとは、どういう神経しているのか。


「ご丁寧にありがとうございます。皆様もとてもお洒落で素敵な装いですね」


 アデレードがしらっとして答えても、


「そちらは旦那様でいらっしゃいますわね。お二人のご結婚、羨ましい限りでしてよ」

「本当に。ご主人様もお優しそうで……ふふ」


 まだその場に留まる姿勢でいた。紹介してほしそうに、ちらちらと視線をペイトンに流している。目的がわかって更に気持ちが萎えた。願いを叶えてやる義理はないが、露骨に嫌な態度で追い払うのは気が引ける。何故なら今日はお気に入りのドレスとアクセサリーで着飾って素敵な日にするつもりだ。下手に諍いあって不快な気持ちになりたくない。どう返事するのがよいか。アデレードは無意識に苦笑いになった。しかし、それが良くなかったらしい。相手によって態度を変える人間には、弱気な姿勢はすぐに伝わるから。


「旦那様は本当に寛容なお方なのですね。ノイスタインでのあれこれも、きっとすべて承知の上で……まあ、愛があれば些細なことかもしれませんわね」


 一人が意味ありげにペイトンに視線を送ると、他の令嬢たちも小さく頷き合った。こないだの夜会の話が浸透して、無礼を働くのは不味いと学んだのではないのか。


(まぁ、早々全員に知れ渡るわけはないか)


 令嬢達は微笑みを崩さない。誰の耳にも決定的に失礼とは取られぬ程度に留めてあるのが嫌らしい。よい気分でいたかったから流しただけで、台無しになった抑える意味がない。ブチギレてやろうか、という感情がアデレードの内に湧いてきた。しかし、


「ノイスタインのあれこれ、とは具体的に何を指しているか教えてもらえないかな。興味がある」


 とアデレードより先にペイトンが返した。鈍いからまた呑気なことを言って、とアデレードは一瞬眉が寄ったが、見上げるペイトンの表情は冷ややかに微笑んでいる。


「……ええっと、それは……」

「無礼な人間がいるとは聞いているんだ。不快な噂を立てられていることも知っている。妻は優しいから黙って耐えていたようだが、私はそれほど堪え性はないんでね」


 令嬢達の顔色がサッと変わる。おぉ、とアデレードは他人事みたいに感心した。


「いえ、私達も詳しくは存じあげなくて…… そういう低俗なことを触れ回る人間とは付き合わないことにしておりますので」

「えぇ、根も葉もない噂話には呆れていたのですよ」


 見苦しい言い訳。共感性羞恥に背中がぞわぞわした。


「そうですか。残念ですね。何かわかりましたら教えてください」


 ペイトンが返すと「もちろんですわ」とだけ残して令嬢達が蜘蛛の子を散らすような去って行く。雑魚すぎて呆れる。あんな連中に悪し様に言われていた過去の自分にも。


「有難うございます」


 アデレードが素直にお礼を述べると、令嬢達の後ろ姿を見るともなく見ていたペイトンは、こちらにチラッと視線を向けた。


「君が考えていること当てやろうか?」

「え?」

「卒業式だからまぁいいかと思っていたのに余計なことして。やるんだったら自分でやったのに」


 アデレードは一瞬何を言われたかわからなかった。でも、じわじわ笑いが込み上げてきた。しかし、笑ったら負けだと思って必死に耐えながら言った。


「私、そんな恩知らずじゃないです」

「じゃあ、どう思ったんだ?」

「ヒーローみたいでカッコいいと思いました」

「……君は本当にろくでもないな」

「え、なんでですか!」


 確かに顔は半笑いだったかもしれないが折角褒めたのに随分ではないか。


「理不尽! 理不尽!」


 抗議すると、今度はペイトンが笑った。なんてことだ、とアデレードは思ったけれども、それ以上は何も言わなかった。小さな沈黙が落ちる。春の風が二人の間を通り抜けていく。


「そろそろ中央の方へ行こうか。先生方にも顔を出しておいたほうがいいだろう」


 少ししてペイトンが周囲を見渡しながら口を開いた。


「卒業式らしく?」

「あぁ、卒業式らしく」


 空は高く、穏やかで、何もかもがよく晴れている。遠くで誰かが笑う声が、楽団の奏でる曲と共に午後の空気に溶けていく。

 何度も夢みた卒業式だ。あの頃の自分が今を知ったら、なんて言うだろうか。目の端にペイトンの横顔が映る。ヒーローみたいでカッコいいと思ったことは嘘じゃない。もう言ってあげないけれど、とアデレードは小さく笑った。





