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「同行してくれて有難うございます。卒業式には出席する気がなかったので、結局出席することになるならもっと早く伝えればよかったですね。そしたら仕事の都合もつけやすかったのに、すみません」
ノイスタイン行の汽車の中、この二週間ほど職場から帰宅するのが遅かったことを気遣ったのかアデレードは謝罪と謝辞を述べた。
「いや、全く問題ない」
ペイトンは触れられたくない話題のようにそっけなく答えた。確かに仕事の調整で忙しくはしていたものの、毎晩帰宅が遅くなっていたことには他に原因があったのだ。
「どうかしたんですか?」
ペイトンは冷静を装っているつもりでいたが、アデレードはそわそわしているペイトンの仕草を敏感に感じとった。フォアード侯爵が手配した汽車のチケットは個室の一等席で、座席が向かい合って配置されているためお互いの様子は嫌でも目につく。
「いや、問題ない。それより君、腹は減っていないか。食堂車があるらしいぞ」
ペイトンは話題を変えようとしたが、アデレードはますます眉を寄せた。
「お腹は空いていないです。なんですか。挙動が不審ですけど。仕事終わらなかったんですか? 問題あるならはっきり言ってください」
「いや、本当に仕事は問題ない」
「じゃあ、何が問題なんですか?」
ペイトンは口篭った。しかし、アデレードが黙って回答を待っているため観念して、
「……いろいろあるだろ、挨拶とか」
とぼそぼそ言った。
「挨拶?」
「君の両親に結婚の挨拶とかあるだろ」
「え、そんな気負う必要ないでしょ。別に結婚の許可をもらいにいくわけでもないのだし」
「そういう問題じゃない」
結婚前の会食を再三拒否している。どの面下げて対面すればよいのか、ここのところのペイトンの最大の悩みだった。バルモア家の人間に顰蹙を買っても構わない強気な姿勢を貫いていたが、常識的に考えて非常識すぎる行為だ。どう汚名を返上すればよいのか見当もつかない。ジェームスに相談してみたが、
「なんていうか、あれですね。自業自得すぎてどうにも。今後は礼儀正しく振る舞ってくださいとしか」
と何の役にも立たない助言を受けた。過去の愚行を帳消しにできる魔法の言葉などないことはわかっているが、藁にもすがる思いで悩みを打ち明けたのに薄情すぎやしないか。
「……まぁ、バーサからの情報では奥様は旦那様からの暴言と契約のことはご家族に秘密にされているそうです。割とよい風に伝えてくださっているみたいですよ。旦那様を庇ってというわけではなく、あくまで奥様自身がご家族に心配かけたくないからという理由でしょうけれど」
ペイトンが押し黙ったことに同情してかジェームスは付け加えた。旦那様を庇ってではなく云々は言わなくてよいのでは? とペイトンは苦く思った。
(別に勘違いなんてしない。彼女に嫌われていることはもう十分にわかっているんだから)
今となっては初対面のあの時、元々一ミリも好かれていなかったくせに「振ってやらねば」と意気込んで乗り込んで行ったことは悶絶したい記憶だ。アデレードが、レイモンド・リコッタから逃げるために嫁いで来たことは嫌なくらい理解した。
(いや、しかし、それで急に隣国まで嫁いでくる決断するか?)
