33
アデレードは、控室での出来事が一つも消化できないままホテルの部屋へ戻ってきた。正確にいうなら「顔色が悪い」と繰り返すペイトンに半ば無理やり連れ戻されたのだが、逆らう意味も気力もなく素直に従った。その後、ペイトンは、
「大人しく寝ていなさい。僕はリビングにいるから」
と残して寝室から出て行った。
ベッドの上に無造作に身を投げ出して天井を見つめる。ほんの一時間前も同じように横になっていたのに、あの時と今では状況がまるきり違うことに息苦しくなった。今頃ダミアンは家族へ事情説明をしている最中だろうか。どう伝えているのか。アデレードは目を瞑って控室でのことを反芻した。
「ちょっと待ってよ。なんで今更こんなことで別れる話になるの。もうペイトンに言い寄ったりしないから! 式は中止になんかしないわよ!」
別れを切り出された直後、ヒステリックに抗議するクリスタに、
「君に決定権はないよ。いいかい、俺は別に君を地獄に落としたいわけじゃない。挙式は中止しても君に金銭を請求する気はないし、君は実家に戻ってこれまで通りの生活ができる。だが、騒ぎたてるなら話は違ってくる。どちらの過失かはっきりさせて、相応の負担をしてもらう」
とダミアンは冷静に言い放った。
ホテルを貸し切っての挙式は、ローグ侯爵家にとっても安い出費じゃないはずだ。昼食時の悪口大会の中から拾った情報では、クリスタの実家のボリナス男爵家はさほど裕福な家名ではないらしい。婚儀中止の賠償が全額ふりかかれば破綻しかねない。ボリナス家のことを慮ったにしても、周囲からしたら文句を言いたくなるような随分甘い処遇だ。でも、アデレードには、ダミアンの気持ちがなんとなく理解できた。苦しめるんじゃなく、後悔させたいのではないか、と。
―― 君は実家に戻ってこれまで通りの生活ができる。
ダミアンの言った「これまで通りの生活」にクリスタは耐えられない。ローグ家の財力で贅沢している現状から一介の男爵家の暮らしに戻って満足できるはずがない。きっと、いたるところでダミアンのことを思い出す。思い出させたい。そんな感情があるのではないか、とアデレードは思った。「私が不幸な結婚をすればレイモンドが少しは罪悪感を抱くかもしれない」と歪んだ気持ちで嫁いできた過去の自分と同じように。
(……いや、私とは違うわね。全然違うわね。だって、)
とそこまで考えてアデレードは思考を止めた。何がどう違うかは考えたくなかった。ひたすらに、何も思い出したくない。行き着く先にあるものはわかっている。目を瞑って呼吸することにだけ集中した。嫌な気持ちを空気に溶かすみたいなイメージ。くどいくらいに規則的に繰り返していると、やがてそれは寝息に変わった。
目覚めると、レースのカーテン越しに太陽が沈み切っているのがわかった。しまった。寝過ごした! と焦って飛び起きた瞬間、
(そうか、式はなくなったんだっけ)
と現実を思い出した。
掛け時計の針は、二十時を少し回っている。今度は、呑気に昼寝などしてしまった自分に落ち込んだ。のっそり起き上がり、ドレッサーに映る姿を確認する。一つに纏めていた髪が崩れているので解いた。一昨日、肩より少し長いくらいに切ったばかりで、下ろしていても格好がつく。アデレードは適当に手櫛でといで髪を整えると部屋を出た。
リビングは、既に至るところのランプに灯が入れられていて明るかった。ペイトンの姿はない。アデレードはなんとなくバルコニーに出て暗い湖を眺めた。昼は快晴だったのに、今は雲が多くて月も星も出ていないため、ひたすらに黒い景色が広がっている。少し肌寒くてすぐに中へ引っ込んだ。
ソファに座り、ぼんやりしたまま時間だけ経過していく。ペイトンは自分の寝室にいるのか、何処かへ出掛けているのかわからなかった。寝室をノックしてみようかな、と立ち上がろうとしたところで、部屋入り口のドアが開いた。
「君、起きて平気なのか?」
