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▽▽▽
「アデレード様、お久しぶりです。ご帰国されていらしたのですね」
「突然休学なされたから驚きました。ご結婚されたともお聞きして更に驚いたのですよ。先ほど踊られていた方が旦那様ですよね? 素敵な方ですね」
「本当に、おめでとうございます。卒業式には出席されるのですよね? 一緒に式に出られて嬉しく思います」
ペイトンと別れて化粧室に向かい、ダンスで乱れた服装を正し、サロンへ行く途中で声を掛けてきたのは同級生の令嬢達だった。めちゃくちゃ仲が良かったわけではないが悪くもなかった。多分、普通に良い人達だ。深い交流を持てなかったのは、友人作りに重きをおかなかった自分のせいである感は否めない。馬鹿だったな、と思う。なので、
「三日前に帰国したんです。私も皆様と一緒に卒業したかったので」
とアデレードは感じよく応じた。後、五月したらノイスタインに戻るのだし、今更かもしれないが仲良くしてもらいたい、と未来を見つめて思った。しかし、そんなよい気分を害するように背後から呼び止められた。
「まぁ、アデレード様、お久しぶりです。ご結婚おめでとうございます。まさか、隣国へ嫁いでいかれるとは意外でしたわ。レイモンド様と婚姻されると思っておりましたのに」
「本当にあんなにお慕いしていらしたのにね。でも、一年限りの結婚なのでしょう? お戻りになったらレイモンド様と一緒になるおつもりとか?」
「まさか。流石にそれは厚顔無恥というものよ」
笑顔のままゆっくり振り向くアデレードの目に映ったのは、レイモンドの取り巻きの令嬢達。いずれも伯爵家の出自でリコッタ家とは仕事柄縁近い関係だ。そして、彼女達の隣にはパートナーらしき男性がいる。レイモンドを狙っていたのは明らかだったのに、それぞれ別の男性にエスコートされているのは意外。ノイスタインの女性の結婚適齢期は学校を卒業後三年なので「何も不思議はない」と言われればそれまでのことなのだけれど。
(レイモンドがメイジー様と婚約したから諦めたのかしら?)
だったら、わざわざ喧嘩を売ってくる必要はないだろうに。何がしたいのかさっぱり分からなくて困惑してしまう。そして、囲まれてチヤホヤされ気分がよいところへ堂々と割り込んでくるとは「のさばらせ過ぎたわね」とも強く思った。溜まった膿みを排除せねばならないな、と。
「お久しぶりですね。貴女方も随分レイモンド様に執着して、私に執拗な嫌がらせをしていたのに、新しいパートナーを見つけられたのですね」
アデレードの答えに令嬢達の顔がさっと赤くなった。言い返されるとは夢にも思わなかったという表情。これまで平気だったから今も大丈夫だと高を括っていたのだろう。
「嫌がらせなんて人聞きが悪いわ」
「そうですよ。私達がいつそんなことを。酷いわ」
「いつ……そうですね。例えば今とか?」
アデレードは鼻で笑った。馬鹿なんだろうか。先ほど話していた同級生達も後ろで聞いているから証人はいる。逃れようなどない。
「バルモア嬢、彼女達は別に貴女に嫌がらせしたつもりではないと思いますよ。しかし、失言でしたね。非礼を詫びます」
アデレードが冷めた目で、ぐうの音も出ない令嬢達を見つめていると、一人の男が割って入ってきた。見たことあるような、ないような顔。自分より爵位が上の人間は常識として把握済みだから、アデレードが気を遣うべき人間でないことはわかる。
「その言葉、私が無礼を忠告する前に言って頂ければ、まだ快く許せたかもしれません。後、私は彼女達が仰ったように嫁いでおりますので今はバルモア姓ではないんですよ」
高位貴族の名前を間違えるのは致命的な失態だ。わざとなのか、本当についうっかりなのか不明だが、こっちが庇ってやる必要はない。そもそも指摘したように、令嬢達をすぐに嗜めなかった時点でいろいろ察して余りある。
「こ、これは失礼しました。フォアード侯爵夫人」
(知っているんじゃない)
男はすぐに姿勢を正して名前を訂正し紳士の礼を執った。下に見て話し掛けてきていたことが余計に浮き彫りになり胸糞が悪い。
(舐めすぎでしょ)
高位貴族をこき下ろせるチャンスなど滅多にない。この人達は自分をサンドバッグにすることで悦に入りたかったのか、と理解した。そして、幼い頃繰り返し教えられた家庭教師の言葉を思い出した。
――貴女はバルモア侯爵家の人間なのですから、その名に恥じぬよういつ何時も、毅然とした態度で振る舞わねばなりません。