 二時間が経過し、会場には次第に終わりの空気が漂いはじめた。この後、大半の卒業生は生徒会主催の夜会へと流れる。


「では、また後で」


 親しげな挨拶が飛び交う中、夜会に参加するつもりのないアデレードとペイトンは、愛想笑いを浮かべてそっと馬車へと乗り込んだ。

 車輪がゆっくり回り始めるとアデレードは、座席に背中をつけて言った。


「付き合ってもらった私が言うのもなんですけど、どっと疲れましたね」

「式典は、大体疲れると相場が決まっているからな」

「そんなもんですかね」



 ペイトンが、全く卒業式を特別視していないことに妙に安心してしまう。アデレードは、リラックスした表情で車窓を眺めた。


「ディナーご馳走様してくれるんですよね? まだ、四時過ぎですから、時間まで部屋で休みます?」

「その前に君にポケットチーフの礼をするよ」

「え、そんなのいいですよ」

「もう向かっているから」


 さっきペイトンが行者に指示していたのは知っていた。しかし、馬車はホテルへのルートを進み始めたので、そんなサプライズがあるとは思いもしなかった。強引なことはしないタイプと認識していたから意外だ。頑なに拒絶するのも失礼になる、とアデレードはそれ以上反発するのはやめた。


「何処に行くんですか?」


 答えは教えてくれないだろうと予想はしていたが、聞くのがマナーだと思って尋ねる。


「秘密だ」


 いつぞやの会話を彷彿とはせる返答に、アデレードは、


「ふーんだ」


 と返した。形骸化したやり取りにお互い笑いが漏れる。そういえばあの時、ペイトンは何を好きなのか結局教えてくれなかった。隠し回らなくてよいのに、と思う。


(言いたくないなら仕方ないけど)

 

 そんなに仲良くもないし、と思いつつ、アデレードは再び窓の外へ視線をやった。見慣れた街並み。ブルーメ商業区とは真逆に位置する最新の流行品が揃う王都一の歓楽街だ。


(まさか、宝石じゃないよね?)


 ガラス石のブローチを随分気にしていたから買い直す気ではないか。それならば流石に断ろう、とアデレードが考えている間に、馬車は停車した。


「え、ここ……」


 窓の外、視界に飛び込んできた店構えに、アデレードは目を丸くした。

 淡い石造り、深紅のオーニング、磨き上げられたガラス窓。その中央に掛けられた看板には、金文字で「ルグラン」と記されている。開店からわずか一年で半年待ちの予約が必要なほどの人気になった店。アデレードがこの世で一番美味しいと称するチョコレートケーキを販売する店で、レイモンドとの別離を決めた店。


「チョコレートケーキを買う約束だったろ?」


 アデレードが守られるとは思っていなかった約束を、ペイトンはさも当然に口にする。しかし、


「……伝手を使ったんですか?」


 アデレードが再三忠告したことは忘れているらしい。ペイトンは無言のまま口の端だけ上げて笑う。歪んだ表情なのに美貌はちっとも崩れない。いろいろズルではないだろうか。


「駄目だって言ったのに。悪者!」


 アデレードが言うとペイトンは吹き出した。


「何笑っているんですか。横入りして!」

「そうだ。僕は悪い男なんだ」


 悪びれる様子なく笑顔のまま答える。そう言われたら返す言葉がない。元々ペイトンは、貴族の権威や家名の力を割と平然と使う。多分、社交界では必要なことなのだけれど、アデレードには慣れない。


「ほら、おいで。今更予約をキャンセルしても誰も得しない」


 戸惑うアデレードをよそに、ペイトンはさっさと馬車から下りて、手を差し出した。誰も得しないけど駄目じゃん、と思う一方で、私の為に悪事に手を染めてくれたんだな、という気持ちもある。


(悪事……)


 その単語に、流石に言い過ぎか、と少し笑いが込み上げる。


(でも、完全なズルだよね)


 アデレードは、迷いつつも差し出された手を取った。優しい感触に、ペイトンの気配りに対して文句ばかりの自分の言動にハッと気づいた。


(これじゃプレゼントにケチつけてるのと同じじゃない)


