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卒業式は十一時から学校の講堂で執り行われるが、学生は十時に教室に集合せねばならない。アデレードは両親とは別に一人で登校することとなった。
七月ぶりに制服に袖を通し、指定の鞄を持って馬車に乗り込み学校へ向かう。少し制服がきつく感じたことには気づかないふりをした。
一人きりの馬車の中。朝の凛とした静かな空気が少し心許なくて、一年生の初登校の日を思い出させた。緊張と不安にまみれながら、一緒に通学するためにリコッタ邸へ向かったこと。緊張で手先が冷たかったんだけれど、レイモンドの顔を見たらとても安心した。それからは、どんなに邪険にされても毎朝迎えに行っていた。さぞ迷惑だったろう。振り返れば付き纏い女に対して案外親切だったのでは? という気さえしてくる。客観的に判断すればレイモンドは十分意思表示していたのだ。自分だけがいつまでもしがみついていた。そう考えると全部なかったことにしたくて、思わず顔を覆いたくなった。
(……でも、このままじゃ終われないわよね)
バリバラへ嫁いでから、一通の手紙もなかった。それが答えだ、と思わない日はなかった。それでも、ちゃんとケジメをつけたい。この重苦しさを早く清算してしまいたかった。
(やっぱりチャンスは式が終わった後かな)
レイモンドは特進科だからアデレードとは校舎が違う。各々の教室へ集合して講堂へ向かい卒業式が行われる。式が終了すれば午後からのガーデンパーティーへ向けて一旦解散になる流れだ。大抵の者が着替えのため自宅に帰る。その雑踏に紛れて声を掛けるのが理想だ。しかし、どう話しかけるのがよいか。そもそも応じてくれるのか。言いたいことを紙にまとめてくれば良かった、とアデレードは弱気に思った。レイモンドを目の前にして冷静に話せる自信がない。
(まぁ、それは今に始まったことじゃないんだけど)
少しずつ少しずつ変わってしまった何か。卒業すれば全部解決すると信じていたあの頃。もし、あのまま我慢していたらどうなっていたのか。バリバラへ行かなければ……そこまで考えてペイトンの顔がふいに浮かんだ。
――へなちょこだから心配だ。
そう言って露骨に眉を寄せた顔。心配している人間の表情ではないだろう。笑ってしまう。変な人だ。どうして今あの場面がよぎるのか。よくわからない。
アデレードは車窓に視線をやった。イチョウ並木が続いている。先日、コリンズ邸に来訪した時も通った道だ。「紅葉したら綺麗だろうな」と言ったのもペイトンだった。ペイトンが付き合ってくれたので、五日間の学生生活を楽しんだ。何も後悔していない。だから「もしも」はもういらない。落ち着いて、ちゃんと卒業式を迎えよう。アデレードは一つ大きく息を吸って姿勢を正した。
「アデレード様、お久しぶりです。ご結婚おめでとうございます。先日の夜会、旦那様とご一緒でしたよね。素敵でしたわ」
「本当に。お似合いでした」
教室に入るとあまり会話をしたことのない令嬢達に囲まれて、アデレードは辟易した。こんなに掌返しされることがあるのか、と乾いた感情が溢れてくる。あの夜会は半年に一度の大規模な催しだったため、参加者は多い。誰が何をどう見たか、は不明だが、これまでの不敬な態度を改めねば不味いことは周知されているようだ。ペシッと撥ねつけるのは簡単だけれど、アデレードは適当に愛想笑いで流すことにした。過去を蒸し返してこのハレの日に泥を塗ることはしたくない、と思った。
「皆様着席してください」
わざと集合時間ぎりぎりに到着したから、ほどなく教師がやってきた。階段状に机と椅子が設置されている教室。席は早い者順で、アデレードは大概前から三番目の右端に座る。本日も空いていたその席へ腰掛けた。
「本日はご卒業、誠におめでとうございます。皆様がこの学び舎で過ごした年月は、ただ知識を得るための時間ではありませんでした。互いに学び合い、助け合い、そして時に衝突しながら共に歩んだ日々が、皆様の中に確かな礎を築いたと信じています。これからは、それぞれの立場で、己の信じる道を進まれることでしょう。どうか胸を張って歩んでください。皆様の未来が、気高く、誇らしいものでありますように心から祝福します」
