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▽▽▽
アデレードはぎゅっと拳を握った。
現況からして、この状態は故意的に作られた産物なんだろう。なんで? どういう意図で? なんの目的で? 疑問は次々膨らんだけれど口に出すことはしなかった。聞いてもどうにもできないし、ただの言わせ損になる。その代わり自分も好きにしようと思った。聞く権利があるというなら聞こう、とアデレードはダミアンと通気窓を挟んで逆側に壁を背にしてしゃがみ込んだ。
――何故あんな家柄だけが取り柄の不細工な小娘に貴方を奪われなければならないの? 知っている? あの女は爵位を笠に着て好きな男に付き纏っていたのですって。厚顔無恥な笑い者で有名だったそうよ。その上、今度は貴方にまで! あっちがダメなら今度はこっちって、本当にずうずうしい。
(なんなの?)
会話が進んでいくほどにしんしんとした怒りが募った。随分勝手なことを言ってくれるじゃないか。私が家柄しか取り柄のない小娘なら、お前は外見しか誇れるものがない下級貴族じゃないか。私は正当な手順で婚儀を結んでフォアード侯爵家の妻を務めている。文句を言われる筋合いはない。殴り飛ばしてやりたい暴力的な衝動が走る。が、
――僕の妻を侮辱するなと前にも言わなかったか? いいか、あの子のことをお前が語るな。
鋭く冷たい声に冷や水を浴びせられたような寒気を感じた。普段のペイトンと結びつかない発言にアデレードは強張った。ペイトンから次々辛辣な言葉が放たれることに違和感しかなかった。どう考えても歯牙にもかけられていないクリスタの、ペイトンに対する妄執も気味悪かった。隣に座るダミアンをチラッと確認する。無表情に真っ直ぐ前を見ている。アデレードはすぐに視線を逸らした。
―― 最後にケジメをつけさせてやって欲しいと頭を下げたんだ。
室内から漏れ聞こえる言葉が嫌なくらい耳に残った。
これをやったら、あれが終われば、きっと変わる。楽しい未来が訪れる。ひたすらに俯いて嵐が去るのを耐えて待てば、その先には澄み渡る青空が広がっていることを信じている。そういうのを知っている。アデレードの場合は「卒業したら」だった。ダミアンにとっては「最後にクリスタとペイトンを会わせてやること」だったのだろう。結果は言うまでもない。
アデレードは、好奇心でうろちょろこの場にいることが居た堪れなくなった。ペイトンがクリスタに靡くことはないし、クリスタがローグ侯爵夫人の地位を捨てることもない。このまま目をつぶれは、嵐の先には快晴でなくとも曇り空の日常が待っている。ダミアンは、何もなかったことにしたいんじゃないか。でも、自分がここにいることでそれができなくなったのではないか、と思った。
「……見なかったことにしましょうか?」
「え?」
ダミアンから素っ頓狂な声が漏れるが、アデレードは視線を合わせることができず地面に繁る雑草を見つめた。
「それは結婚した方が良いってこと?」
「いえ、違います」
答えるとダミアンは笑った。
「じゃあ、何故そんな提案を?」
だって、貴方はそれを望んでいるのでしょ? とアデレードは思った。わざわざ式当日を選んだのは、どういう結果になっても後戻りできない状況にするためだったのでは? 自分で外堀を埋めたのでは? そして万が一の奇跡にかけた。
「……すみません」
「え、どうして?」
「私も似たような経験があるので」
少しの沈黙の後、
「じゃあ、俺もこの結婚はやめた方がいいかな」
さっきのクリスタの胸糞悪い暴露でいろいろ察したのか、ダミアンは誰に言うともなく呟いた。頭の奥がキーンとした。アデレードは無性に泣きたくなった。
(こんなのってないでしょう)
ダミアンは初対面の時から、穏やかで感じが良かった。ペイトンみたいに、いきなり暴言は絶対に吐かないタイプ。これほど豪華な挙式を開くローグ侯爵家は裕福な家名に違いない。それでもクリスタがペイトンを選ぶのは、容姿以外にない気がする。恋愛において重要な要素であることは理解している。仕方ない。実際、ダミアンが性悪のクリスタを好きな理由も外見なんじゃないかと思う。だから、この不快感も、憤りも、そんなことが原因じゃない。人として、の問題。
(こんなのってないでしょう。こんなのってない)
ゆらゆら視界が揺れる。
アデレードは、今すぐ控え室に行ってクリスタをぶっ飛ばしてやろうと真剣に思った。「夫を誘惑されたのよ」と言い訳はたつ、とも冷静に考えた。だけど、隣で動かないダミアンを見てやめた。
「一回結婚して、すぐに別れたらいいんじゃないですか?」