 焦燥感に見舞われて、馬車から舗道に下りたタイミングで、


「……あの、予約してくれて有難うございます」


 と慌てて告げた。


「まぁ、これで共犯だな」


 ペイトンがにやついて答える。


「……」


 その顔を見つめながら、確かに悪い男だ、とアデレードは思った。けれど、なぜか口には出せなかった。なんだろうか。自分らしくなくて、もやもやする。でも、この問いは考えては駄目な気がした。代わりに、


「悪に染まる価値ありのチョコレートケーキなんです」


 と平静を装って言った。ペイトンが満足気に笑う。アデレードは、ますます落ち着かない気持ちになった。手持ち無沙汰に看板に目を向ける。金色の文字で書かれた店名を、頭の中で無意味に繰り返した。もう二度と来ることはないと思っていたのに、不思議なくらい嫌な記憶は蘇ってこない。


「そうか。期待している」

「いや、でも、甘党の人にはですよ」


 がっかりされると嫌なので咄嗟に保守的な発言がでる。が、


「君の好きな物にケチつけたりしないよ」


 ペイトンは涼しい顔で答えた。アデレードは、また言葉に詰まった。さっきから調子が狂いっぱなしだ。足元が揺れているようで心許ない。チョコレートケーキに浮かれているのかもしれない。


「……有難うございます」


 謎の感謝が口を衝く。いや、本当はちゃんと理由はあるのだ。多分。確かに。すぐそこに。でも、手は伸ばさなかった。


「行こうか」


 ペイトンが微かに笑って、ゆっくり歩き始める。アデレードも、何もなかったことにして黙ってエスコートに従った。






 店に入ると、まず正面のショーケースが目についた。宝石のように光るチョコレートや焼き菓子が、ガラス越しに整然と並べられている。さらに視線を奥へと移せば、サロンへ繋がっていて、ティータイムを楽しむ客達の姿が見えた。


「いらっしゃいませ」


 ドアベルに気づいた店員が近づき、ペイトンに名前を確認する。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 案内されたのはカウンター裏手の階段だった。客席からは死角になる、ひっそりとした場所だ。二階へ上がると、幅の狭い廊下へ出た。装飾のない壁が続き、仮設通路のような無機質さが漂っている。急ごしらえの部屋をあてがわれるのではないか、と疑いたくなる雰囲気だった。


「どうぞ」


 店員が二つ並んだ扉の前で立ち止まり、向かって左の部屋へ誘った。恐る恐る室内へ入ると、廊下の印象とは裏腹に意外なほど広い。白いクロスがかけられた丸テーブルと椅子が二脚。棚には数冊の本と花瓶が一つ。陽だまりを束ねたようなミモザの花が飾られている。大きな出窓からは明るい西日が差し込み、音のない静かな空間が整えられていた。

 案内してきた店員は、ペイトンとアデレードが席に着くのを見計らい、


「ケーキはご予約の品をご用意しております。お飲み物など、他に追加のご注文があれば承ります」


 と、メニューをそっとテーブルに広げた。


「僕は深煎りの珈琲を。君は?」

「私はアッサムティーがいいです」

「じゃあ、それで」

「かしこまりました」


 店員が軽く頭を下げ、静かに部屋を後にする。


「二階があったなんて知りませんでした」

「常連なんじゃないのか?」

「今日で三回目です」

「世界で一番美味しいと評価しているのに?」

「だから、予約が取れないんですってば」

「君は本当に律儀だな」


 ペイトンは椅子に背を預けて笑った。それから、ふと思い出したように付け足した。


「くどいようだが、これはポケットチーフの礼だからな。黒魔術なんか使ったら駄目だぞ」


 黒魔術という単語に、勿忘草を見に行った夜の記憶が蘇った。ルグランのケーキを買ってもらうお返しに、ペイトンを傷つけた女達を呪ってやると約束した。


(わざわざ言うってことは、呪って欲しいって意味かな……)


 一瞬勘繰る気持ちが芽生えたが、ペイトンが本気になれば、あの女達に報いを与えることなど、きっと造作もないことだ、とすぐに考え直した。


(……律儀な私が律儀に黒魔術を使わないように止めたってことよね)


