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 昔からダンスの練習は好きだった。理由はわからない。恐らく単純に音楽に合わせて身体を動かすのが面白かったからだろう。しかし、舞踏会で踊ることは苦痛だった。何故男女ペアで踊る必要があるのか。さりとて別に男と踊りたいわけでもなかったが。


「下を向いたら駄目だろう? ほら、顔を上げて前を見て」


 だが、今日は違う。初めてこの人と踊りたいと思った。そして、今踊らなければもう機会がないのでは? と強い衝動に駆られて、柄にもなくダンスの申し込みをした。これは白い結婚で、アデレードは自由奔放な性格に見せて、案外周囲の目を気にするから、嫌でも一曲くらい踊ってくれるだろうという打算もあった。


「先生みたいなこと言いますね」


 足元をちらちら気にしていたアデレードは注意を受けて顔を上げた。へらへら笑っている。踊っているのは基礎的な振り付けで弧を描くステップを繰り返すもの。接近するたびアデレードの鼻先がペイトンの肩に触れる。


「旦那様っていい匂いしますよね」

「え?」


 以前踊った女性にも同じことを言われたことがある。同種の香水をつけても体臭と混ざって皆が同じ匂いになるわけではない。匂いが好きというのは本能的に相性がよいのだ、と語られてゾッとした。こっちは貴女の臭いなど一つも好きではない、という失言をしなかったことは褒めたい記憶だ。だが、今はその言葉を思い出して真逆の気持ちになっている。現金なものだと思う。


「なんの香水なんですか?」

「無花果だ」

「イチジク? 果物の?」

「うちの領地の名産なんだよ」

「香水も領地で作っているんですか?」

「あぁ、そうだ」


 フォアード家の領地までは王都から馬車で三日掛かる。ペイトンは、毎年八月の初めにイチジクの収穫祭には訪れている。


「今年の収穫祭には君も領地に見に来るといい」


 まだ、その時は夫婦でいるはずだから、という余計な言葉は呑み込んだ。


「いいんですか?」


 アデレードがはしゃいで言う。


「君が来たければ」

「行きたいです」

「そうか」


 無邪気に笑うのはやめて欲しい。可愛いと思う感情が止められなくなるから。


(……僕は何考えているんだ)


 七月前、アデレードと出会った日の自分が知ったら卒倒ものだ。


――好きこそものの上手なれといいますし、愛しているふりをし続ければそのうち本当に愛せるようになるかもわかりませんよ?


 あの日、アデレードがとうとうと語ったことを思い出す。本当に愛されたら困るくせに、よく言う。「もしそうなったら君はどうするんだ?」と聞いといてやればよかった、と意地の悪いことが浮かんでペイトンは苦い笑いを漏らした。


「なんですか? 私のダンス変ですか?」


 それをどう解釈したのかアデレードが不安げな顔をする。


(何故こんなに自信がないんだ)


 ダンスは下手だと言ったが基礎はちゃんと出来ている。リードもしやすい。高位貴族の娘ともなれば初等教育として学ぶのが通常だ。三つ子の魂百までよろしく、体に染み付いているのだろう。大体、話す余裕がある時点で人並み以上に踊れる証拠だ。苦手意識があるのは嫌な記憶があるからではないか。そして、その記憶の中にいるのは誰か。


(レイモンド・リコッタか……)


 昨日、ノアとキリアンの口から名前が出て以来、払っても払っても頭の隅から消えない。見ないふり知らないふりでやり過ごしたいのにどうしたって影がちらつく。つまらん男、下らん男、酷いだけの男なら良かった。でも、多分そうじゃない。ノアとキリアンが慕うくらいに。


(やめよう)


 ペイトンは、慈しむようにアデレードを見つめた。


「いや、上手だよ」

「いや、上手くはないでしょ」


 途端にムッした表情が返ってくる。褒めているのになんでだよ、と理不尽な返答にもつい口元が緩んでしまう。


「上手いよ。足も全然踏まれていない」


 ペイトンが言うと、


「次の曲で踏みます。わざとじゃないですけど」


 アデレードがにやついて答える。碌でもないなと思う。碌でもないが「そうか、もう一曲踊ってくれるのか」と考える自分も相当おかしい。だから、自分達はお似合いだ。残りの契約期間くらいそう思うくことは許されたい。


「わざとじゃないなら仕方ない」

「はい、上手くやりますね」

「どっちの意味で?」


 尋ねるとアデレードは笑った。

 しかし、口では下手下手と言いながら、二曲目のレベルを上げた振り付けにもアデレードは難なくついてきた。三曲は体力的にきついと思い休憩を促すが、


「若いので大丈夫ですよ」


 と五歳年上の自分に当てつけたような小憎たらしい返事が返り、結局、次曲もその次も連続で踊り続けた。ダンスは「普通」なんじゃないのか。どういう心境の変化で三曲も四曲も踊る気になったのか謎すぎる。だが、四曲目の後半から流石に疲れが見え始めて、