ペイトンがつかつか入って来て言った。元々何処も悪くないのだが、ぐたぐた眠りこけてしまっていた手前、
「大丈夫です」
とだけ答えた。ペイトンは訝しげにじろじろ見てくる。
「どうなったのですか?」
「え?」
「……結婚式とか、いろいろ」
「あぁ、今、中庭で残念パーティーに切り替えた夜会が開かれている」
なにそれ、とアデレードは嫌悪を抱いた。ダミアンは、そんなことをやる気分じゃないだろうに。
「大丈夫なんですか、それ」
「え、あぁ、そうだな。元々立食形式で、格式ばった披露宴ではなかったから」
そんなことを聞いたのじゃないのだが。わざと惚けているのだろうか。
「……ダミアン様とクリスタ様はどうしているんですか?」
聞き方を変えると、
「ダミアンは夜会に出ている。クリスタは両親が連れ帰ったようだ」
今度は質問に最小限の答えが返ってきた。その夜会でのダミアンの様子を教えて欲しいのだが、と思った。しかし、
「そうですか」
しつこく根掘り葉掘り聞くのはただの野次馬みたいで、それ以上は尋ねるのをやめた。
「君、空腹じゃないか? 食事の手配をしたから、もうじき届く」
「招待客は、皆さん夜会に参加しているんですか?」
部屋で勝手に食事を取ってよいものなのか。皆が夜会に参加しているなら、自分も出るべきだとアデレードは率直に思った。
「学生時代の友人達が主に参加しているな。近親者や女性は最初にダミアンに挨拶だけして部屋に戻ったよ」
じゃあ、その時私も呼びにきてくれよ。一人で行っていたのかよ、という感想しかない。同時に、学生時代の友人に囲まれて残念パーティーとやらをしている最中に、今更、二、三度顔を合わせた程度の自分が交じりに行くのは場違いすぎるとも感じた。
(なんで起こしに来てくれないの?)
憤りが湧く。しかし、ペイトンなりの気遣いだったのかもしれないので文句は言えない。アデレードがもんもんとしている間に、ペイトンが頼んだ食事が運ばれてきた。
アデレードが座っているソファの前の大理石テーブルに、部屋付きの侍女がどんどん配膳していく。ペイトンが適当に頼んだのか、夜会のメニューを見繕って用意されたのか、前菜、オードブル、スープ、パン、メインにステーキと魚料理の二種類がそれぞれ並べられていく。
(量多くない?)
サービスカートにデザートらしき皿がまだ残っている状態で、テーブルはいっぱいになった。
「後は僕がするから、この部屋はもういい」
ペイトンが侍女を下がらせる。部屋付きの侍女なのだから通常こんなことは言わない。予定が狂ったことでホテル側の人手が不足していることに配慮したのだと感じた。侍女は、
「ご用命があればいつでもお呼びつけください」
と一礼して出て行った。
「旦那様は、パーティーに戻らなくてよいのですが」
「僕はいない方がいいだろう」
ペイトンはアデレードの向かいのソファに腰を下ろしながら言った。それはそうかもしれないが、それは今更なんじゃないかとも思った。友人の恋人が自分を好きでいる心境はどんな風だろうか。長年の歪な三角形を描いてきたペイトンの気持ちもダミアンの考えも、よくわからない。一番理解できないのはクリスタだけれども。
「ほら、温かいうちに食べなさい」
ペイトンが言うので食べ始めるが、
「量、多くないですか?」
アデレードは戸惑いながら尋ねた。品数は通常なのだが一品一品が異常に多く盛られている。
「まぁ、一応、祝いの料理だからな。自分達の幸せを分け与えるという意味で、わざと食べきれない量を振舞うんだ。ノイスタインでは違うのか」
「はい、初めて聞きました」
「そうか」
残してよいとわかって安堵し、アデレードは黙々と食し始めた。さほど空腹感はなかったが、食べ始めたら案外食べられるものだな、と考えていると、
「君、ダミアンに何を言ったんだ?」
ペイトンがふいに口を開いた。
ステーキの皿から顔を上げると目が合う。表情に何処か責めるような色が読み取れる。だが、それはすぐにぼやけて見えなくなった。
「え、君、ちょっと……え、え?」