 つまり、本当に呪ってほしくないのだ。そう気づいた瞬間、胸がざらついた。ペイトンにとっての母親や家庭教師は、自分にとってのレイモンドなんだ、と今になって思い至った。嫌いになってしまった好きだった人。そこへ土足で踏み込んでしまったことに、激しい後悔が押し寄せてきた。が、


「あぁいうのは、失敗したら自分に跳ね返ってくるんだ」

「え?」


 ペイトンの発言に理解が追いつかず、アデレードは間抜けな声を上げた。


「黒魔術は、自然の流れに逆らう力だ。失敗すれば歪みは術者に戻る。かけた呪いの何十倍にもなってな。だから、あんなものに手を出したら駄目なんだ」


 一体何を怒られているのか。しょっちゅう黒魔術を使っているみたいに諭されているが、実際に人を呪ったことなどない。でも、あの約束は冗談ではなかった。そこは勘違いしてほしくない。どう説明すればよいのか。アデレードは、考えあぐねた末、


「わかりました。呪いません」


 と答えた。口に出すと大人の会話とは思えず、笑いが込み上げてきた。


「僕は真面目な話をしているんだぞ」


 ペイトンが眉を寄せて言う。


「私も真面目に答えたんですが……。旦那様って、黒魔術に詳しかったんですね」

「詳しいわけがないだろ」


 ペイトンが更に眉をひそめるので、アデレードはますます笑えてきて、頬の内側を噛んで堪えた。しかし、正面に座るペイトンが、半笑いの表情を見逃すはずがない。


「君ねぇ」


 呆れた声だったが、ペイトンもわずかな笑みを浮かべている。


「本当にわかってますよ。黒魔術はやめます。別のお礼にしますね」

「だから、いいって言ってるだろう」

「私、基本的にギブ・アンド・テイクの精神で生きているんで。でも、旦那様からは、結構一方的に搾取しちゃっているから、ちゃんとお礼しないといけないと思っているんです」


 具体的に言えば不平等契約だが、それは口にしなかった。


「……君にもらったものは多いよ」

「え? 私なんかあげましたっけ?」


 想定外の答えにアデレードは目を丸くした。ペイトンは静かに微笑んでいる。今日は前髪を上げているから、整った輪郭がより際立って見える。優しい表情にどきりとして、アデレードは反射的に視線を逸らした。無性に落ち着かなくなって、そわそわしていると、タイミングよくノックの音が響いた。続いてドアが開き、銀のワゴンを押した店員が入ってくる。注文の品が乗せられているが、驚いたことに、ケーキはホールで用意されていた。


(一台作らせたの?)


 唖然とするアデレードの目の前で、店員は流れるような動きでティーカップとポットを並べていく。最後にナイフをすっと構えると、


「お取り分けしますね」


 と丸いケーキに滑らかに切れ目を入れた。器用にカッティングされ背の高いケーキが、崩れることなく皿に盛られる。


「では、ごゆっくり。ご用命がありましたら、呼び鈴でお知らせください」


 入口脇のベルプルを指し、店員は一礼して退室していった。


「ホールケーキでくるなんてびっくりしました。食べ放題ですね」


 目を輝かせるアデレードの様子に、ペイトンは満足げに口元を緩めた。


「あぁ、沢山あるからどんどん食べなさい」

「有難うございます。でも、どう頑張っても八分の五くらいが限界ですよ」

「君、妙にリアルな数字を出してくるな。心配しなくても、残りはバルモア邸に届けてもらえばいい。土産に焼き菓子も用意してあるから」


 ペイトンは最初からそのつもりだったような口ぶりで言った。至れり尽くせりすぎでは? とアデレードは申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、


「有難うございます」


 と素直に感謝した。


「礼ばかり言ってないで、早く食べるといい」


 感謝の数だけお礼はするでしょ、と思いつつ、アデレードは満面の笑みでフォークを手にした。


「じゃあ、遠慮なく頂きます」


 大きな白い皿の真っ黒いケーキ。華美な装飾もないし、ピカピカのコーティングもない。スクランブル状のチョコが上面にあしらわれているだけの平凡なケーキに見える。しかし、フォークを入れると驚くほど滑らかに沈んでいく。ひと口頬張ると、熱で溶けたチョコレートがねっとりと広がり、最初にがつんと甘さがきて、後味は僅かに苦い。その苦味が後を引いて、自然と次のひと口へと手が伸びる。