「手洗いに行くから、一旦休憩させてくれ」


 とペイトンから休憩を告げると、アデレードは素直に従い漸くフロアを下りた。


「じゃあ、少し待っていてくれ」


 手洗いへ行くと嘘を言った手前、その場に留まることもできずにペイトンが伝えると、


「私も化粧室に行ってきます。喉渇いたので帰ってきたらサロンへ行ってますね」


 アデレードは飄々と答えた。


「……君、一人でうろうろして大丈夫なのか」


 できればこのまま人目のあるこの場所で待っていてもらいたい。


「大丈夫ですよ。そこら中に警備の人がいるんで」

「警備の人は不審者から守ってくれても、令嬢同士の諍いからは守ってくれないだろう」


 心配するペイトンの言葉に、一瞬真面目な顔になったアデレードだが、すぐまたにやついた表情に変わった。


「それは望むところなんで」


 拳をぐっと握りしめるポーズを取る。だから余計に不安なんだ、とペイトンは思ったが化粧室へついて行くわけにはいかない。


「男性用の化粧室はあっちですよ」


 アデレードに指し示され、後ろ髪を引かれる思いでペイトンは用もないのに厠へ向かった。

 道すがらバルモア侯爵から紹介された人間に出会す度に軽く会話する。義父の顔を潰すわけにはいかず愛想よく振舞ったため結構な時間を食ってしまった。


(というか別に用もないのだし、このまま引き返せばいいか)


 馬鹿正直に手洗い場へ向かっている自分に笑いが込み上げてくる。


(早く戻ろう)


 また誰かに捕まったらかなわないので人気のないルートを選んで帰ろうと外へ出た。感覚的に多少大回りになるが建物を囲う外廊下を使用するのが良さそうだと踏んだ。室内から漏れ出ている光源を頼りに薄暗い廊下を進む。


「ねぇ、折角来たんだし、一曲くらい踊りましょうよ」

「すまないが、そんな気分じゃないんだ。君は楽しんできたらいい」

「そんなこと言わないで。ね? 一曲だけ! お願い」

「悪いが俺は帰るよ」


 ふいに曲がり角の先から若い男女の声が聞こえた。しかし、速足でがんがん歩いていたペイトンは急には止まれず、男性の背中と女性の顔がちらっと見える位置まで歩み出てしまった。幸いすぐに引き返したため相手はこちらに気づいていない様子だ。会話は中断せず進んでいる。


「じゃあ、どうしてダンスフロアに来たの?」

「君には関係のないことだ」


 こんな人気のない場所で逢瀬でもしているのかと思えば、どうも毛色が違う。女性は甘えるような声音だが、男性からは怒鳴りこそしていないものの苛つきが感じ取れる。尤も、ペイトンはどちらかと言えば男性に加勢したい気持ちでいた。最初の拒否の時点で男はそこまで険悪な態度ではなかった。柔らかく断っているのに引かない女がマナー違反だ。一瞬見ただけだが女性は可愛らしい容姿をしていたので、多分自分に自信があるのだろう。一番厄介なタイプだとペイトンは思った。


「まだ、あの人のこと気にしているの? 向こうは貴方のことなんてとっくに忘れているみたいだったけど。ねぇ、もういいじゃない。私達も楽しみましょうよ」

「いい加減にしてくれないか。俺は君と何かを楽しみたいとは思っていない。踊りたいなら一人で好きにしてくれ」

「そんな言い方、酷いわ」

「酷い? 君に対する俺の役割は終わっている。感謝されても酷いと罵られる謂れはない。勘違いしないで欲しい。迷惑なんだ」


 ど修羅場じゃないか、とペイトンは息を潜めた。男女の睦み合う場面に遭遇するのは気まずいが、これはこれでばつが悪い。コツコツヒールの音がするから女の方は走り去ったらしい。こっちに来なくて良かったと安堵する。しかし、男の方はまだその場で待機している。


(まいったな。今更引き返しても時間を食うだけだしな。少し待つか)


 素知らぬ顔で男の隣をすり抜けよう、とペイトンはしばしの時間潰しに建物を背にして寄りかかり、なんとなく空を見上げるが、予想に反し男が勢いよくこちらへやって来た。ペイトンはどう見ても「ずっとここにいました」という体勢を取ってしまっている。目が合うと、室内からの光に照らされた男の顔がみるみる強張った。

 スラッとした線の細い美丈夫。年は十代後半くらいか。モテるだろうことは一目瞭然にわかる。気の毒なほど狼狽えているのでペイトンは申し訳なくなった。据え膳食わぬは男の恥、ではないが女性からのダンスの申し出を断ると非難されるケースは多い。減るもんじゃないし一曲くらい踊ってやれ、とペイトンも見ず知らずの人間にいらぬ説教を受けたことがある。


「大変だったね」


 自分はそっち側の人間ではないアピールのため、ペイトンは苦笑いで告げた。しかし、青年は硬直したまま動かない。


(まぁ、他人に見られたい場面じゃないからな)


 自分がいたら気づまりだろう、早く去ってやるのが優しさだとペイトンは感じた。


「では、良い夜を」


 ペイトンはすれ違いざまに儀礼的にそう言って足早にアデレードの待つサロンへ向かった。青年がどんな表情で自分の背中を見ているかは、微塵も興味がなかったし、気づくこともなかった。


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