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ダミアンの破談はあっと言う間に社交界に広まった。概ねダミアンに同情的で、結果として良かったのではないか、という評価だった。一方、クリスタはダミアンとの接触を図ろうと躍起になっていたが、父親に謹慎処分を言い渡され、ダミアン自身も領地へ帰ったことで完全に絶縁となったらしい。今後クリスタにまともな縁談話がくることはないだろう。そして、友人が破局したからといって、自分の日常に変化が生じるわけもなく平穏に二週間が経過した。
「じゃあ、僕は出先から直接店へ向かうから」
「はい」
本日は、一昨日、国外出張から帰国したフォアード侯爵に食事へ招待されている。以前も連れて行ってもらったリリーエンだ。ペイトンは仕事のスケジュール上、直接店へ向かった方が早いというので別々に向かうことになった。
約束の時間通りに到着したアデレードはすぐに予約席へ案内された。既にフォアード侯爵は着席していた。アデレードの姿を見つけた第一声は、
「そのドレス着てきてくれたんだね。有難う」
とスマートなセリフだった。ドレスコードのある店なので、先日の園遊会用にフォアード侯爵が仕立ててくれたドレスを着てきた。
「はい。とても気に入っています。有難うございます」
フォアード侯爵が微笑む。この人が若くして妻に裏切られたきり後妻を娶らなかったのが謎すぎる、とアデレードは思った。きっと縁談は沢山きたはずだ。断った理由は、前妻に未練があるからか、心の傷が癒えないからか、或いは後妻との間に子供が生まれてペイトンとの跡目争いが勃発しては困るからか。三つ目が一番しっくりくるな、とアデレードは感じた。フォアード侯爵がペイトンを大事に思っているのは、会話の端々に見てとれるから。
アデレードは席に座ると、
「旦那様は、仕事で少し遅れるかもと仰ってました」
とペイトンからの伝言を告げた。「だから君も遅れて行くといい」と言われたことは伏せた。
「毎日ぶらぶらしている私が遅れていったら失礼ですよ」
「……いや、別に君が嫌でなければいいんだが」
という会話があった。義父と二人きりになるのは気まずかろう、というペイトンの配慮らしい。フォアード侯爵とは幼い頃から面識があるし、いらぬ心配すぎるのだがアデレードは「全然大丈夫ですよ」とだけ答えた。変なところで変な気を回す。しかし、バーサに話したら、
「嫁いびりする婚家はありますから。よい旦那様ですね」
と随分褒めていた。それは義父の為人によるのでは? フォアード侯爵はないでしょ、という感想しかなかった。アデレードがふつふつ思い返していると、
「あぁ、連絡は受けている。先に始めていようか」
フォアード侯爵はにこやかに答えた。やはりこの義父と「二人だから嫌」なんてことを感じる人はいない気がする。
「いえ、多分それほど遅くならないと思いますし」
「そうかい。気を遣わなくていいのに」
アデレードの返答にフォアード侯爵はまた笑った。それから、好きな飲み物を頼むように促され、おすすめというグルベール地方産のワインを頼んだ。甘くて口当たりがいい。飲酒する習慣はないが、このワインは異様に美味しく感じた。ただし、アルコール度数は高いらしくすぐにぽーっと酔いが回ってきた。
「アデレードちゃんが嫁いできてくれて七月が経つのかな?」
「……そうですね。もうそんなに経つんですね」
ふわふわして気分が良かった。思い返せば、初対面の日のことと自分が暴れた黒歴史を除けば、ずっと平穏無事に生活させてもらっている。自分は恵まれているとしみじみ感じた。
「アデレードちゃんが嫁いできてくれて本当に良かったよ」
「え?」
フォアード侯爵が優しく目を細める。アデレードはギクリとした。だって、自分は満足な生活をさせてもらっているが、ペイトンにとっては全くよい妻ではない。恐らく、というか絶対にペイトンにはもっとい結婚相手がいるはずだ。自分はペイトンが出した結婚の条件である「侯爵家以上の出自で、フォアード家と同等の資産家の娘」ということを満たしているだけで、ペイトンのために何かしてあげたことなど一つもない。条件をクリアできなくとも、もっとペイトンを真剣に愛してくれる令嬢と結婚していたら、最初こそペイトンは暴言を吐くだろうけれど、その後はその令嬢の誠実な愛情に気づいて上手くやっていく気がする。そしたら、一年経過する頃には本当の夫婦になれたのじゃないだろうか。
(だって、チョロいもの)
アデレードは、フォアード侯爵が純粋にこの結婚を喜んでいてくれることに心苦しくなった。自分の不純な結婚の動機に今更ながら罪悪感が募る。
「私は、旦那様にとって全然よい妻ではないですよ。旦那様なら、もっと他にいい方がいると思います」
言った後、もしかしてフォアード侯爵の発言はお世辞だったのかもしれないな、と思った。だとしたら間抜けな返答をしてしまった。
「いや、アデレードちゃんじゃなかったら、今日こんな風に食事に誘ってもあいつは了承しなかっただろう」
(そんなことはないと思うけど)
アデレードは否定の気持ちしかなかったが、反論するのも失礼なのではないか、と苦笑いして流した。タイミングよくペイトンが半個室の部屋に入って来たことにも救われた。
「君、酔っているのか。顔が赤いぞ。大丈夫なのか」
開口一番の面倒臭い発言も、フォアード侯爵の対応に困る会話より気が休まる。