「めちゃくちゃ美味しい!」


 アデレードは感嘆の声をあげるが、向かいを見るとペイトンはまだフォークすら手にしていなかった。


「どうしたんですか? 食べないんですか? 早く食べてくださいよ」

「あぁ、うん。そうだな」


 感想が聞きたくて、アデレードはペイトンに目を向けたままじっと待った。


「そんなに見られても……」


 ペイトンは少し困ったように呟いて、ようやくフォークを取った。丁寧な所作で切り分けたケーキを口に運ぶ。審査員みたいに真面目な顔で咀嚼するので、アデレードはどう反応するか緊張した。


「……すごく甘いけど、不思議と重くないな。美味しいよ」

「そうでしょ? 美味しいでしょ?」


 ほっとしてアデレードは、揚々と言った。


「あぁ、君が世界一美味いと評価するだけある。有難う」

「旦那様がお金払うのに、私にお礼を言うのは変ですよ」


 だったら「美味しいでしょ」と自慢するのが、そもそもおかしいか、とアデレードは自己矛盾に笑ってしまった。


「美味しいから、僕に勧めてくれたんだろう? だから、礼を言ったんだ」


 ペイトンは、珈琲のカップに口をつけながら、どうともないことみたいに言った。途端にアデレードの目頭がじんわり熱くなった。そうだよ、と思ったから。そうだよ、そうだよ、と繰り返し、胸が詰まるくらいに同じ言葉が湧き上がってくる。世界で一番美味しいと感動したから、一緒に食べたいと思ったのだ。あの時も、今も。喜んでくれるかな、と。とても単純に、ただ、それだけ。あの時は、叶わなかったけれども。

 

「……まぁ、あれです。悪に手を染めた甲斐があるって感じ」

 

 アデレードは、へへっと笑って大きくケーキを切り分けて頬張った。そうすれば、喋らなくても不自然じゃない。口中に広がる黒くて甘い味。世界一の味。お礼を言うのは、やはりペイトンではなく自分の方だとアデレードは思った。ペイトンが連れてきてくれなかったら、もう二度とこの店に来ることはなかった。実にもったいない話だ。人生の損失だ、と。

 まどろむような空間に、食べきれないケーキの山。アデレードは、小さい頃の願いが叶ったような幸福をかみしめるようにフォークを運んだ。以前は、もったいぶって食べていたが、今日は思う存分味わえる。大きく切ったり、小さく切ったり、ケーキを倒して側面から食べてみたりと機嫌よく食べすすめた。


「もう一切れ食べていいですか」

「あぁ。全部君のだ」

「旦那様の分も取り分けましょうか?」

「いや、僕はまだあるから」

「そうですか」


 ワゴンに乗ったケーキは、店員が気を利かせて、既に等分にカットされてある。立ち上がり一切れ皿に盛って座り直すと、ペイトンがチラッと時計を気にしたのが見えた。


「ここって時間制限とかあるんですか?」


 アデレードが尋ねると、ペイトンは驚いた表情で顔を上げた。


「え、何故? 制限なんてないよ」

「今、時計を気にしていたから」

「……君は、存外目ざといな」


 ペイトンは笑った。その時、コンッと不自然に一度だけノックの音が響いた。先ほどと違って店員が入ってくる様子はない。


「今、ノックの音、聞こえませんでした?」


 アデレードが不審に思ってペイトンに向き直り、もう一度尋ねた。


「ノックありましたよね?」

「……あぁ、時間切れの合図だよ」

「え、なんですか。やっぱり時間制限あるんじゃないですか」


 そういうことは先に教えて欲しい、とアデレードは唇を尖らせた。

 

「違う。時間切れなのは、僕と君の契約の話だ」

「え?」

「契約は君の勝ちで終了だ。潔く負けを認めるよ」

 

 脈略のない唐突な発言に、アデレードは口を開いたまま呆けた。残りの期間継続することに意味がない、とジェームスに指摘されたことを思い出した。でも、まさか今ここで敗北宣言されるとは夢にも思っていなかった。心臓が細かく脈打って、喉元に言葉が溜まっていく感覚。どう答えてよいかわからない。でも、何か言わなくては、と、