「え?」
「断るなら断るで誠意は必要でしょう。利用して好き勝手に搾取してよいはずはないです。だから、相手がここまで自分勝手な主張を通すなら、こっちも同じく自分の意思を通してやればいい。クリスタ様と結婚するために頑張ってきたのですよね? 後二時間で叶うのですから叶えたらいいのでは? それで、嫌になったらすぐ別れたらいいのではないですか。離縁されて困るのは向こうでしょ。形勢逆転できます。なんなら、うちの夫を誘惑したって証言しますよ。ローグ家とフォアード家から睨まれたら、この国で貴族としてやっていくのは無理です」
どんなに周囲が反対しても、本人が「結婚したい」という自分の望みを叶えることには、絶対的な一利がある。アデレードは、クリスタに苛ついていたけれど、昼食のレストランでの会話にも尾を引いて腹を立てていた。他人はとやかく言う。が、それを聞いてやる必要はない。だから、ダミアンが本当にしたいようにすればいい。その為なら、あの女を殴りつけるのは我慢していい。頬の腫れた花嫁ではダミアンが可哀想だから。
「離縁するのは結婚するより大変らしいよ」
ダミアンはまた笑った。穏やかに静かに。アデレードは感情に任せて、幼稚な意見をつらつら述べたことを後悔した。自分は誰にも何も言われたくなかったのに、余計なことばかり言ってしまった。
ダミアンはゆっくり立ち上がると、アデレードを見た。
「ケジメをつけるのは俺の方みたいだね。折角だから、最後まで付き合ってよ」
言い終えるとすたすた歩き始めた。アデレードは、黙って後を追うしかできなかった。
扉は若干開いていた。ダミアンがノックもなく入っていくので、アデレードも従う。
ペイトンとその奥にクリスタの姿を確認すると、アデレードは瞬時にクリスタの方へ焦点を合わせた。泣いているせいか目が潤んで、初対面の時より幼く見える。美人だな、と思った。死ぬほど軽蔑するし、不快で嫌いで仕方ないのに美しいと感じるのは、本当に綺麗だからだろう。が、
「ダミアン!」
クリスタの表情が花開いたみたいな笑顔に変わったことに相容れなさを感じた。この状況で、まるで味方が来たみたいな態度にでられることが理解できない。会話を聞かれていると知らないにしても、さっきまでの自分の発言に罪悪感を抱いたりしないのか。憤りが足先から湧き上がってくるが、アデレードは余計なことは一切言わないと決めたので、黙って成り行きを見ていた。
「聞いてよ! ペイトンったらひどいのよ」
「全部、聞いていたよ」
「そ、そう、聞いていたの……」
クリスタは、流石に狼狽えて口篭った。次の言葉を探している。クリスタの肩を持つつもりなど毛頭ないのに、なぜか胃がキリキリするほど緊張してきた。ダミアンに対して「よし言ってやれ!」という気持ちが驚くほど起きない。クリスタが、ダミアンに荒唐無稽な暴言を吐くのじゃないかという不安に動悸が止まらない。そんなのは耐えられない。クリスタには、下手な言い訳はせず素直に謝って心底反省して欲しい。お願い、お願い、と懇願するように思っている。怒りとは真逆の場所にいる自分の感情が不思議だった。
「何よ。貴方がペイトンを好きでもいいって言ってプロポーズしたんでしょ」
アデレードの願い虚しく一番嫌な展開へ空気が流れていった。手に汗握って二人の動向を追っていると、
「君、顔色が悪いが大丈夫なのか?」
ペイトンがダミアンと入れ替わりに傍に来て言った。視界の端に動く影は捉えていたけれど、二人の邪魔をしないように下がってきたのだと思っていたから、声を掛けてくるとは予想していなかった。私の顔色はそんなに良くないだろうか、と僅かに考えたけれど、
「大丈夫です」
それどころではなさすぎて、アデレードは視線をクリスタに固定させたまま答えた。ペイトンがまだごにょごにょ言ってくるが全く頭に入ってこない。というか、他人事みたいな顔をしているが、長年ダミアンとクリスタの間に暗い影を落としてきた元凶ではないか。何故式当日に花嫁と二人で会うのか。ダミアンに頼まれたと言っていたが断るべきだったのでは? とペイトンの軽率な行動に不信感を覚えた。
「大体、立ち聞きなんて趣味が悪いわ」
クリスタが、一言の謝罪もなく、申し訳ない態度もなく、ダミアンを非難する言葉を吐いている。怒るだけ無駄、反論するだけ損。もういいじゃないか。早く決別して今すぐここから出よう、とアデレードは息を殺して念じた。だが、ダミアンは一言も発さないし、立ち去る気配もない。アデレードからは後ろ姿で表情も見えなかった。
