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ジェームスは一周回って笑えてきた。
三階建てのそこそこ広い屋敷といえど、同居していて三日も、四日も顔を合わせないことがあるか。
「今日も旦那様は早朝からお仕事?」
と尋ねられるたび、
「申し訳ございません。立て込んだ案件がありまして」
と嘘を吐くが、
「大変ですね」
と不快な素振りも見せずに答えるアデレードの心中は推し量れない。避けられていることは明らかなのに、怒ることも悲しむこともないし、契約書を持ち出して抗議してくることもなかった。もちろんジェームスはせっせと違反ポイントを付けているが、アデレードからは、
「仕事なら仕方ないのではない?」
と返事が返る。二人の距離はどんどん開いている。一年間の白い結婚と割り切るならこれはこれでありな気もする。が、一方のペイトンはジェームスと顔を合わせるたび、
「彼女の様子はどうだ?」
と熱心に聞いてくる。アデレードがペイトンのことを尋ねるような社交辞令ではなく、真剣に動向が気になる様子だ。
「そんなに気になるなら挨拶くらいしてから出掛けてはどうですか?」
「気になってはいない」
「じゃあ、私にいちいち聞かないでください」
「……契約があるだろ」
「その契約の違反点がどんどん加算されているのですがね。早く対処しないと負け確実ですよ」
「まだ本を全部読み終わっていないんだ」
何十冊読めば気が済むのか。途中でよいから早く行動に移せ、と激しく思う。思うだけでなく痺れが切れて実際に忠告もしたが、
「週末は父上から晩餐に呼びつけられている。その時にはちゃんとする」
と返答され、仕方なく見逃してやった。ペイトンは厄介な案件ほど先に片付ける質なのに、アデレードに関してだけは後回しにする。意味がわからなすぎてこっちも対応に困る。
だが、本日ようやく「ちゃんとする日」がきた。しかし、休みだというのにペイトンは朝から出掛けていた。流石に約束の時間前には帰って来たが、本当に往生際が悪い。おまけに帰宅後はずっと部屋中をうろうろして、
「旦那様、そろそろお時間です」
予定時刻がきたので声を掛けると、今度は微動だにしなくなった。
(大丈夫なんだろうか)
フォアード侯爵に指定されているレストランは、リリーエンという市街地にある老舗の名店だ。馬車に乗って行く手筈だが、三十分は掛かる。いきなり密室空間で二人きり。かなり心配だがついて行くわけにもいかない。本人が「ちゃんとする」と言うのだからやるだろう、と信じるしかない。大体ペイトンは、あの契約に過剰に反応しているだけで、普段は普通に客人を招いて接待するし、その際、女性をエスコートすることもある。いつも通りに振舞えば何の問題もないはずだ。だから、今日も上手くやるはず。きっと、多分。
「奥様をお呼びしてきますから、ちゃんとエスコートしてください」
ジェームスは「本当にちゃんとしてくれよ」と念じながら、固まったままのペイトンを置いてアデレードの部屋へ向かった。
▽▽▽
婚儀に際して、バルモア家はアデレードの一年分の生活費を持参金としてフォアード家に送った。しかし、着いて早々、
「こちらは奥様の今月の品位保持費の予算です」
とジェームスから渡された小切手は、持参金の丁度十二等分の額だった。毎月この額を与えられるのだという。つまり、持参金の全てをアデレードの小遣いとして好きに使えという意味だ。
「食費や滞在費として納めて頂きたいのですが」
アデレードが困惑して言うと、
「えぇ、それは受け取りました。こちらは当家からフォアード家の細君へ宛てられた予算ですので」
ジェームスに事もなげに返された。父とフォアード侯爵との取り決めがどのようであるのか不明だが、それをジェームスに言っても仕方ない気がして取り敢えずは受け取った。使わずに返せばよいか、と思った部分もある。何故ならアデレードは全くお金に困っていないのだ。
バルモア家は裕福な家系だし、兄と姉が一人ずついるが、歳の離れた末っ子であるため全員がアデレードに激甘だ。嫁いでくる時も、多額の餞別をもらってきている。そのため品位保持費がなくとも金銭的には余裕がある。だから、嫁いできた二日間は結婚祝いの礼状を送るのに時間を費やしたものの、その後はやることがなかったので毎日一人で市内観光に出掛けてスイーツ巡りを楽しんだ。
礼状の手配以外に「妻の務め」はあるかジェームスに尋ねてみたが、
「夜会に出席して夫婦として顔見せして頂くことです」
と返答がきた。しかし、ペイトンとは初日以来会っていない。毎日これほど忙しく飛び回っているのに、夜会へ出席している暇があるようには思えなかった。そんな時間があるなら休息した方がよいのではないか。そもそも白い結婚なのに「私達は夫婦です」と知らしめる必要があるのか。参加しろと言われたら従うのみだが、夜会にはよい思い出がないので出来れば避けたい。
