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▽▽▽
――もういいじゃないか。アデレードも反省しているんだし。
――お父様がそうやって甘やかすから、この子は泣けばどうにかなると思っているんです。あんた! そんなんでいいと思ってんの!
――まぁ、まぁ、後は私が話をするから。
幼い頃、アデレードは姉に怒られると父親の元へ走った。父なら自分を庇って一緒に謝ってくれるから。誰が一番自分を甘やかしてくれるかよく知っていた。非常に碌でもない子供。どうして急にこんなことを思い出したのか。多分ごつごつした手の感触が父を想起させた。抱きしめられる感覚も。
「アデレード、すまない。……本当にすまない」
だから、ペイトンの突然の謝罪に、
「なんで謝るんですか」
と返したのは何処か甘えた意識があったから。
食事中に泣き出して迷惑掛けている分際で、この言い草はないだろう。アデレードは、自分で自分を人でなしだと思いながら、撤回も訂正も謝罪もせず、ペイトンの肩越しに滲んだ世界を見つめた。
「僕が全部悪かったんだ」
予想通りペイトンは怒ったりしなかった。こっちの甘えた思考を増長させるとも知らずに。
「だから、何が」
「君が嫁いできた日、礼を失した発言をした」
アデレードは「あぁ」と思った。それ今謝罪してくるの、別にいらないんだけど、その代わりにペイトンには不平等な契約を結ばせたのだから。
「……気にしてませんので」
「そんなわけないだろ。傷ついていた君を僕は更に傷つけたんだ」
アデレードはイラッとした。別にペイトンに傷つけられてなどいない。謝ってほしいなど一度も思ったことはない。勝手に踏み込んでくるな。だって、
「許さない」
荒ぶる魂を抑えきれなくなるから、深く考えないようにしてきただけで、本当はペイトンが部屋に入ってきたあの瞬間の瞳の動きを忘れていない。お前は絶対に死んでも許さないからな、とあの日にとっくに決めている。だから、謝らなくていい。
「あぁ、そうだ。許さないでくれ。僕を絶対に」
なんだそれ。悲劇のヒロインぶるな。お前になんか関係ない。傷つけられていない。許さないのは腹が立つからだ。勘違いするな。自惚れるな。お前なんて、
「ぶっとばしてやるのは簡単だったのよ」
アデレードは、だらんと下げていた手でペイトンの背広の肩をぎゅっと握った。
あの日、持っていたフォークを投げつけて、テーブルの上のケーキスタンドを引っ繰り返して、暴れまわってやることなんて、赤ん坊の手を捻るより遥かに簡単だった。でも、ペイトン・フォアードと違って自分は良識ある人間なのでしなかっただけ。お前なんか見逃してやっただけ。舐めるな馬鹿、調子に乗るな馬鹿、そう思って冷静に対応してやっただけだ。
「わかっている。君は強いから。でも、我慢したんだな」
ペイトンが知った風な口を利く。何にも知らないくせに。胸が詰まる。苦しい。冗談じゃない。冗談じゃないぞ、とアデレードは自分のうちっかわがグラグラ茹だるのを感じた。
「なんにもわかってない」
「君の釣書と調査書を読んだ」
「……」
今更? 何のために? 以前、手酷く振られた話をしたから好奇心が湧いたのか。随分下世話じゃないか。何が書いてあったのか。学校のこと? 嘲笑されていたこと? 家族にも言っていない秘密なのに。でも調べたら簡単にわかることだ。
「僕に言ってくれないか」
「……」
お前なんかに言うわけがない。たった一年のただの政略結婚の相手のくせに。なんで必死で隠してきたことを、お前みたいなクズに話さなきゃならないんだ。そうだ。私は別にいつだって言おうと思えば言えた。あいつにも、あいつにも、あいつにも、あいつにも。「権力を笠に着て」と非難するなら、お望み通り権力を行使して、めちゃくちゃにしてやれた。でも、敢えて言わなかった。言わない理由があった。