今更ながら改めてアデレードの行動力には舌を巻く。後先考えずというか、向こうみずというか、世間知らずのお嬢様というか。アデレードは、恐らくかなり甘やかされて育っている。レイモンド・リコッタ絡みのことで周囲からの誹謗中傷に黙って耐えたのが奇跡であるくらいに。だって、
(どう贔屓目に見ても我儘だろ)
ペイトンが以前読み漁っていたロマンス小説にも冷遇されるヒロインはいた。理不尽な境遇により卑屈な性格になっているヒロインが、ヒーローとの出会いにより自己肯定感を取り戻し、凛として不条理に立ち向かうという内容だった。しかし、アデレードは出会った時から「やられたらやり返してやるんだ」スタイルを貫いているし、実行している。逃げてくる必要があったのか甚だ疑問に思うほど。裏を返せばそのアデレードが黙って耐えていた分、余計にきついとも言える。
(……好きなんだろうな)
多分、今も。バリバラへ来て七月も経つが思い出してあんなに泣くくらい。ペイトンはきゅうっと胸が締めあげられる思いがした。不快感とは違う。至極個人的なひどく幼稚な「嫌だ」という感情で。
「大丈夫ですよ。旦那様の女性嫌いはうちの家族は全員知っていますので、今更とやかく言わないです」
汽車の走行音だけが聞こえる一瞬より長い間が空いて、パチリと目が合うとアデレードは、へらへら笑った。嫌味で言っていないことはわかるが、なんとも形容しがたい気持ちになる。
「それにバーサが旦那様のことを褒めていると思いますよ。なんかわからないけど旦那様の味方なんで。後、凄い量のお土産も持たせてくれたし」
(なんかわからないけど……)
微妙に引っ掛かる言い回しにペイトンはますます閉口した。
バーサには、大量の贈答品と共に一足先に馬車で帰国してもらった。毎晩遅くまで考えたペイトンの義実家への心証を良くするための苦肉の策だ。考えあぐねて、至る所の繋がりを駆使して、バリバラ産のシルクの織物や年代物のワインや葉巻や時計、万年筆、櫛なんかの贈り物としてありきたりだが入手困難な人気の高級品を集めた。本当はもっと個人の嗜好に合った品を贈りたかったが、アデレードに尋ねてみるも、
「そうですねぇ。皆甘党だからお菓子が好きです」
という子供みたいな回答が返った。つまりは、土産なんていらないという意味なのだろうが、こっちの立場的にそうはいかない。そもそもアデレードは持参金を用意してきたのに、こちらは結納金を渡していない。流石に父親が代わりに何かはやったようだが、ペイトン自身は持参金を全額アデレードに返すつもりでいたため、父のしたことすら無駄金だと思っていた。今となっては叫びたい感情しかない。形式に則ってちゃんとしていれば現在こんなに悩むこともなかった。ジェームズが自業自得だと匙を投げたのも致し方ない。その上、何故、のこのこアデレードの帰省についてきたのか。自分らしくない。ただ、あの時思ったのだ。このまま一人で帰したらアデレードはもう戻ってこないのではないか。それは駄目だろう。例え一年限りの結婚でも結婚は結婚。残り五月はまだ自分の元にいるべきだ。自分にはそれを主張する権利がある、と。
(僕は何を考えているんだ。いや、だが、契約は契約だろう)
きっちり書面も交わしているのだし自分の主張は何もおかしいことじゃない。ペイトンが言い訳めいて思っていると、
「前から聞きたいと思っていたんですけど、聞いてもいいですか?」
アデレードは急に真面目な顔で言った。ペイトンは聞かれたくないことがありすぎて返事にためらったが、アデレードはこちらの返答の是非に関わらず最初から質問する気だったらしく続けた。
「旦那様って、どういう結果を予想していたんですか?」
「え?」
「君を愛することはないから期待するなって言った後、私がどうすると思っていたんですか?」
ペイトンが躊躇していた「聞かれたくないこと」ではなかったが、これはこれで絶句する。
(こんなこと普通聞くか?)
ペイトンが呆気にとられていると更にアデレードは言った。
「だって、女性に泣かれたりしたら旦那様は耐えられないでしょ」
ペイトンは自分がそんな風に認識されていることが意外だった。やんわり拒絶するスキルを覚えたのは仕事を始めてからで、学生時代はかなりストレートな言葉で女性を拒絶していた。わざと傷つける言葉を放ったわけではなかったが、告白を断って泣かれたことが何度かある。迷惑だと思ったし、冷めた感情しか湧かなかった。だから、別に泣かれたからどうと言うこともない。あの日、怒っても、泣かれても、
「これは政略結婚です。別に貴方と愛し合いたいなど思っていません。自惚れるのも大概にされた方がよいのでは?」
と冷淡に鼻で笑われても結果は同じ。黙って部屋を出て、後はジェームスに丸投げして、それから一年間顔を合わせず生活したはずだ。でも、実際は違った。アデレードはペイトンの予想の範疇外のことを淡々と言ってのけた。だから、どうしようもない。その疑問を聞くならば、