教師の挨拶に黙って聞き入る。何の感慨も湧かない。寧ろ、ひたすらに虚しさが募った。私は何も学んでないですけれど、と訴えたらどうなるんだろうか。八つ当たりじみた馬鹿げた考えがよぎる。
(まぁ、勉強は真面目にしたかな)
七月休学して卒業できるのは、それまでの積み重ねがあったからだ。最低限の必修単位はすでに取り終えていた。レイモンドが勉強する傍で自分だけ遊ぶのも気が引けて、取れる単位はどんどん取った。一緒に頑張りたかったから。尤も、レベルが違いすぎて途中から「一緒に」などとは言えなくなったけれど。
(でも、卒業の目処が立っていなかったら、流石にバリバラへは行かなかったかも)
正直、出席日数が足りていれば卒業はできる。高位貴族の令嬢の多くは、その出席条件を満たして卒業する。アデレードが、七月を残した時点で卒業資格を満たしていたのはレイモンドに並びたい執着の産物だった。結果として、それが真逆な方へ導いたのだから皮肉な話だ。
「では卒業記章をお渡しします。受け取った方から講堂へ向かう準備をしてください」
教師が一人ずつ記章を配って回る。百十六期生とわかる数字と学校の紋章が刻まれている。卒業の証として、社交の場や進路において確かな効力を持つものだ。
渡された記章を制服の胸元に留めた途端、アデレードの背筋は自然と伸びた。思い出があるわけでもないこの教室に、もう戻ることはない事実が、不思議と胸をつんと衝いた。
クラスごとに指示されて講堂へ向かった。ダンスの練習が行われ、夜会も開催される大きな会場だ。壇上の正面には大きなステンドグラスがあり柔らかな陽光が虹色に差し込んでいる。
入場すると既に保護者と在校生が着席していた。前方の席へ両者の間の通路を抜けて歩いて行く。三百人を超える人間がいるのに不気味なくらい静まり返った荘厳な空気感。ただ座って学園長の祝辞を聞くだけなのに緊張してしまう。
(帰りにレイモンドを捕まえられるかな……)
特進科は毎年最前列と決まっている。アデレードの座っている位置からは全く様子が確認できなかった。七月会わないだけで急激に容姿が変わるわけもない。解散した後、人混みの中でも見つける自信はある。ただ、レイモンドが一人になるタイミングがあるかが大きな疑問だ。他の人間と会話中に声をかけるのは気が引ける。
「では、続いて学園長より送辞です」
アデレードがあれこれ考えている間に学園長が壇上へ上がった。おもむろに祝いの言葉が述べられる。
「百十六期卒業生の諸君。本日ここに、諸君の旅立ちの時を迎えられたこと、学園を預かる者として心より誇りに思います。この学び舎において、身分や出自を問わず共に学び、切磋琢磨した日々は、諸君の内に確かな力と気高さを培ったはずです。知識は力であり、教養は誇りです。そして、それらは社会にあって、己のみならず他者をも照らす灯火となりましょう。それぞれの道は異なれど、志あるところに誇りは宿るもの。どうか胸を張り、己の信じる道をまっすぐに進んでください。諸君の未来が実り多きものでありますよう、ここに深甚なる祝福を捧げます」
声がよく通るよう設計された講堂の構造により、壇上の声が静謐な空間をゆっくりと伝っていく。拍手の後、司会役の教師が答辞を読み上げる生徒の名を呼ぶのが例年通りの式の流れ。だが、
「レイモンド・リコッタ卿。前へ」
その名前を聞いてアデレードは息を呑んだ。壇上に視線が釘付けになった。
(レイモンド……)
答辞は毎年、学年末試験で一位を取った生徒が担う。今年の特進科には、幼い頃から神童と噂されるヴァルモント公爵家の三男がいる。毎回レイモンドと成績を競り合っていたけれど、その殆どでヴァルモント公爵に軍配が上がっていた。だから、
「レイモンドは、勉強だけしているあの人と違ってリコッタ商会の手伝いもしているんだから、仕方なくない?」
と慰めを言ったことがある。
「それはただの言い訳だろ。俺は公爵家じゃないんだから、もっと頑張らないと駄目なんだ」
「爵位関係ある?」