「僕に、全部言ってくれ」
ペイトンが背中に回した腕に力を込める。物理的に息が苦しい。涙が出てくる。
「……レイモンドが」
言葉が喉に張りついて上手く音にならない。
「秘密は守るよ」
ペイトンがまた余計なことを言う。本当に余計なことを言う。アデレードは、掴んでいたペイトンの肩口をもう一度強く握った。
「嘘ついたの」
まだ、学校に通い始めたばかりの頃。登校中の馬車の中。
「俺、喋るの嫌いなんだよねって」
面倒くさげに言った。突然に。それって私とは喋りたくないってこと? 急になんで? 聞きたかったけど聞けなかった。怖かった。傷ついたんだ、あの時。笑って返したけど傷ついた。笑うしかできないくらい傷ついた。
「っ嫌い」
指先に力が入る。関係ないペイトンの背広の肩口が皺くちゃになる。結婚式用の礼服。多分、お高い一張羅なのにペイトンは何も言わなかった。優しくされればつけあがる悪癖が出てくる。胃の腑が熱い。吐き出したい。
「大っ嫌い」
黒い感情が迫り上がってくる。心変わりを責めてない。嫌なら嫌で仕方ない。傷ついたのはそんなことじゃない。
「…… 嘘つき。嘘つき! 大っ嫌い。地獄へ落ちろ。一生苦しめバカ」
好きじゃないなら好きじゃないって、ちゃんと普通に言えばいい。「他に好きな人ができた。だから、結婚できなくなった」って。そしたら、多分泣いて暴れたけれど、その後には「幸せになってね」って言った。ちゃんと言った。泣きながらでも言った。だって、一番の、一番大切な、
「……友達だったから……友達だと思ってたのに!」
爪が白くなるくらい指先を握りしめた。合わせるようにペイトンが腕に力をこめてくる。引き寄せられてペイトンの胸に顔が張りつく。背広に涙と鼻水がじんわり染みて汚い。非常に汚いのに、ペイトンは動じる様子はなかった。
「君は友達だから彼を庇ったのか」
またぼろぼろと涙が流れる。そうだ。だって、大きな借りがあったから。
遠い過去。記憶の底に沈む昔々のお話だ。セシリアの部屋に忍び込んでは、しょっちゅう怒られていた頃。世界で一番怖いのはセシリアだと思っていた。そのくせなんでも真似したがって、勝手にセシリアの私物を持ち出して遊んでいた。セシリアはその度憤怒したけれど「歳の離れた妹のすることだし」と何処か形骸化した部分もあった。けれど、本当に一度だけ、がつんと頭を殴られて、烈火の如く叱られたことがあった。当時まだ婚約者だった現夫がセシリアへ贈ったブローチを許可なく持ち出したから。頼みの綱の父は不在で、母にも兄にもこっぴどく怒られた。
――あれはセシリアが卒業パーティーに着けていく大事なブローチだって言ったでしょう!
だから、丁寧に扱っていたじゃないか。ちょっと貸してくれたっていいじゃないか。謝ったのに許してもくれない。おまけに暴力までふるった。ひどい。無茶苦茶な理論を展開して部屋に籠城した。あの時、レイモンドが遊びに来て一緒に謝ろうとしてくれたけれど、
――謝ったもん! 許してくれなかったの! だからもう謝らない!
と頑なに拒絶した。結局、レイモンドが代わりに謝罪してくれて事なきを得た。良かった、と単純に呑気に思った。だから、その日就寝の時間になって、セシリアが一人で寝室に入ってきた時には心底驚いた。あ、殺されるんだ……と正直そう思った。
――あんた、いい友達を持ったわね。大事にしなさいよ。
――え?
セシリアは唐突に告げた。寝台に上半身だけ起こした状態。入り口でランプを持って立っているセシリアの表情は薄暗くてよくわからない。多分、怒ってはいなかった。黙っているとセシリアはレイモンドをひたすらに褒めだした。それから、
――レイ君は、甘ったれのあんたとは違って、もう初等教育を受け始めているから、自分が伯爵家の人間だってちゃんと理解しているのよ。それがどういうことかわかる?