初等教育で家庭教師から最初に習うことは自分の家柄についてと、それに見合う振る舞い。しかし、五歳のアデレードには「毅然」と「つんけんしている」の違いがよくわからなかった。何故、そんな感じの悪い態度をわざわざ取らなければならないのか。ただ、「先生の言うことはちゃんと守るのよ」と母親に厳しく言い含められていたし、授業には姉が監視についてきていたしで、黙ってうんうん頷いていた。わからないまま、姿勢を良くすること、ティーカップは音を立てずに使用すること、美しい食事のマナーなどを叩きこまれた。やがて年齢を重ねて侯爵家の人間として公式の場にでても恥ずかしくない所作が身につき、「毅然」と「つんけん」の違いも理解できるようになった。でも「侯爵家らしい振る舞い」をすることにレイモンドが良い顔をしなかったから、学校では敢えてそういう態度を取らなかった。その結果が現状だ。下手に出れば舐めた態度に出てくる人間がいて、やり返す術を知らなければ取って食われる。やはり先生の言うことは正しかった。改めて教育を受けさせてくれた家族と、根気よく教えてくれた先生に深く感謝したい気持ちになった。何故なら、これまでは単に「やり返さなかった」だけでその方法を知らないわけではないのだから。
「構いませんよ」
アデレードが感じ良く笑った。そして、相手が安堵の表情を浮かべるのを見て続けた。
「学生のうちは身分に関係なく学友達と付き合い、全て静観するように、と父にきつく言い含められているのですよ。将来付き合うべき相手か否か判断できるから、と。確かに忠告は正しかったです。見極めることができましたから。でも、後二日は学生の身分でしょう? この場で貴方方に何かしようとは全く考えておりません」
アデレードの笑顔と真逆に一気に空気が凍りつく。卒業したらバルモア家はお前らとは付き合わないとはっきり宣言したのだから、当然だ。尤も父からそんな話はされていないのだが、家族に暴露したら結果は同じなので嘘ではない。
「アデレード様、それは」
「私達は決してそのような……!」
眼前の男女が口々に言い訳を始めるが知ったこっちゃない。
「五年間の猶予がありましたから」
今更遅いんだよ、バーカという思いを込めて笑う。一番蒼白になっているのが仲介に入ってきた男であることは若干謎が残る。何処かで見た顔だと思っていたが、そう言えば昔陰口を叩いていた男に似ている気がする。
(どうでもいいけどね)
アデレードは同級生の令嬢達の方へ振り返り、
「では、私は夫が待っておりますので行きますね。また、明後日の卒業式で」
とだけ告げて、とやかく引き留めてくる連中には一切応じずその場を後にした。
歩みを進めるごとに、あんなに我慢してきたことが、こんな雑魚すぎる結果で馬鹿馬鹿しくなった。怒りなのか呆れなのか後悔なのか、気持ちが高揚する。このままサロンへ行ったら誰彼構わず喧嘩を売ってしまいそうなので一端頭を冷やすため、サロンを通り過ぎ外廊下の方へ向かった。人気の少ない場所に女性一人は危険が伴うので、端まで歩いてすぐに引き返そう、と何処か冷静に考えながら。それにあまり遅くなると、自分を休ませるために「手洗いに行く」と嘘を吐いたペイトンが探し回りそうだから。
(あの人、異常に心配症なところあるのよね)
想像できすぎて笑えてくる。くさくさした気持ちが波のように引いていく。
アデレードは、外廊下の曲がり角まで来ていたが、心配かけると申し訳ないので早く戻ろうと立ち止まり、くるっと方向を変えた。が、次の瞬間、後ろから強い衝撃を受けた。一瞬何が起こったか不明だったが、自分より前へよろめいていく女性の姿が目に飛び込んできて、曲がり角からきた人とぶつかったのだと理解できた。
「申し訳ございません!」
謝罪の言葉が耳に入る。
「いえ、大丈夫です。私もぼうっとしておりましたので。貴女こそお怪我は?」
アデレードはちょっとよろけた程度だったが、相手はかなり前の方へ蹴躓いている。廊下を走ってきたのではないだろうか。夜会で走る令嬢なんてあまり見掛けないが、とアデレードは相手の顔を確認する。
「あ、アデレード様……」
「え」
アデレードは思わず声を発した息を呑んだ。名前を呼ばれたことに驚いたわけじゃない。眼前にいるのが、ある意味レイモンドよりも会いたくなかった人物、メイジー・フランツだったからだ。
一人でこんな場所で何をしているのか。レイモンドと一緒ではないのか。色々頭に浮かんだが、アデレードの口から出てきたのは、