「じゃあ、逆に聞くが君はもしあの日に戻ったとして違う行動をとるのか?」
こっちを先に考えるべきじゃないかとペイトンは思った。
「え? それはないです。むしろ絶対に同じこと言います」
アデレードが半笑いで答える。
「だったらこの議論は意味がなくないか? 僕が結婚したのは他の誰でもなく君なんだから」
「……ふうん」
つれない反応が返ったので機嫌を損ねてしまったのか、或いは仮定の話もできないつまらない奴と思われたのか、とペイトンは慌てた。
「何故そんなことを聞くんだ?」
「ざまーみろだなと思って」
「は?」
「思い通りにならなくて、ざまぁです」
アデレードはへらへら笑っている。気分を悪くしていたわけではないらしい。それは良かったが、なんて可愛げのないことを言う小娘なんだ、とペイトンは呆れた。
「別に僕はざまぁなんてされていない」
「強がらなくても大丈夫ですよ」
「君、ちょっと性格が悪いんじゃないか」
「私、自分の性格がいいなんて言ったことありました?」
飄々と悪びれる様子もなくアデレードは言う。これ、何を言っても駄目なやつじゃないか、とペイトンは早々に諦めることにした。
「じゃあ、もう、ざまぁでいいよ」
「えー、怒らないでくださいよ」
「怒ってなんかいないだろ」
「ふうん」
その「ふうん」というのは、ひやっとするからやめて欲しい。本当になんちゅう我儘な娘なのか。どうしろというのか。これはもう自分は怒ってよいのではないか。ペイトンはいろいろ思うところはあるものの声に出して抗議する気にはならなかった。へらへら笑っているアデレードを見ていると、泣いて暴れ回られるより遥かによいと感じてしまう。そのままずっと笑っていたらいいのに、と。
「わかりました。食堂車に行きましょう」
「どうして急にそうなる。君、空腹じゃないんだろ?」
「デザート食べますから。奢ってあげますよ。ざまぁされて気の毒なんで。機嫌直してくださいね」
それ自分がデザートを食べたいだけなんじゃないか。気まますぎる。だというのに、不思議なくらい不快にならない。
(思い通りにならなくて、ざまぁか……)
確かに自分はざまぁされたのかもしれない。「君を愛することはない。何も期待するな」とあの日声高らかにした宣言は見事に覆されたのだから。
「……そうか。じゃあ、奢ってもらうよ」
ざまぁされたのなら、アデレードの言うように気の毒なので奢ってもらってよいだろう、とペイトンは思った。
「任せてください。今お昼だからちょっと時間ずらして行った方が空いてますかね?」
「そうだな」
「一番高いメニューを注文してあげますね」
アデレードが上機嫌で答える。
「いいよそんなの。大体高いから美味いわけでもないだろ」
「それはそうですね。安くても美味しいものはありますし、好みの問題ですから。私はデザートは甘ければ甘いほどいいのですが、私の姉は甘さ控えめなのを好みます。信じられない」
「君の姉上からしたら君の方が信じられなんじゃないか」
「そんなことないですよ」
「そういうの二重規範って言うんだぞ」
ペイトンの反論にアデレードは「えー」と唇を尖らせた。それから話の文脈に沿わない接続詞をつけて、
「じゃあ、旦那様はありますか? 人が聞いたら信じられないと思う、何か変な好きな物」
と尋ねた。
(どんな質問なんだ)
ペイトンは困惑した。が、何か変な好きなものは、すぐに頭に浮かんだ。
「……ある」
「え、何が好きなんですか?」
「秘密だ」
「なんでですか。教えてくださいよ」
「駄目だ」
「えー、教えてくれないと、旦那様はよっぽど変な物が好きなんだと思いますけど」
「あぁ、僕はよっぽど変でおかしなものが好きなんだ。だから、秘密だ」
「いいですよ。わかりました。ゲテモノ好きなんですね。悪趣味ですね。ふーんだ」
アデレードが子供でも言わないような負け惜しみを口にするのでペイトンは笑ってしまった。これは君を困らせないための優しさなんだぞ、ということは言わないでおく。きっと、一生。
――旦那様も、碌でもない女を好きになれば分かります。
――好きになるなら優しく良識的な女性にするよ。
ふいに、いつぞやの会話が甦る。あれは勿忘草を観に行った帰りだったか。ペイトンは、眼前で「わかりました」と言ったくせに、まだぶつくさ文句を呟いているアデレードを見つめながら、あの観劇の夜のことを反芻した。
――好きな人には嫌われても好き。
アデレードの発言は、無茶苦茶なようで時折、妙に的を射ていることがある。ペイトンは、あの夜のことが今更ながらに納得いった。そして、思った。やはり自分は「思い通りにならなくてざまぁ」されている。あーあ、これが恋か、と。




