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 蝶よ花よと育てられた人間が、実は蝶でも花でもなかったと知った時、どんな心情になるのだろうか。

 アデレードがそれを体験したのは、初めて参加したお茶会の席だった。十歳だった。まだレイモンドとも仲良くしていた頃。いつも二人で遊んでいたけれど、そろそろ他の子供達とも交流を深めた方がよいのでは? と両親の提案で三つ年上の従姉の催す茶会に参加した。男女問わずかなりの人数が集まっていた。バルモア侯爵家の次女のお茶会デビューと聞いて、いろんな利害が渦巻いていたのだ。しかし、そんなことを露ほどにも知らないアデレードは、声を掛けられるまま誰とでも仲良く話したし、楽しい時間を過ごした。でも、それは心無い会話で一瞬にして潰えた。


「バルモア家の娘だから声を掛けてやっただけなのに、勘違いすんなってな」

「でも、単純で扱いやすそうじゃないか。上手いこと機嫌とっといて損はないだろ」

「そりゃ、あれでお高くとまっていたら、俺は手が出ていたかもしれないぜ?」

 

 軽妙な笑い声。なぜそんな場面に出くわしてしまったのか全く思い出せないが、先程まで睦まじく話をしていた三人の男の子が隠れて自分を嘲笑しているのを立ち聞いてしまった。慣れないお茶会の緊張と高揚と新しい友達ができたことの浮かれた気持ちは跡形もなく弾けた。


(なんで?)


 全く理解できなかった。一体私が何を勘違いしたというのか。だって、微笑まれたから笑顔を返しただけ、差し出された手を握り返しただけ。それは常識的なマナーではないか。相手が不快になる態度など微塵もとらなかったのに、何故こんな風に言われないといけないのか。薄い氷を心臓に刺されたみたいな感覚。すーっと深くまで。心の奥の温かく柔らかな部分に届くくらい。激しい痛みはなかったけれど、じわじわと体の芯から浸食されて冷たくなるのを感じた。何処か遠くで耳鳴りがして、二本の足で立っているのが覚束ない。だけど、このままここにいて見つかることが耐えられず、とにかく必死で逃げた。お茶会が終わるまで終始にこにこして、変わった様子は少しも見せなかった。誰にも知られたくなかった。だって、自分が可愛かったら嘲られることはなかったと理解できたから。要するに自分は値踏みされたのだ。バルモア侯爵家の娘という以外価値なし、と。それがひたすらに恥ずかしかった。生まれて初めて向けられた明確な悪意。怒りより、悲しみより、何よりも恥ずかしくてたまらなかった。だから、屋敷へ戻っても誰にも何も言わなかった。これまで明け透けになんでも話してきたけれど、父にも母にも姉にも。


「お茶会どうだった?」


 と尋ねてきたレイモンドにも。


「うん。楽しかったよ。今度はレイも一緒に行こう!」


 強がってそんなことを返した。だって、言えるわけがない。あんな屈辱的なこと。惨めなこと。誰にも何も知られないまま全てなかったことにしたい。しようと決めた。全部忘れることにした。ただ、あの日から決定的に変わったことが一つある。初対面の人間の動向を異様なくらいに敏感に観察するようになった。今値踏みされたな、とか、蔑まれたな、とかそんなこと。ほんの一瞬だけ見える微かな空気の揺れも逃さないくらい。でも、面と向かっては言葉にしない相手にどう対処してよいかわからなかった。不快な気分を呑み込んで、仲良くするふりと、愛想笑いだけが上手くなっていった。できるだけ楽しく、なるたけ明るく見えるように。物凄く嫌だったけれど。


(まぁ、もう慣れたけどね)


 アデレードはあの日の自分に思いを馳せて深く息を吐いた。高位貴族に媚を売り、二枚舌で他人を利用する人間は存外多い。にこやかに(へりくだ)って近づいてくる輩ほど要注意。侯爵家に生まれた以上、そういうことを予め頭にいれておけば良かったのだ。手放しに人を受け入れないように。それが貴族社会の処世術だ。


(特に、私みたいな凡庸な人間はね)


 どういう根拠か知らないが、たまたま出自が良かっただけの人間だと舐めて掛かって来る輩が一定数いるから。選民意識というのか。確かにその手の人種はそれなりに美形だったり、頭が良かったりはする。中途半端に良い程度だが。そして、性格はもれなく屑だが。