「お久しぶりですね」
という、なんとも卒のない挨拶だった。元々親しくないから、レイモンドのことを除けば話すことがなくて、それを無意識に避けた結果だ。
(よりによってこんなところで会うなんて)
最後にメイジーと話したのは、ルグランでブチ切れて席を立った後、レイモンドと仲直りするよう説得に来た時だったはず。
―― レイモンド様はわたしを喜ばせる為に、お店に連れて行ってくれたんです! 悪いのはわたしなんです! レイモンド様を責めないでください。
――ずっと仲の良かった幼馴染と喧嘩したままじゃ勉強にも身が入らないみたいなんです。特進科の試験も近いのに……わたし、申し訳なくて……レイモンド様は君のせいじゃないってそればっかり仰るし……どうかレイモンド様と仲直りしてください。お願いします。
などと宣った。自分とレイモンドの輝かしい未来の邪魔をしないで、という意味に聞こえたし、実際そう言ったのだろう。嫌らしい女だな、と思ったけれど、アデレードはその時既にバリバラへ行くことを腹に決めていたので反論はしなかった。
「ご帰国されていたのですね。ご結婚されたとか? おめでとうございます。凄く意外でした」
デジャビュだろうか。さっき嫌味の応酬をしてきた令嬢達が脳裏に蘇る。しかし、メイジーはあの令嬢達とは違い自虐的な言動を取りつつマウントを取るタイプだから違和を感じた。いつもならこんな発言はしない。なんだか機嫌が悪いように見える。だからといって当たり散らされる謂れなど微塵もないのだが。
「えぇ、よい縁に恵まれましたので。メイジー様は試験いかがでした?」
メイジーの眉がぴくりと動いてきゅっと唇が結ばれた。
(え、駄目だったの?)
嫌がらせのつもりはなかった。試験のことを聞かないのは逆に不自然だと思った。メイジーのことは嫌いだが、努力していたことは知っている。その結果が振るわなかったことに対して喜ぶほど人間性は落ちぶれていない。アデレードは不用意な発言に後悔したが、
「でも、リコッタ小父様に口利きして頂き就職は決まりました」
とメイジーは答えた。
「リコッタ商会にですか?」
だったら、最初からそうすれば多忙なレイモンドの時間を割いて試験勉強などする必要はなかったのでは? とまた余計なことが浮かぶ。
「……小父様のところで働かせて頂いても良かったのですけど、それだと甘えてしまいますから。職業婦人としてきちんと外で働きたいと思ったんです。レイモンド様も、最初は心配して引き止めてくださったのですが、今はわたしの思いを汲んで応援してくれています。このドレスも卒業祝いに贈ってくださったのですよ」
さっきとは打って変わりメイジーはぺらぺら喋り始めた。この期に及んでマウントを取ってくることにイラッとする。
「卒業祝いなら卒業式に着た方が良かったのではないですか? まぁ、私には関係ないですけど。進路が決まって良かったですね」
嫌味の一つも言いたくなってつまらない難癖をつけてしまった。レイモンドのことは聞きたくないし、メイジーのことも正直どうでも良い。何よりこのままここにいたらレイモンドがメイジーを捜しにくるのではないか、と胸がざらついた。三人で鉢合わせなど地獄すぎる。
「では、夫が待っておりますので、」
「結婚生活はいかがですか?」
さっさと去ろうとするアデレードの言葉に被せてメイジーは尋ねてきた。そんなことに興味ある? とアデレードは逆に聞きたかったが、
「楽しいですよ。旦那様も良い方なので」
と無難に返した。
「白い結婚なんですよね? お相手の侯爵様は女性嫌いで有名な方だとか。事業提携のための結婚だって、皆が噂していましたよ」
メイジーが「全部お見通し」と言わんばかりに言う。顔は笑っていない。あくまで自分は聞いただけスタンスを取っている。メイジー自身の発言ではないから怒りの矛先を向けにくい。上手いやり口だと思う。こんなタイプには感情を顕にしたら負ける。
「噂でしょう? 事実とは違います。私のこのドレスもプレゼントなんですよ。旦那様が仕立ててくださいました」
「……そうなんですね。大切にされていらして、バルモア侯爵様もさぞや安心でしょうね」
お前の夫はただ体裁を気にして贈り物をしているだけ、と言外で告げている。微妙なラインの嫌らしい言い回し。何故、突っかかってくるのか。メイジーを恨んでも恨まれる心当たりがない。レイモンドにまたちょっかいを出されては困る、と牽制しているのだろうか。だったら今の結婚が上手くいっている方がよいだろうに。
(本当になんなの?)