「アデレードにはわからないよ」
突き放された口調に、それ以上何も言い返せなかった。でも、本当に余計な一言だったのだと今更理解できた。怒るのも無理はない。だって、
(一位になったんだ……)
凛とした姿勢で壇上に上って行く長身で細身な後ろ姿。七月ぶりに見るレイモンドは七月前のままなのに遥か遠く感じる。
答辞を読むなんて知らなかった。凄いね、おめでとう、とも言っていない。あんなに隣にいたくて必死に追いかけていたのに、もう全然別のところにいる。だけど、不思議と悲嘆した負の感情は襲ってこない。ひどく凪いた気持ち。でも、からっぽというのとも違う。自分がどんな顔をしているのか全くわからない。アデレードはただ、一心に壇上を見上げた。
「本日、我々百十六期生は、無事にこの学び舎を卒業いたします。静かに積み重ねてきた日々が、一つの区切りを迎えたことを、今ようやく実感しております。在学中、多くの教えに触れ、思索を重ね、自らに必要なものを選び取ってまいりました。その蓄積が確かに礎となっていると、今は確信しております。先生方のご指導と、共に学んだ者たちの存在に、心より感謝申し上げます。これから先の道はそれぞれに分かれますが、この場で得たものを支えに、自らの歩みを続けてまいります。有難うございました」
久々に聞いたレイモンドの声が、一音一音耳に染み入る。
――必要なものを選び取った。
その言葉が嫌なくらい頭に残った。
(必要なもの……)
レイモンドはこの学園生活できっちりそれらを勝ち取ったのだろう。例えば卒業生代表の座も、リコッタ商会の仕事も、それからメイジー・フランツも。私がバリバラへ逃げた後も何も変わらず努力して、あの壇上へ上りつめたのだ、とアデレードは思った。凄いことだ。誇らしい。でも、同時に、自分は必要なものに入れてもらえなかったんだ、としんしんと積もる雪みたいな冷たさを感じた。あぁ、もう本当に道が違えてしまったな、と。きっと国境線を越えるよりもっと遠い。遥か彼方の手の届かない場所に。わかっていた。悲しくない。現実を淡々と受け止められる。平気だ。呼吸も何も乱れていない。
一礼して壇上を下りるレイモンドに拍手が鳴り響く。あまり見ないちょっとこわばった表情。この上ない栄誉に緊張している顔だ。じっと見ていると一瞬目があった気がして、アデレードは咄嗟に顔を伏せた。俯きながらただの自意識過剰を苦く思う。でも、おかげで今日は声をかけるのはやめようと決断することができた。だって、
(……卒業式だものね)
自分にとってだけではない。レイモンドにとっても。いや、レイモンドにとってこそ、実にめでたいハレの日だ。逃げ出した部外者がしゃしゃり出て行って自分の気持ちをぶつけていい日じゃない。アデレードは、もう一度顔を上げてレイモンドを見た。席へ戻る姿をじっと目で追う。もう、傍にいて「おめでとう」すら言えなくなった現実が喉の奥をチリチリ焼く。今日、自分が関わることはレイモンドにとって不快なこと。だから、やめよう。目が開いたみたいに、さっきまでの自分の浅慮な思考が薄ら寒く感じた。早くケジメをつけて、全部すっきりさせたい。そればかりだった。
(私、自分のことしか考えてなかったんだな)
レイモンドの卒業式をぶち壊すかも、とは微塵も考えていなかった。だからって、
(別に何も許していないわよ)
強く言ってやりたいことがある。どうして私を邪険にしたの? 酷いじゃないか。おかしいじゃないか。私だって、もうあなたを全く好きじゃなくなった。バーカバーカって言ってやらなきゃ気がすまない。ただ、今日でなくていいだけだ。レイモンドのハレの日に泥を塗るのは駄目だと思うだけ。だって、レイモンドはこの世で最初にできた一番の友達だ。それだけは絶対に変わらない事実だから。
(……これって、きっと独りよがりなんかじゃないわよね)
悲しくないのにじんわり視界が滲む。なんだというのか。やめてほしい。泣きたくなくてそっと宙を仰いだ。なのに一粒、勝手に溢れ落ちていく。無性に悔しくてならない。やっぱり私はへなちょこかもしれない。アデレードは苛つきながら天井を見つめ続けた。