 アデレードは露店の物陰から、悪口を言っている人間の顔を見といてやろう、と声の方へこっそり近づいた。男性が集まる人気のない場所に乗り込んでいくほど危機管理能力がないわけじゃない。しかし、子供の時のように走って逃げる気もさらさらなかった。舐められることにはすっかり順応してしまって、あの時みたいに身体は震えていないし、二本の足はしっかり地についている。なんらかの機会にやり返すために、何処のどいつか確認しておかねばならない、と心も通常運転だ。

 興奮しているのか、地声が大きいのか、まだべらべらと失言が聞こえてくる。上手いこと顔が見える位置を探そうとしゃがんで体勢を整えようとした瞬間、ぐいっと右肘を引っ張られて完全に息が止まった。


(えっ)


 声にならない叫びと同時に、うっかり殺人現場を目撃した通行人が背後から殺人者の仲間に撲殺される昔読んだ推理小説のシーンが走馬灯のように脳裏を走った。


「僕が行く」


 落ち着いているけど重い声音と冷たい瞳。


(旦那様……?)


 あれ? というほど普段のペイトンのイメージと重ならなくて、アデレードは白昼夢でも見ている感覚になった。


 アデレードが呆けている間に、ペイトンは掴んでいた肘を離して、押し退けるよう前へ歩み出ていく。


「ちょっと、何処に行くんですか?」


 我に返ったアデレードが、今度は逆にペイトンの腕を取った。


「何処ってそんなのは決まって、」

「声が大きい! ちょっとこっちに来てください」


 ペイトンの心底憤慨した声にアデレードは焦った。当たり前の話だが、向こうの声がこちらに聞こえるようにこっちの声もあちらに聞こえる。アデレードは掴んでいた腕に縋りついてぐいぐい引っ張った。

 

「ちょっ、き、君、そんなに引っ付いて……」

「いいから黙って。早く、早く!」


 さっきはびくとも動かなかったが、今度はアデレードが進むままに、ペイトンも露店裏とは逆方向の表通りの方へずるずるついてきた。相手に話し声が届かない位置まできてアデレードが掴んでいた腕を離すと、


「こ、こんな場所で抱きつくなんて……」


 と、ペイトンはぶつぶつ文句を言った。ペイトンが明らかに騒ぎを起こそうとしているから止めたのであって、今の一連の行動を抱きつくカウントされると心外なのだが。けれど、触れられるのが嫌でペイトンがエスコートの際にも極力身体を離しているのは理解している。とっさのこととは言え悪かったかな、と、


「すみません」


 とアデレードは素直に謝罪した。


「いや、別に謝られることじゃないが」


 じゃあなんなの? と思うものの、それより何故ペイトンがここにいるのかという疑問が先に立った。


「社交クラブに行ったんじゃなかったんですか?」

「行くわけないだろ」


 なんでだよ、行けよ、という感情しかない。


「そんなことより! 君は、あんなこと言われて放っておくつもりか!」


 とペイトンは再び興奮し始めた。


「旦那様も聞いてらしたのですね」

「何を呑気に……君は売られた喧嘩はもれなく買うんじゃなかったのか?」

「時と場合によりますよ。人気のない場所にいる複数の男性相手に飛び込むのは危険だと思ってやめました」

「だから僕が行くと言っているだろう」

「王家主催の園遊会ですよ? あの程度の陰口を叩かれたくらいで騒ぎにしたら、こっちの評判が落ちます」

「そんなことは関係ない。敵前逃亡する気か? 君らしくない」

「いや、別に私好きで喧嘩しているわけじゃないですけど」


 絡んでくるからやむなしに反撃しているだけだ。基本的には平和主義だし、穏やかに暮らしていたい。好戦的な人物像を勝手に練り上げられても困る。さっき東広場にいたときだって明らかに敵意を向けられていたが華麗に無視していただろうに。ペイトンが気づいていたかは知らないが。


「だが、やられたらやり返すんだろ?」

「……私がいいって言っているんですから、もう良くないですか?」

「良くない」

「王家の催しで騒ぎを起こすことの方が、よっぽど良くないでしょ」

「わかった。君はここで待っていなさい」


 言うな否やペイトンがさっさと歩き出すので、アデレードは腕を掴んだ。


「ちょっと君!」


 ペイトンが蛇にでも遭遇したみたいに飛び退くので、アデレードはちょっと笑ってしまったが、すぐに表情を引き締めた。


「あの、なんて言うつもりなんですか?」

「え?」

「不細工じゃないって侮辱の言葉としては弱いですよ? それに陰口言っているのはあの人達だけじゃないから、いちいち文句つけていたらキリがないんです。だから抗議は不要です」