アデレードは怒りより、得体の知れない気味悪さを感じた。
「えぇ、家族皆が喜んでくれています。では、私は時間がないのでもう行きますね」
「貴方はいいですよね。侯爵家に生まれたというだけで何の努力もなく遊んで暮らせて。おまけにレイモンド様がダメなら今度は他国の侯爵家にあっさり嫁いで」
アデレードが立ち去る宣言をするとまた被せるようにメイジーは言った。
「は?」
これまでと違い露骨な表現にアデレードから低い声が漏れる。涼しい顔から一転したアデレードの険しい表情に、メイジーは満足したみたいな笑みを浮かべた。
「気分を害したなら謝ります。でも、わたしは事実を言っているだけですよ。アデレード様がバルモア家の人間じゃなかったら相手にもされていないでしょ。自惚れない方がよいと言う忠告です。わたしは親切でお伝えしたんです。皆、遠慮して言えないでしょうから」
物は言いよう。しかし、これはどう考えても無理がある。隠しきれない悪意が前面に出てきている。それでも以前の自分ならぐっと耐えたに違いない。でも、今は違う。
「調子に乗るな」
アデレードの冷徹な声音にメイジーの笑顔は消えた。
「べ、別に、調子になんて……」
「たかが男爵令嬢が私に口答えするつもり? 今すぐ膝をついて謝罪しなさい」
膝をつくのは罪人の謝罪のやり方で、一般市民でもやらない屈辱的な行為だ。自分でも思う以上にすらすら言葉が出ることに驚く。無意識にいつか言ってやろうと考えていたのかもしれない。どいつもこいつもこれまで反撃されなかったから、言いたいことを言ってくれる。つけあがらせた自分の落ち度だと思った。
「膝をつけなんて……ひどいわ。友達だと思っていたのに……!」
メイジーの悲劇のヒロインぶる態度にアデレードは吹き出しそうになるのを耐えた。
「友達じゃないでしょ。御託はいいから早く床に伏して謝罪しなさい」
「こ、こんなことレイモンド様が知ったらなんと仰るか」
メイジーの台詞にアデレードはハッとした。そして、目の前の霧が晴れたように不思議な心地になった。メイジーに対しては不快極まりないが、以前のような気持ちではなかった。あの手先が冷たくなる感覚も、唇が縫い合わされて喋れなくなる硬直感も全く襲ってこない。怖くない、と思った。そして同時に、あぁ、私は怖かったのか、とすとんと腑に落ちた。そうか、そうか、私は怖かったんだ、と。
――レイモンド様はどう仰るかしら?
そう言われる度、心が冷えて怖かった。反論してもレイモンドは味方してくれない。助けてくれない。セシリアから庇ってくれた頃のレイモンドはいなくなってしまった。それを証明してしまうのが怖かった。ぼやけた何かが繋がって、世界が鮮明に見える気がした。ある種の感動にアデレードが沈黙していると、メイジーは言い淀んでいると都合よく解釈したらしい。
「レイモンド様は、アデレード様のそういう爵位を笠に着た態度を不快に感じていらしたんですよ。侯爵様だってきっと幻滅されると思います」
よい逃げ口上を得たとばかりにつらつら喋るメイジーにアデレードは笑いが込み上げてきた。だって、と。だって、
「レイモンドは知らないけど、私の旦那様は別に幻滅しないと思いますよ」
「え?」
「だから、しないって」
「そ、それはただ我慢しているだけで……白い結婚が終わったら切れる関係ですもの。波風立てたくないだけです。内心はどう思っていらっしゃるか。わたしは、友達として忠告してあげているんですよ! 侯爵様が離縁した後もアデレード様を助けてくれますか? くれませんよね。だから、友達は大事にしないと、」
「助けるよ」
(え?)
アデレードは背後に突然人がいたことに対する驚きで、飛び上がって振り向いた。見知った人物ではあるがその表情は知らない。ペイトンが高圧的にメイジーを見下げている。
(なんで?)