アデレードは気づけばぼろぼろと泣いていた。
▼▼▼
「お前は来なくていい」
それがペイトンの持つ母親との唯一の記憶だ。五歳だった。母親が旅行にでも行くような荷物を下げて、白昼堂々、しかし裏口から何処かへ出かけようとしている。進む先には馬車が停車してあった。呼び掛けると心底面倒くさそうな瞳と一瞬だけ視線が重なった。
「お前は来なくていい」
母親だった女は、吐き捨てて踵を返すと振り向くことなく馬車へ乗り込んで行った。
「泥棒女。父の金を置いていけ」
そう言えなかったことが悔やまれる、遠い記憶だ。
何故こんなことを思い出すのか胸糞が悪い。ダミアンがこの期に及んでクリスタに未練たらしく甘っちょろいことを言うのが耳障りだったからだ。最後くらいがつんと言ってやればよいものを、あの時、本当は辛かった、悲しかった、と今更ながらのことをつらつら語ったダミアンにイライラした。
(せめて賠償くらいさせるべきだろう)
ペイトンはぐっとワイングラスを煽った。
披露宴から残念パーティーに切り替わった夜会が開かれると知らせがきた。顔を出さないわけにはいかないため参加したが、
(この十年一体なんだったんだろうな)
友人に囲まれたダミアンは笑っている。内心を悟らせないのが貴族としての嗜みではあるが、空元気か、吹っ切れたのか、挙式の準備をしていた時より元気そうに見えた。いろいろ限界だったのではないか。結婚してもどの道破綻していたに違いない。だったら、もっと早く見切りをつけるべきだった。無駄な時間の浪費だ。
「ペイトン、いろいろ巻き込んで悪かったな」
同情心の欠片もないことを考えていると、ダミアンが友人の輪から離れてやって来た。
「……いや」
「アデレード夫人の体調はどうだ? 大丈夫なのか?」
「あぁ、部屋で休んでいる。夜会には参加できないと思う。すまない」
「そんなのは構わないよ。彼女、変わっているけど良い子だな」
「え?」
「今度改めて礼を言うよ」
「あの子が何かしたのか?」
そもそも何故あの場所にアデレードと二人でいたのか。アデレードの体調が悪そうだったので尋ねるタイミングを逃したままだ。
「そうだな。どちらかと言えば何もしなかったな」
「は?」
「俺のことを馬鹿にもしなかった」
ダミアンは笑った。ペイトンはムッとした。ダミアンの言葉に自分に対する非難めいたものを感じた。随分失礼な話だと思った。ダミアンを馬鹿にして舐めていたのはクリスタだ。自分は違う。自分はそれが不愉快で、だから別れるよう忠告した。恋に盲目である姿を愚かだと冷めて見ていたが、それを馬鹿にしたと解釈されるのは心外だ。そう思っているならば、しつこくあれこれ頼みにこなければ良かった。
「僕も馬鹿になどしていないが」
「そうか」
「そうだ」
不満をあらわに答えると、ダミアンはまた笑った。
「彼女のこと大切にしてやってくれよ」
(なんだそれ。お前に言われる筋合いはない)
ペイトンはますます苛ついた。しかし、こんな日に言い争う気も起きず適当に頷いた。
部屋に戻るとアデレードはリビングに出てきていた。ダミアンの様子をひどく気にしていたが、ペイトンは当たり障りのないことを答えた。恩を仇で返されたような沸々とした怒りが胸のあたりで燻って気分が悪かった。ダミアンのことには関わるのはやめた。そう思っていたが、アデレードが何を言ったのか気になって、
「君、ダミアンに何を言ったんだ?」
と尋ねてしまった。アデレードと目が合う。綺麗な薄茶色の瞳がじんわり滲んで行く。
「え、君、ちょっと……え、え?」
ペイトンは一瞬で血の気が引いた。
「あいつに何か言われたのか?」
「私が余計なことを言ったから破談になった」
アデレードはナイフを持ったまま手の甲で涙を拭った。どうしてそんなことになるのか。話が飛躍しすぎだ。
「そんなわけないだろう。君は関係ない。あいつが自分で決断したんだ。それに結婚は破談になってよかった。この結婚には元々誰も賛成していなかったんだから」