「……諦めるんですか?」


 どうにか絞り出した。途端にゾッと怖気が走った。今のはなし! と大声で叫びだしてしまいたくなった。だって、まるで縋るみたいな言葉じゃないか。冗談じゃない。そういうのはもうやめたはずだ。惨めったらしいのはごめん。早く訂正しなくては。いや、違う。ペイトンが急に負けを認めたから驚いただけ。下手に言い訳するのは変だ。アデレードはぐるぐる回る焦る気持ちを抑えて、


「まぁ、いいですけど」


 明るい口調で目を細めて、できるかぎり抑揚のない声で言った。興味なさげに聞こえるように。ペイトンの方は見なかった。ただ、笑顔であり続けた。フォークを持つ手がじんと熱い。残りの五月はどうなるのか。このまま自分はノイスタインに残ることになるのか。そんな現実的なことが浮かんできた。八十歳になっても助けに来てくれるんじゃないのか。嘘つき。何だよそれ、何だよそれ、と責める気持ちも。でも、それも全てを呑み込んだ。感情の一滴も溢さないように。ぎゅうぎゅうに心のうちっ側に詰め込んで、皿の上のケーキを見つめた。

 

「罰則は、負けた方が勝った方の喜ぶことをするんだったな?」


 ペイトンがどんな顔で話しているのか顔は上げられなかった。静かで穏やかな声が、ひどく遠くに感じる。


「……そうですね。じゃあ、まぁ、このケーキが罰則ってことで」

「これはポケットチーフの礼だと言っただろう」

「別に、このケーキで十分ですよ。他に食べたい物なんてないし」

「食べ物限定じゃなかっただろ」

 

 顔は伏せたままいたけれど、ペイトンがちょっと笑ったのがわかった。それに無性にイラっとした。多分、怒りの感情がいちばん楽だったから。


「じゃあ、なんですか?」


 自然に口調がきつくなる。この会話のいきつく先に何があるのか。せめて夕食を終えてから言えばいいのに、と怒りのボルテージが上がっていく。


「隣の部屋に用意してある。行ってくるといい」

「隣?」


 ペイトンの慈しむような優しい声。自分との温度差に寒くなる。アデレードは唇をきゅっと結んだ。


(折角、いい気分だったのに)


 なんでわざわざ隣の部屋になど行かなくてはいけないのか。一体何を買ったんだ。店の二部屋も占拠して迷惑が掛かっているじゃないか。面倒くさい。本当に面倒くさい。でも、もうなんでもいい。チラッと覗いて、喜んだふりをして、とっとと終わらせればいい、と投げやりな感情が湧いた。


「わかりました。見てきます」


 アデレードは立ち上がり足早に入り口へ向かったが、


「アデレード」


 呼び止められて、仕方なく振り返った。


「なんですか?」


 目は合わせなかった。ペイトンは椅子に腰掛けたままで、一緒に来る気はないらしい。サプライズなのだから、反応を確かめようと思わないのだろうか。罰を果たせばそれでよいということか、とくさくさ思った。けれど、


「これは、かなりの大盤振る舞いなんだぞ」


 ペイトンの呑気な言葉に、アデレードは脱力した。多分、本当に喜ばせようとしていることが、嫌なくらい伝わってくる。遅かれ早かれこの結果になった。怒るのはお門違い。そう考えると急速に頭が冷えた。


「……期待しますね」


 アデレードは笑顔を作って廊下へ出た。気持ちを切り替えるため、一度深く息を吸って、指示された隣室へ向かう。部屋は右隣にひとつだけ。迷う余地はなかった。ドアの前に立ち、ノブに手をかけるとカチリと音がした。金に物を言わせるタイプのペイトンがわざわざ言うほどの大盤振る舞いとは何か。


(きっと高い物だよね。困るな)


 ドレスや宝石が一面に飾られていそう、とアデレードは思った。でも、一体いつ用意したのか。契約を終わらせるつもりで、以前から粛々と準備していたのか。疑問はいろいろ浮かぶ。とりあえず部屋の中を確認しようと押し入るように扉を開けた。瞬間、足がすくんで動けなくなった。


「なんで……」


 目に飛び込んできたのは、レイモンドの姿だった。

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アデレードがドレスの確認したり観劇してる間にペイトンはパパたちと色々あったんだろうな 月桂樹を見た時にラウラを合わせず手紙を捨てたことを卑怯だと評してたけどいざ自分がその立場になってどうせマイナス思考…
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