タイミングが良すぎる。緊迫した空気なのに、ますます妙な笑いが湧き上がってくる。笑ったらまずい場面ほど笑ってしまうやつ。目が合うとペイトンは冷たい表情から一転して呆れきった顔をした。
「君、何をへらへら笑っているんだ。本当に頼りないな。がつんと言ってやるんじゃないのか。のほほんとし過ぎだ」
ペイトンがつかつか隣まで歩いて来る。私は何を怒られているのか。別にのほほんとなどしていない。今まさに謝罪を要求しているところだった。ペイトンは何処から聞いていたのか。邪魔をしといて理不尽ではないか。アデレードは反論しようとしたが、先にペイトンが再びメイジーに視線を移して言った。
「随分勝手な発言をしてくれるな。君は僕の何を知って、どういう根拠で僕の妻に無礼を働くんだ?」
「ちが……わたしはそんなつもりじゃ……わたしはアデレード様を心配して……」
「ならば、その心配は無用だ。白い結婚が終わっても僕は何かあればいつでも彼女を助けに来る。君に僕が彼女をどう思っているかなど詮索される謂れもない」
「こ、侯爵様はアデレード様がノイスタインでどういう評価を受けていたか知らないからそう仰るんです。彼女は侯爵様の思っているような人ではありません。皆、迷惑してたんです。今だって私に膝をついて謝罪しろと脅してきて……」
大きな目を潤ませて、か弱げに言う。心配だから忠告した、という体裁はどうしたのか。ペイトンが最初から全部聞いている可能性だって十分にあると思うが、面の皮が厚すぎる。
「それで?」
「え」
「評判か。権力を笠に着てリコッタ家の子息に言い寄っている、だったか? で、だからなんだ?」
ペイトンの威圧的な態度に場が凍りつく。胃が痛くなるような沈黙が落ちる。
「わたし、なにもしていないのに……!」
それでも大嘘を言い返すメイジーにはある意味脱帽する。ペイトンが乾いた笑い声を上げたことで全て立ち消えたが。
「侯爵家の人間だから優遇されてずるいのだろう? その優遇される侯爵家の人間に舐めた口を利いたら罰されるのは当然だ。何の矛盾もない」
笑ったままで嬉々として述べるペイトンが見知らぬ人間に見えた。庇われているのに何故か一緒に非難されている気持ちになるほど、凍てついた雰囲気が充満している。
「僕は加虐趣味はないし、女性に手を上げる外道でもないが、お前は既に一線を越えている。今すぐ膝をついてアデレードに謝罪しろ」
流石長年女嫌いを貫いてきたことはある、と妙な感心をしてしまう。ぐっと喉を詰まらせて泣き出しそうなメイジーにペイトンが怯む様子はない。まともな紳士なら気の毒がって多分許してしまうのではないか。
(私も助けたりなんてしないわよ)
アデレードはぎゅっと拳を握って強く思った。喧嘩を売ってきたのはメイジー・フランツだ。私は悪くない。関係ない。自業自得。人気のない場所で謝罪するだけで許されるならお釣りがくるんじゃないか。どうせ心から謝ったりしない形だけの謝罪だ。ならばせめてとっとと膝をつけ、と思うがメイジーは一向に動く気配がない。
(この期に及んで強情を張るつもり?)