「だったら、なぜ貴方はずっと二人の仲を取り持つように協力したんですか」
ペイトンは言葉に詰まった。なんだろうか。嫌な動悸がする。アデレードは取り敢えず泣き止んではいるが、またいつでも泣き出しそうな気配だ。
「それは……頼まれたから」
「応援していないなら断ればよかったのに」
「しつこく頼まれたんだ」
「しつこく断れば良かったのに」
矛先がこちらに向いたのを感じた。自分は何で責められているのか。理不尽じゃないか。
「色々あるんだ」
ダミアンが懇願してくるから周囲が同情して「協力してやれ」と責めたてられた。商会に客として来店するようになって、無下には断れなくなった。
「色々って?」
「いや、だから……」
立場とか状況とか関係性とか、色々は色々だ。説明を求められても答えづらい。非常に狭量な回答になってしまう。
「そんなのひどいじゃない」
「え」
「ひどいでしょう……ひどいでしょう……」
アデレードはまたぼたぼた涙を流した。いや、流石にそれは八つ当たりすぎでは? 何故そこまでダミアンの肩を持つのか。さっきのダミアンとの会話も相まって憤りが湧いた。
「ひどいって、僕は何度も断ったんだ。嫌がる僕を何度も誘うあいつの方がひどくないか? 人の頼みを断るのは気分のいいものじゃない。それを何度も何度もしつこく懇願してきて迷惑だった。あいつのせいで僕はずっと不快だったんだ」
言った後、しまったなと思った。アデレードが暴れ回るのじゃないか、と。アデレードの思考は攻撃的すぎてこっちの手に負えない。適当に謝っておけばよかったな、と後悔した。しかし、
「不快だったって、あの人、貴方に頭を下げたんじゃないんですか?」
「え?」
アデレードはすんっとした声で言った。
「迷惑だって思われていることを、あの人が気づいてないって思っていたんですか?」
「いや……」
「それでも頼みに来たんでしょう」
怒るでもなく笑うでもなく目に涙をためて尋ねてくるアデレードに、ペイトンは一旦治まっていた動悸が再び止まらなくなった。身体の中で心臓が強く跳ねて飛び出しそうなほど。そんな風には考えなかった。明らかに迷惑だという態度を取ってもしつこいダミアンを「なんて愚鈍な男なんだ」と思ってきた。いい加減気づけよ、と。気づいているとは思っていなかった。気づいていてやっているのなら「質が悪い嫌がらせ」と更に怒りを感じてさえいたはずだ。「それでも頭を下げに来た」とは露ほどにも考えなかった。ダミアンがどんな気持ちで頼みに来たかは全く。これまで一度も。
(僕にしか頼めないから僕に頼みに来た……)
先ほどのアデレードの言葉の真意を理解して全身が震えた。
嫌なら嫌だと断ればよかった。誠意をもって「あんな女はお前には相応しくないから絶対に協力なんてしない」と言い続ければ良かった。でも、面倒くさいから引き受けた。周囲の目や、会社の為や、断って悪者にされるのは割りに合わないと打算的に考えて。嫌悪感を露わにしながら。
(違うんだ)
そう言いたかったけれど喉が上手く開かない。ダミアンを傷つけようなんて微塵も考えていない。傷つきたくないなら傷つかないようにするのがペイトンのやり方だ。だから、リスクヘッジしないダミアンを愚かだと思った。忠告しても聞き入れないから好きにしろと見放した。それは全部自分を守る為で、ダミアンを馬鹿にしたり攻撃する意図はない。全くない。断じてない。知らなかった。気づかなかった。教えて欲しかった。そしたら、絶対に、
「私が言わなかったのが悪かったの?」
ペイトンは振り上げた拳の行き場を失ったみたいに不格好に息を呑んだ。
「言えば良かったの? ………言えば良かったの?」
アデレードはまだナイフを握りしめたままドレスの袖で顔を拭った。危ないからやめさせたい、と何処か遠くに俯瞰的な自分がいる。
「だって、言ったら皆やめろって言うでしょう。レイモンドのこと怒るでしょう。悪く言うでしょう」