「他にもって……」

「さっき東広場でもヒソヒソ言われていたでしょ」

「気のせいじゃないのか」


 は? とアデレードは頭に血が上った。なんだそれ。気づいてないのは仕方ないとして、自意識過剰のように言われるのは納得できない。これまでの茶会だって、嫌な感じで笑われていることは訴えてきたはずだ。反応が薄かったのは信じていなかったと言うことか。流石にそれはないんじゃないか。


「気のせいじゃないです。私、そういうことには敏感なんで。旦那様もそうでしたよね?」

「え?」

「初めて会った時、私のこと大したことない娘だなって思ったでしょ? 私、見逃してませんから」

「な、にを……」


 アデレードは初めてペイトンと対面した日のことを鮮明に頭に浮かべて言った。ペイトンが女性嫌いであることは知っていたし、婚姻前の顔見せにも一度も姿を見せなかったことで、歓迎されない妻であることは分かっていた。別に自分でなくとも、拒絶の対応をしたことも理解している。でも、あの日、ペイトンが応接間に入ってきて目が合った一瞬。あの超絶失礼な発言をする一瞬前に、値踏みされたことは見逃していない。ただ、自分が凡庸なのは事実だから仕方ないと思っているだけだ。


「私が何処にでもいる平凡な娘で、こいつには言っていいと思ったからあの発言をしたんでしょ?」

「……僕は……別に誰だって拒絶していた」

「それは分かってます。断り方の話をしているんです」


 例えば、あの場にいたのが一言で丸めこめそうにない知的な美人だったら? 或いは、父が同席していたら、同じことを言ったか? 同じ拒絶でも別の言葉を選んだんじゃないか。よくいるタイプの令嬢。最初にガツンと言えば黙りそう。だから、言ってやろうと思った。それでよいと思った。そういう扱いを受けた。

 ペイトンが黙る。思うところがあるんだろう。


「別に蒸し返す気はありません。おかげでよい契約が結べたわけですし。ただ、わたしの洞察力の証明をしたかっただけです」


 抗議しに行こうとしてくれたペイトンに対して、糾弾するような状況になってしまったことは申し訳なく思った。だが、不要だと言っているのに下手な正義感を出されても迷惑な話だ。たまたま幸運に高位貴族に生まれただけの凡庸な娘は理不尽な陰口叩かれるあるあるを、美貌の侯爵家嫡男に話しても理解できないのは仕方ないのだろうけれど。侯爵様に頭を下げても、爵位継承権のない娘にまで媚びへつらうのは屈辱と捉える貴族男性は存外多い。舐めているから(おだ)てて陰で(あげつら)うし、弱味を握ろうと画策する。だから、こんな場所で尻馬に乗るのは愚の骨頂。


「東広場でとやかく言われていたのも事実だし、なんなら午前中の挨拶の時にも嫌な感じの人はいました。だから、王家主催の園遊会で騒ぎにするほどのことではないんです。慣れているんで平気です。お気持ちだけ受け取っておきますね」


 アデレードは笑って言った。全く笑える気分ではなかったけれど、長年の経験の賜物だ。ぐっと堪えて笑顔を作るなんてとても簡単なことだ。


「社交クラブに行かないなら、お義父様のところへ戻りましょうか」

「……駄目だろ」

「え」

「こんなことに慣れたら駄目だ」


 怒気を孕んだ声。一音一音が嫌なくらい耳に届いた。好き好んで慣れたわけじゃない。令嬢達にチクチク嫌味を言われている時は、ぼーっとしているくせに今日に限って何をやいのやいの言うことがあるのか。しつこい奴だな、もういいから放っておけよ、とアデレードはぐっと唇を噛んだ。それをどう解釈したのかペイトンは背を向けて歩き始める。


「待って!」


 今度は腕を掴み損ねて、ペイトンとどんどん距離が遠のく。アデレードは後を追ったが、裏道へ行くほど整備されてない砂利道で歩きにくい。そもそも高身長のペイトンが早足で進めば追いつけるはずがない。それでもどうにか既に露店の裏に回り込んで姿の見えなくなったペイトンの後を追った。少し奥まった雑木林の前にペイトンと三人の男が確認できた。そのうちの一人がラウル・ホイエットであることにアデレードは目を開いた。


「先程は僕の妻に随分な言いようだったな。フォアード侯爵家として重く受け取ったよ」 

「いや、あれは、」

「釈明は結構だ。今後突然生活に何らの支障が出た時、原因不明だと困惑するだろう? 先に教えておいてやろうっていうただの親切心だからな」


 アデレードからペイトンの顔は見えないが、多分笑っている。要約すればフォアード侯爵家はお前らと付き合いを断つがそのせいでどうなっても知らん、という意味だ。遠回しな嫌味は言わないタイプだと思っていたから驚いた。