ドレスがちょっと汚れるだけのこと。人がくる前にちゃちゃっと終わらせた方がよいだろうに、とアデレードは冷めて思ったが、
(ドレス……)
メイジーの苦悶の表情と棒立ちのまま硬直した姿が目に映る。メイジーによく似合う淡い桃色。腰で切り返しがあるデザイン。卒業祝いの贈り物だと自慢げに語ったドレス。卒業式は明後日なのに何故今日着てきたのか……とそこまで考えて、
(あぁ……)
と思った。アデレードは嫌な動悸がして、
「もういいです」
と次の瞬間唇がほとんど無意識に動いていた。
「君、何を言っているんだ?」
ペイトンが鋭い視線のままこちらを向く。
「ドレスが汚れるから、もういいです」
「は? そんなことはどうでもいいだろ」
「そのドレスが着られなくなったら困るんでしょ?」
アデレードはメイジーを見つめた。「それしか持ってないから」とまでは言わなかった。でも、メイジーは察したのだろう。顔が真っ赤に染まる。確かに自分は恵まれている。メイジーが欲しいものを持っている。卒業式のプレゼントなら卒業式に着ればいいのに、と簡単に言ってしまえるほど。他のを着ればよいのに、と。
(でも、私を攻撃して良い免罪符にはならないわ)
高位貴族に楯突いて無事で済むはずがない。だから、膝をついて謝罪してドレスが汚れても仕方ない。ただ「可哀想に」と思ってしまった。メイジーからこのドレスを奪っても仕方ないんじゃないか、と。ここで跪かせることに意味があるかな、と。侯爵令嬢らしく毅然と振舞うように教えられた。でも、これは侯爵令嬢らしい行動だろうか。このまま膝を折らせてもざまーみろとは思わない。対等に思っていないから。遥か下に見ている。確かに自分は酷い人間かもしれない。これは優しさではなく施しだ。でも、
「もういいから、行きなさい」
アデレードは続けて言った。メイジーはせわしなく腰のリボンに触れながら目を泳がせている。唇を強く結んでいたが瞳からポロッと涙が落ちた瞬間意を決したように、
「……っも、申し訳ありませんでした」
と震える声で言って走り去った。ヒールの音が不気味なくらい響く。泣いていた。多分、本当の涙だ。アデレードは黙ってメイジーの後ろ姿を見つめた。善人ぶる気はないが後味は悪い。
「君は口先ばかりで本当に全然やり返さないな」
ペイトンのため息交じりの声に顔を向ける。
「……途中で虚しくなったんです」
「そんなんだから舐められるんだ」
「さっきはちゃんとやりました」
「さっき?」
ペイトンの顔色がまた怒りに染まる。
「何故一日に何度も絡まれるんだ。普通の侯爵夫人はそんなに絡まれたりしないだろ」
普通の侯爵夫人、という聞きなれない単語にふふっとアデレードが笑うとペイトンは益々顔を顰めた。
「何笑っているんだ」
「すみません」
「別に、謝ることでは……」
「じゃあ、次はもっとちゃんとやります」
「へなちょこだから心配だ」
「へなちょこ……」
失礼すぎないか。ここぞとばかりに悪口を言われている気がしてならない。しかし、扱き下ろされた自分よりペイトンの方が苦い顔をしていることにアデレードは笑った。
「でも、大丈夫ですよ」
「何が」
「だって旦那様がずっと助けに来てくれるんでしょ?」
「……それは……そうだが」
「次からは私を愚弄したらペイトン・フォアードが黙ってないぞって言いますね」
「あぁ、そうしてくれ」
「私が八十歳になってもですよ」
「はち……君、そんな年になってまで喧嘩するつもりなのか」
「生涯現役なんで」
「僕は真面目な話をしているんだぞ」
「私も真面目に話してます」
アデレードは笑顔を殺してすんっとした表情を作ろうと試みたが、笑いが溢れてくるので非常に微妙な顔になった。ペイトンが諦めたように息を吐く。
「君が八十なら、僕は八十五なんだが……」
「はい。頑張ってください」
「……まぁ、いいが」
ペイトンはぼそぼそ言って、
「それより、さっきの女は本当に貴族なのか? 礼儀がなってなさすぎるだろ」
と話を戻した。
「彼女は特別なんです。レイモンドの恋人ですから」
「え、そんなはずないだろ……」
ペイトンが目を開いて絶句する。そこまで驚くことだろうか。
「嘘なんか吐きませんよ」
「だったら、」
「なんですか」
「いや……」
「なんですか? 気になるから言ってください」
「本当になんでもない。すまない」
「ふーん。別にいいですけど」
「……すまない」
「そんなに謝られても」
何もペイトンのせいじゃないだろうに、謝罪する意味がわからない。レイモンドのことを語らせてしまったと詫びているのだろうか。別にいいのに、とアデレードは思った。だって、
「本当にもう大丈夫なんで」
とアデレードは繰り返した。メイジーがレイモンドの恋人だと口にしても何も感じなかった。燻っていた気持ちが魔法みたいに溶けて何処かへ飛んでいった。ペイトンがずっと味方でいてくれるからもういいか、と思った。さっき迷うことなくペイトンを信じてよかったな、とも。たとえそれがただのリップサービスでも、今日味方してくれたことは事実だから、と。
「喉乾いたからサロンに行きましょう」
アデレードは今自分がどういう顔をしているか不安で、見えないようにペイトンの前を歩き始めた。だから、当然ペイトンの表情も見なかった。ペイトンが本当は何を謝っているのか追及することはなかったし、何に罪悪感を抱いているか知るよしもなかった。