「何よ。なんとか言ったら? 貴方っていつもそうよね。自分の意見がまるでないのよ。もういいわ。そろそろ準備をしないといけないし。着付けがかりを呼んできてくれない?」
いよいよ本気でどうかしている。この異常な関係をどうにかして欲しくて、アデレードが隣に立っているペイトンを見上げると、
「え」
ことのほか目が合って小さく声が漏れた。一瞬変な間ができて、ペイトンが何か言いかけたタイミングで、
「俺が何も言わないのは、君に嫌われたくなかったからだよ」
ダミアンが口を開いたので、アデレードの意識はそっちへ飛んだ。怒っている様子はまるでない声音。クリスタは、面倒くさそうに聞いている。
「俺は自分が君を諦められないから、君もそうであってよいと思っていたんだ」
「そうよ。貴方がいいって言ったのでしょ」
クリスタは勝ち誇った顔で胸糞悪い相槌を打つ。しかし、
「でも、君は俺を尊重する気はなかったんだね」
ダミアンが続けるとクリスタは明らかに戸惑いを見せた。
「皆はいろいろ言うけど、君といることは楽しかった。いい思い出も沢山ある。俺は人に対してあれこれ言うのが苦手だから、明け透けな発言をする君の奔放さに惹かれたし、助けられてきた。君は覚えてないだろうけど、俺は小さい時に君に庇ってもらったことがあったんだよ」
(もうやめてよ)
ケジメをつける、とは別れることではないのか。ガツンと言ってやるのではないのか。この期に及んで何故そんな下手に出るのか。これじゃあ、まるで愛の告白ではないか。アデレードは、逃げ出したくてたまらなくなった。見ていたくない。それでもダミアンに見届けろと言われたことがネックになって動けなかった。
「再会した時にすぐにわかって、どうにか振り向いてもらえるよう努力してした。俺は君の望みならなんでも叶えてあげたいと思ったし、実際大抵のことは叶えてきたつもりだ。でも、君は俺の気持ちを考えてくれたことがあったかな?」
クリスタは黙っている。どういうことなのか。「そんなの当たり前でしょ」と嘘でもいいから言い返せとアデレードは思った。
「君はペイトンが告白を受け入れると本気で思った? 万が一の奇跡に掛けたんだろ? 叶うわけないって思いながら、式の当日に告白した。駄目だとわかっているなら、俺のために諦めてくれていいようなゼロに近い確率だった。俺のことを僅かにでも考えていたら、こんなことしたかな?」
「だから、それは貴方がいいって言うからよ!」
ヒステリックにクリスタが答える。ダミアンはそれに同調して激しい口調になることはなく、過去の嫌だったことを、あれこれ語った。
「何よ、そんな昔のことを持ち出すなんて!」
「だったら、結婚指輪を買った時は? 家の調度品を決めた時は? ペイトンに選ばせたよね」
「だから、今更文句言われても知らないわよ!」
許容はしたが、別に推奨していたわけじゃない。いいよと言われても、実際にやったら駄目なことがある。人としてできないことがある。アデレードはそう思うが、この場合、やっぱり許したダミアンが悪いのか。「だったら最初からいいなんて言うな」が罷り通るのか。横暴なんじゃないか。だって、
「嫌われたくないから、我慢しようと思ったんだ」
ダミアンの返答にアデレードは唇を噛んだ。これくらいのことは大丈夫。きっと機嫌が悪かっただけ。ほら、今は笑ってくれている。よかった。自分の中の「好き」が消えないように、気持ちを流す感覚。言わなかったのではなく、言えなかっただけ。本当はいつもずっと言いたかった。私は傷ついたってこと。
「でも、もうそんな風に思えなくなってしまった。君が好き勝手するなら、俺も自分の好きなようにしようと思った。君は俺を甘く見ているけど、結婚後、領地に戻って、君に屋敷から出ることを禁止して生活させることはとても簡単なことだ」
「ちょっと! 冗談じゃないわ。そんなんじゃ貴方と結婚する意味なんてない」
叱られた子供みたいに不貞腐れた顔のクリスタの表情が変わる。ダミアンを非難する目つき。
「……そうだね。君は嫌がると思った。それにいくら自分の望みといえ、そんな軟禁生活を人に強いることはできない。俺は君とは違うから」
ダミアンはとても落ち着いた声で一音一音丁寧に言った。
「この結婚は白紙に戻すよ。クリスタ、君を好きだったよ。さようなら」
心が完全に壊れるのを見た気がした。「自由な生活ができなくても貴方と結婚したい」そう言えば、ダミアンは全て許したような気がする。最後に差し出したダミアンの気持ちをクリスタが踏みつけた。クリスタが蒼白になって、ギャアギャア騒ぎ始めたけれど、きっともう届かない。
(見なければよかった)
アデレードは、その場に立ち尽くしたまま、ひたすらに思った。