「大丈夫です。顔に出やすいだけで、意識ははっきりしていますんで」
「……ならいいが」
とペイトンは隣の席に座った。夫婦が並んで座るのは自然な席順だが、フォアード侯爵から生温かい眼差しを感じてアデレードはまた微妙な気持ちになった。後五月で自分達の結婚は解消する。期待されても困る。その辺、実子のペイトンからしっかり言っておいて欲しいのだが。
「ほら、水を飲みなさい」
ペイトンは呑気に酔い覚ましの水をすすめてくる。
(まぁ、まだ五月あるし……)
アデレードは大人しくペイトンに従った。
フォアード侯爵の指示で、食事が開始する。美味しい料理に舌鼓を打ちつつ特に他愛もないなごやかに会話が続いたが、
「で、どうして急に呼びつけたりしたんだ?」
とメインの料理が運ばれてきたところで、ペイトンが唐突に斬りつけるようなことを言った。たまには一緒に食事でもどうだい? というノリの招待だと思っていたアデレードは目をしばたたかせた。
「なんだ。息子夫婦とたまに食事でも一緒にと思うのは普通のことだろう」
「じゃあ、何もないんだな」
ペイトンが更に詰め寄るとフォアード侯爵は観念したように隣席に置いていた鞄を漁った。
「これは、土産に」
テーブルの上に置かれたのはノイスタインの郷土菓子のルクラとアデレードが幼い頃から好んで食べているパティスリーのチョコレートだった。
「あれ、出張ってノイスタインに行ってらしたんですか?」
「そうなんだ。バルモア家にも挨拶に伺った」
「そうなんですね。それでこのチョコレートを? 懐かしいな。嬉しいです」
わーい、という素直な喜びからアデレードはお礼を伝えたが、ペイトンは冷静に、
「それで?」
と続けた。何か裏がある時の父親の言動を全部把握しているらしい。
「……まぁ、なんだ。アデレードちゃん、三週間後に卒業式が控えているそうじゃないか。エイダンがずっと帰国を促しているのに返事がないと嘆いていたよ。もしかして、ペイトンに遠慮して言い出しにくいのかと思ってね」
と言いながら、今度は胸の内ポケットから封筒を取り出した。鉄道局のマークがある。旅券であることは明白だ。
「これは私からの餞別だ。ペイトンと二人でノイスタインへ行って来るといい」
「え、そんな。申し訳ないです」
「こんなの安いものだよ。本当は卒業式用にドレスの一着でもと思ったが、エイダンが用意して待っているそうだから」
フォアード侯爵は軽妙に笑った。しまったな、とアデレードは思った。確かに再三卒業式に出るよう催促されていたが、無視し続けていたら最近は音沙汰がなくなった。だから、諦めたものと解釈していた。まさかこっち経由で手を回して来るとは夢にも考えていなかった。
「それにペイトンも、一度もバルモア家に挨拶に行っていないしな。丁度よい機会だ」
フォアード侯爵はうんうん頷きながら言った。非常に断りづらい状況になった。けれど、以前みたいに頑なに「卒業式には絶対出席しない」という拒絶感はなかった。レイモンドに会ってケジメをつけねばならないと腹を決めたせいだろう。卒業式には必ずレイモンドも出席する。わざわざ会いに行くよりハードルが低いのでは? とさえ思った。しかし、ペイトンを巻き込むのは申し訳ない。
「旦那様は仕事があるんじゃないですか?」
アデレードは黙ったままのペイトンに問いかけた。フォアード侯爵が父に頼まれたのは「娘が式に出席するよう説得して欲しい」ということで別にペイトンに挨拶に来いとは言っていないはずだ。
「出発は二週間後だ。それまでにどうにかできるだろ。卒業パーティーのエスコートは婚約者か恋人がするものだ。結婚しているなら尚のこと、お前が行かなくてどうする」
ペイトンが答える前にフォアード侯爵が言った。それは確かに正論なのだが距離が遠すぎる。白い結婚の自分達の場合なら「旦那は仕事で」と言えば体裁は保てる。好奇の視線は受けざるを得ないけれど。
(でも、お父様かお兄様にエスコートしてもらえば、ある程度は防げるわよね)
アデレードは一人で帰国することを念頭にあれこれ考え始めた。が、
「……君がよいなら僕は構わないが」
とペイトンが隣でぼそぼそ言った。意外な反応だ。パッと横を向くが、ペイトンはこちらを見ているようで見ていない。ただ、こちらの発言を待っているのはわかった。
「私は来て頂いた方が有難いです」
素直な本音がぼろっと漏れる。ペイトンが卒業式でエスコートしてくれたら馬鹿にされることは百パーセントない。
「そうか。分かった。じゃあ、段取りをつけるよ」
「よし。決まりだな」
すかさずフォアード公爵は間に入って満足げに笑った。
「チケット有難うございます。すみません。お気を遣わせてしまって」
アデレードは改めてフォアード侯爵に礼を述べたが、本当にペイトンはこれで良かったのか心配になった。ノイスタインに来てペイトンが得することは何もない。
「いやいや、礼をいうのはこっちだよ。アデレードちゃんが気にすることは何もない。これで愚息の不義理も少しは詫びれる」
フォアード侯爵はこちらの内心を見透かすように笑った。ちらっとペイトンを確認すると、今度はちゃんと目が合って、
「都合はつくから」
とだけ言った。
(本人もいいって言っているしいいのかな)
完全に父に外堀を埋められた、とアデレードは思った。
かくして唐突にノイスタインへの帰国が決まった。