と問い掛けてきた。はっきり言って全くわからなかった。「ショトーキョウイク」が何かさえ知らなかった。わざと難しいことを聞いて馬鹿にしているのだ、とムッとしたくらいに。
――あのね、レイ君は私のことが物凄く怖いの。でも、あんたの為に、勇気を出してあんたを許して欲しいと頼みに来たのよ。
私だってセシリアは怖い。けれど、それを言ったら怒られることだけはわかったので沈黙を通した。すると、セシリアは深くため息を吐いて、
――あんたは一人で謝りにきたことなんてないよね。自分のことなのに。
と見透かしたように続けた。そんなことはない。そんなことは……と考えても父に泣きつく自分の姿しか浮かんでこなかった。
――いつかきっとレイ君のしてくれたことの価値に気づくわ。あんな友達はいないわよ。だから、大事にしなさいね。
セシリアはそれだけ言って出て行った。そんなこと忠告されなくても当たり前だし、ずっと仲良しだと思った。でも、セシリアの言葉は心の深い部分に小さな棘みたいに残った。外の世界に触れるごとに、バルモア侯爵家という家名の重みを知るたびに、レイモンドが両親や兄や姉に対する時いつも姿勢を正していることに気づいて、あの時レイモンドが怒り狂うセシリアの所に一人で謝りに行ってくれたことを思い出した。だから、
「……私がどんなに悪くてもいつも味方してくれたから、今度は私が味方になろうと思ったの」
独りよがり。馬鹿みたいだ。それでも、あの時のことを覚えている。一生忘れない。嫌いだけれど憎んでいない、許さないけど恨んでいない。だから、逃げてきた。自分で完全に壊すのが怖かったから、何も言わないまま逃げてきた。後悔している。ダミアン・ローグみたいに、ちゃんと言えば良かった。逃げなければ良かった。友達だと思っていたなら、尚更ちゃんと。どうして私を嫌いになったのって、聞けば良かった。貴方が私を嫌いでも私は好きだったって言えば良かった。私の心は傷ついてもう貴方を好きでなくなってしまったけれども、嫌いになりたくなかった。ずっと好きでいたかったって言えばよかった。どうせ独りよがりなら、最後も自分の気の済むように、ケジメをつけたお別れをちゃんと言いたい。私は言いたいんだ。
アデレードはペイトンが払い除けないのをよいことに、じゅるじゅると背広に顔をすりつけて鼻を啜った。なんだろうか。この男は物凄く良い匂いがする。知らない匂い。脳に酸素が送られていく感覚がした。
「……地獄へ落ちろ、と、一生苦しめは、やっぱりなしにする」
それは本当に思っていないから。
「君は根に持つ性分なんだな。良いことも、悪いことも」
ペイトンが褒めもせず貶しもしないことを言う。その通りすぎて返す言葉がない。埋めていた顔を離すと、背広に涙と鼻水の後が見てとれて、気まずさが襲ってきた。
「ごめんなさい」
ペイトンがあまりに踏んだり蹴ったりすぎて流石に謝罪の言葉が出る。
「君が謝ることなんてない」
謝ることしかないと思うが、先ほど自分もペイトンからの謝罪を受け入れなかったことを思い出して、どの口で許しを乞うのか、とそれ以上の発言が憚られた。しかし、初対面での態度を鑑みても、自分の言動と比較してペイトンが割を食っている気がする。
じっと見上げると、余程ひどい顔をしていたのか、ペイトンが胸ポケットのハンカチを使うように差し出した。
「え、いいですよ。汚れるから」
断るとペイトンは勝手に目やら鼻やらを拭ってきた。されるがままにしてると、いろいろ冷静にいろいろ理不尽な行動に申し訳なさが膨れ上がる。そう言えば前にもこんなことがあった。勿忘草を観に行った帰りだ。あの時は酔っていたけれど、今は素面なので更に質が悪くなっている。
「……許さないって言ったのもやっぱり撤回します。迷惑かけたから」
「それとこれとは関係ないだろ。お人好しだな」
お人好しの使い方を間違っていないか。それに、全くお人好しなどではない。お人好しなら同時に不平等契約も白紙にしている。しかし、この期に及んでもそれは撤回していなし、する気もないのだから。お人好しなのはペイトンの方だ。
「……弁償しますね」
「え?」
「背広とハンカチ」
「いいよ。そんなの」
「汚いですよ」
「洗えば綺麗になる」
「私、お金はあるんですよ」
「僕だってある」
どんな会話なのか。うっかり場違いに笑ってしまうと、ペイトンは目を開いて、
「食事が途中だっただろ。ちゃんと食べなさい。ほら、デザートもあるから」
と言いながら立ち上がり自分の席に戻った。確かに食事の途中だったし、確かにデザートもまだ食べていない。アデレードは素直に従ってフォークとナイフを手に取りステーキを頬張った。食事というのは偉大だ。活力がみなぎってくる。
ノイスタインへ帰ったらレイモンドに会いに行かねばならない。きっと不快な顔をするだろうけれど。今更だけれど。嫌すぎるけれども。前へ進むために。
奇妙な夜だ。
眼前で彫刻のように美しい男が、自分の涙と鼻水まみれの洋服を着て、澄ました顔で食事をしている。悶絶したいくらいの黒歴史を生成してしまった。まだ何も解決していないし色々辛い。でも、死ぬ前に今日のことを思い出すとして、きっと自分は笑うだろう。シュールすぎるペイトンの姿を浮かべて。そう考えるとなんだかとてもて安心できた。ペイトン・フォワードに大きな借りができてしまった。