「レイモンド……?」
聞き慣れないが知っている名前。
―― 彼女のこと大切にしてやってくれよ。
ダミアンの言葉が耳の奥で響く。アデレードがダミアンに肩入れする理由がじりじり浮き上がってくる。
――物凄く好きだった人に手酷く振られて、自分の中の恋する力が底を尽きたからです。
疑問に思ってきたことに、目の前でカチリカチリとピースがはまっていって、ペイトンは途方もない気持ちになった。
「君はダミアンを仲間だと思ったんだな……」
仲間だとか、仲間じゃないとか、何故急にそんな幼稚なことを口走ったのか自分でもよくわからなからない。
「ダミアンは君に礼がしたいと言っていたよ」
ただ、純粋に泣き止んで欲しかった。自分のせいでダミアンが破局したと言うから、安心させたかった。手持ちのカードがなさすぎて間抜けなことを言った。
「違う。全然違う、あの人とは全然」
「え?」
「だって、私は言わなかったもの。あの人みたいに言ってない。言わなかった。ちゃんと……だって、逃げて来たんだもの。本当は逃げて来たんだもん! うわぁぁぁん」
アデレードは堰を切ったように泣き出した。不安とか悲嘆とか自責とか、怒り以外の負の感情で混沌としていたペイトンの中心を「逃げて来た」という言葉が鋭く衝いた。
(そうか、逃げて来たのか)
好きな男に手酷く振られて、それを誰にも言えなくて、傷ついて、行くところがなくて、相手が女嫌いで碌でもない男だと知っていてもなお逃げて来た。十八歳の娘が。他に頼れる者もいない隣国まで。だというのに、
(あの日、僕は何をした?)
アデレードが到着した知らせを受けても出迎えなかった。わざと一時間以上待たせた。最初にがつんと拒絶してやらねばと馬鹿みたいに意気込んだ。応接間に入った瞬間、目が合ったアデレードは待たされたことを怒っている様子はなかった。それどころか立ち上がり挨拶しようとした。だから、余計に言ってやらねばと思った。こんなに待たされても不快な顔をせず媚を売ってくるのは自分に好意があるからだ、と咄嗟に強く感じて、
―― 最初に言っておくが、これは政略結婚だ。僕が君を愛することはない。僕に変な期待をするのはやめてくれよ。
母親や家庭教師みたいに碌でもない女から自分を守らねばと思った。攻撃は最大の防御だから、初手で牽制してやれば大人しくなる。後は粛々と白い結婚生活を送ればいい。別に不自由な暮らしをさせるつもりはなかった。使用人にはアデレードの頼みはなんでも聞くように指示してあった。あの時、アデレードはどんな気持ちだっただろうか。
―― 蔑ろにされるのはもう懲り懲りだったので、愛されて大切にされたいのは本当です。一人の人間として尊厳を守りたいって意味で。
過去の言葉の一つ一つが、遅効性の猛毒みたいに身体に回って頭が痺れた。
(逃げて来たんじゃないか。僕の所へ、逃げて来たんじゃないか)
傷つけたかったわけじゃない。自分が誰かを傷つけるなんて考えたことがなかった。あったのはあまりにも浅はかな、傲慢な、自己保身だけ。
「……私も言えば良かった。私もちゃんと言えばよかった!」
ペイトンは泣きじゃくるアデレードを見つめた。まだナイフを握りしめている。自傷するとは思えないが危なっかしいから取り上げたい。吐きそうなほど心臓が脈を打って何か発作の前兆みたいに浅い呼吸しかできない。しかし、身体は驚くほど軽く動いた。自分の輪郭が空気に溶けたみたいにあやふやで覚束ない。アデレードの右手首を掴むとばっと身体の温度が上がるのを感じた。多分、アデレードの体温が高いから。
ペイトンがナイフを奪うと、本人も好きで握っていたわけではなかったのか簡単に離した。目が合う。アデレードは口を開きかけたが、それより先に、
「アデレード、すまない。……本当にすまない」
ペイトンはアデレードを抱きしめて言った。暴れてぶっ飛ばしてくるだろうけれど、ぶっ飛ばされてかまわないと思った。それだけのことをしてきたのだから。