アデレードは、ペイトンがこのまま多忙を極めてくれたら良いな、と願いつつ、嫁いで来たというより気ままな旅行者気分を味わっていた。
そんな中、今夜は義父であるフォアード侯爵から晩餐に招かれ、ペイトンと二人で出掛けることになった。
王都でも屈指の名店だという。
アデレードは、普段使いのドレスでは拙いだろうと、嫁入りにあたり新調してきたドレスの中から、若草色のドレスを選んで着ることにした。裾に金糸で薔薇の刺繍が施されている。着付けてもらうと、
「アデレード様、よくお似合いです。お若いのですからやはりこれくらい華やかなドレスでないと」
とバーサから感嘆の声が上がった。これまではレイモンドの好みに合わせてよく言えばシンプル、悪く言えば地味な、流行から外れたドレスばかり着ていた。新調した物は母と姉が「アデレードに似合う物を」と選んでくれた。鏡の中の見慣れない姿を見ていると、本当の自分を取り戻した気持ちになる。
「せっかくバリバラ国に来たのだし、こっちでもドレスを新調してみようかしら?」
「それがよいですよ。この国はシルクが有名ですからね。あと、髪飾りなんかも、もっと明るい色の物をお着けになられたらいかがです?」
二人で盛り上がっているうちに、ジェームスが「そろそろお時間です」と呼びに来た。
一緒に階下へ下りていくと、黒いタキシードを着衣したペイトンが既に玄関ホールで待っていた。
改めて見るペイトンは、離れていても人目を引くほどの美貌の持ち主だった。背が高くスタイルもよい。きっとモテる。宝の持ち腐れだ。女嫌いでなければ人生楽しかったに違いない。
「お待たせしました」
とアデレードは告げたが、内心では、
(時間通りだし別に私が遅刻したわけじゃないけど)
と言い訳めいて思った。アデレードは時間を厳守する性格だ。厳守というよりむしろ早め早めに行動することが多い。人を待たせることはアデレード基準ではかなり上位にくる失礼行為だ。つまり初日の夕食に十分遅刻したのもアデレードにとってはかなりの嫌がらせのつもりだった。尤も、ペイトンは最初の顔合わせにそれ以上に遅れてきていたのだが。
「いや、僕も今来たところだから……」
ペイトンがぼそぼそ返す。
「そうですか。よかったです。馬車で行くのですよね?」
「あぁ、屋敷の前に停車させている」
「もう出発します?」
「あ、あぁ」
ペイトンが歯切れ悪く返して、玄関扉へ向かって歩きだす。アデレードもその後ろに従うが、
「エスコート!」
後ろからジェームスが声を荒げた。アデレードは、ハッとして振り向き「すみません」と小さく謝罪した。正装して出かけるなら、淑女たるものエスコートされるまで待っているのが常識。後ろを勝手について行くべきではない。ペイトンが先にドアを開けて戻ってくるまで待機すべきだった。レイモンドはエスコートなどしてくれなくて、いつも黙って後ろを歩く癖がついてしまっている。恥ずかしい。そんな当たり前のことをずっとしてもらえていなかったのだな、とアデレードは虚無的な気持ちにもなった。それをジェームスはどう解したのか、
「いえいえ、奥様ではありませんよ。加点は旦那様ですので」
とアデレードに微笑んだ後、ペイトンを睨みつけて、
「嫌いな夫にエスコートされるのは不快でしょうけど、公の場では妻の務めとして我慢してください」
とジェームスが言った。愛さないと契約したが、別に普通に接するつもりでいる。嫌いな夫とは飛躍しすぎてはないか、とアデレードは困惑した。が、
「……その……すまない」
更に背後からペイトンに謝罪され、左手を差し出されて戸惑いの感情に呑み込まれる。ペイトンもジェームスも「愛さない」イコール「嫌い」と思っているらしい。極端すぎでは? とアデレードは思う。例えば通りすがりの見知らぬ他人について、愛していないが嫌いでもないだろう。ただ、この場でそれを説明して「嫌いではないです」と訂正するのは違う気がした。なにせペイトンは女性に好かれたくないのだ。
「いえ、大丈夫です」
あの契約を「嫌われ夫」と解釈して署名したならそれはそれで構わないか、と考え直して、アデレードはペイトンの左手に自分の右手を重ねた。
ペイトンは蒲公英の綿毛でも載せているように手に力を込めず、アデレードを先導して歩いていく。もしかして女性に触られるのが嫌だったりするのではないか。
(無理して接触する必要はないって言った方がよいかしら? 安易な契約結んじゃったかも)
アデレードは急激な申し訳なさと面倒くささを感じた。隣を歩くペイトンの赤い顔を見上げることはないままに。