「ちょっと待ってくれよ。お前だって乗り気じゃない結婚だったろう? 俺達はそんなに怒るようなこと言ったか? お前だったらもっとよい相手がいたって皆思っているぞ」


 ラウルがさも大したことない軽口だった体で言う。アデレードは、四人が問答している間にかなり近い位置まで歩みを進めていたが、ラウルからはペイトンが壁になり見えていなかったらしい。一人の男が「おいっ!」と目配せして漸くこちらの存在を認識したようだった。


「あ……」


 心底びっくりした時の呟きの声。のこのこ登場してしまったことにアデレードは一瞬たじろいだ。だが、自分は悪くないのだし堂々としよう、と考え直して無表情にラウルを見た。

 

「フォワード夫人! 今のは、その、違うんです」


 この状態で言い逃れなんてできないだろうに、私を何処まで舐めているんだ、と感情が凪いだ。男達の足元には煙草の吸殻。用意された喫煙所ではなく隠れて喫煙している時点で察するものがある。公式な貴族の集まりで迂闊な発言はできないから仲間三人で愚痴大会というところか。本人に立ち聞きされるなんて夢にも思わなかったのだろう。迂闊すぎて同情のしようもない。


「夫人! 何か誤解があるようで。私達はただ、ペイトンが結婚したことが驚きでして、つい軽率な言動をしてしまっただけで」

「誠に申し訳ありません!! 私共の話を聞いてください」


 ペイトンを宥めてほしい感がありありと伝わってくる。こういう時は、

「旦那様、謝罪してくださいましたし、私なら平気ですから、どうか寛大な処置を」

 と円満解決へ導くべきだろうか。しかし、ここで相手の肩を持つのはペイトンにとって味方に背中を撃たれるのと同じではないか。ペイトンを見上げるが後頭部で表情がわからない。なんとなくこちらの発言を待っている風なことは理解できた。どうすればよいのか。ラウルと目が合う。午前中の出来事と先程の悪口と今の謝罪の言葉がチカチカ点滅して、


「嫌です」

 

 と気づけば言い放っていた。三人は絶句してますます顔色が悪くなる。可哀そうに、とか、気の毒に、と思わない代わりに、ざまーみろ、とも、すっきりした、とも感じもなかった。さっき凪いだ感情が戻ってこない。振り向いたペイトンに、


「用は済んだな。行こうか」


 と告げられて、アデレードは黙って従った。


「ペイトン! 待ってくれ」

「フォアード夫人!」

「待ってください! 話を聞いてください」


 背後から必死に呼び止めてくる声。しかし、それも、


「騒ぎにして困るのは君達じゃないか」


 という冷たいペイトンの言葉にすぐに聞こえなくなった。

 ジャリジャリと砂利道を歩く音だけが二つ重なって鳴っている。ペイトンが後ろをついてくる。あんなこと言って大丈夫なのか。

 露店の角を曲がってラウル達から見えなくなった辺りで、


「すみません。私のせいで。有難うございました」


 とアデレードは謝罪と御礼を述べた。ペイトンを非難しておいて、結局庇ってもらったことがみっともなく、同時に、なんでももっているペイトンを羨ましく思った。「お前の家名とは関係を断つ」などとは自分には言えないから。そもそも自分にそんな権力があったら舐められることもなかった。


「別に君のためじゃない。妻が侮辱されて黙っているのはフォワード家の沽券にかかわる問題だ」

「はい、そんな自惚れはないので安心してください」

「え、いや、別にそういう意味じゃ……」


 ペイトンが焦ったように言うので、嫌味で言ったように聞こえたのかな、とアデレードも焦った。そんなつもりは毛頭ない。言葉選びを間違えた。今日はいろいろ失敗が多い。

 ペイトンはずっと後をついてくる。隣に並ぶ気配も追い越してくる感じもない。さっきはぐんぐん距離を離されたから歩調を合わせてくれている。アデレードは立ち止まって一旦振り向いて、


「誰かが自分のために抗議してくれるのは嬉しいものだから、御礼を言いたかったんです。有難うございます。だから、あの人達に本当に制裁を加えるのはやめてください。私の気は済んだので」


 笑って言うと直ぐに前を向き歩き始めた。無性に泣きたくなった。そうだった。相手にやり返して欲しかったわけでも、仕返ししたかったわけでもない。ただ、一緒に怒って欲しかったのだ。ずっと。レイモンドに。

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