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ペイトンは十八で学園を卒業後、家督を継ぐ勉強を始めた。最初の二年は、フォアード侯爵の元で直接ノウハウを学んでいたが、三年目に主要な事業を引き継ぎ独り立ちした。そのタイミングでフォアード侯爵は王都に新たなタウンハウスを購入し「独立祝いだ」とペイトンへ贈った。本音を言えば、フォアード侯爵自身が、住み慣れた屋敷から離れたくなかった気持ちもあった。通常、嫡男に家督を譲った貴族は領地でのんびり余生を送る。しかし、妻に裏切られて以降、仕事に生き甲斐を見出してきたフォアード侯爵は生涯現役を通すと宣言しており、領地に引っ込む気がなかった。さりとて、息子が嫁を迎えた時、自分がいては夫婦生活の妨げになると考えた末、王都にもう一つタウンハウスを購入し、ペイトンを住まわせることにしたのだ。特に何の拘りもないペイトンが逆らうわけもなく、筆頭執事としてジェームスを連れて引っ越した。なので現在ペイトンが暮らすこの屋敷には、夫婦の部屋がちゃんと設えられてある。だが、待望の花嫁が嫁いできてもその部屋が使用されることはなかった。
最南に位置する日当たりの良い部屋でアデレードは一人で眠り心地よく目覚めた。
白い結婚である為、初夜などないし、アデレードの部屋とペイトンの自室は階も違えば場所も真逆の位置にある。家庭教師の女に寝込みを襲われたトラウマから物理的な距離を取っていることは暗に理解できたし、それを知ってもアデレードは不快にならなかった。ペイトンに同情したのではなく、例え花嫁が自分でなくとも同じことをしただろうから。
「アデレード様、お目覚めですか?」
ノックと共にバーサが入室してきた。時刻は八時。いつもなら学校へ登校するため起床する時間だ。
アデレードは、実まだ卒業していない。必要な単位は既に習得済みであるため、休学しても問題ないので嫁いできた。来春の卒業式には一時帰国して出席するよう両親には言われている。しかし、アデレード自身は帰る気はない。レイモンドに会いたくない。その為に隣国へ嫁いできたと言っても過言ではない。ずっとレイモンドにエスコートされて卒業パーティーに出席するのが夢だったが、レイモンドはきっとメイジーを連れて参加するだろう。あのままいたら惨めに二人の後ろをついて歩くことになった。「卒業さえすれば結婚してもらえる。そしたら幸せになれる」と妄信してどんなに蔑ろにされても我慢してきたが、結婚前からあんな扱いなのに、結婚後に良くなることなどありえるのか。頭に花が咲き乱れていた頃は誰にどう苦言を呈されても信じなかった。
「おはよう」
「おはようございます。ご気分は如何ですか? 長旅でしたからお疲れでしょう?」
八時に起床すると伝えたのはアデレードだ。ペイトンが大体いつも九時に出勤すると聞いたので、一応見送りくらいした方がよいかと思った。寝起き姿を晒すわけにもいかないので、余裕を持って身支度できる時間に、と考えて、いつも起きる時間と同じでよいかという結論にいたった。
「そうでもないわ。バーサこそどうなの? 侍女部屋はどんな感じ?」
「はい。この屋敷には通いの従業員が多いようで一部屋頂けましたので快適でした」
「そう。良かったわ」
望まれない花嫁なのに好待遇。
フォアード侯爵に訓告されているからか、筆頭執事のジェームスが常識人であるからか。それでもこの屋敷の主人はペイトンなのだから、あの男が厳命すれば屋敷内のことに関して誰も逆らえないはずだ。然るに、元から物理的な冷遇をする気はなかったことになる。「君を愛することはない」の宣言が強烈でカチンときたものの、その後に無礼な態度は取られなかった。夕飯にこちらが遅れて行っても文句をつけなかった。変な人だな、と思う。
「朝食は如何されます? 準備はできていますよ」
「旦那様は?」
「もう出勤されたそうです」
「え? 九時に屋敷を出るのじゃなかった?」
「いつもはそうらしいのですが、今日は急ぎの仕事があるとかで……」
是が非でも見送りしたかったわけではないが、出端を挫かれてしまった感はある。といってもどうにもならないので、
「そう。じゃあ、着替えたら朝食を頂くわ」
とだけ返事をした。
食堂で昨日と同じ位置に座ると、メイドが手際よく食事を運んでくる。ここでもアデレードは感心した。ロールパンにサラダ、スクランブルエッグ、カリカリに焼いたベーコン、オレンジジュース。バルモア家の定番の朝食メニューが並ぶ。
(こんな風なら、あんな契約しなくても良かったわね)
ペイトンの女性嫌いの噂は事前に把握していて、陰湿な嫌がらせをされる懸念があった。同時にやられたらやり返してやる気概もあった。アデレードは元々気の弱い性格ではない。母国にいた時、同級生達に好き放題に嘲笑されていたのはアデレードが抗議するとレイモンドが怒るからだ。「冗談も通じないのか」とか「彼女はそんな意味で言ったんじゃない」と他の令嬢達を庇うので、レイモンドに嫌われたくなくて反論しなくなった。すると周囲は増長して、気づけば「あの女は馬鹿にしてもよい」という空気が出来上がっていた。惨めだった。もう二度と他人に舐められたくない。だから、ペイトンが問答無用に宣告した時、わざと真逆な答えを返した。ペイトンの申し出通りにお互い干渉せず一年間暮らすことに同意して良かったのに、癪に障ったから変な契約を結んでしまった。しかも、明らかにこちらが有利な内容だ。こんなに気を遣ってもてなされると罪悪感が芽生えてしまう。
(まぁ、罰則を簡単なものにすれば問題ないでしょ)
しかし、あくまで気楽に考えていた。大袈裟に契約書まで作成してしまったが、平穏に結婚生活が送れれば問題ない。政略結婚に関わらず嫁を虐げる家は結構あると聞く。ましてや隣国で頼れる者もいない状況で、屋敷中の人間から嫌がらせをされたら堪ったものではない。「愛され大切にされたい」とはイコール「母国にいた頃と同等の生活の保証」という意味だ。それ以上のことは全く望んでいない。
(そういえば、妻の務めって何かあるのかしら?)
これは白い結婚だ。屋敷の管理や事業のあれこれを任せても離婚後は、また元の業務体系に戻さねばならない。だったら、初めから何もさせないというのはよくある話だ。特にペイトンは女性を全く信用していないので、きっと関わらせないだろう。こっちは楽で良いが、一年遊んで暮らすのは流石にどうか。
「失礼します。奥様、おはようございます」
食事を終え、とりとめないことを考えているとジェームスが入室してきた。
「おはよう。旦那様はもうお出掛けしたのですって?」
「申し訳ありません。急な仕事が入りまして。加点はしますので」
「え? いえ、仕事で出掛けたのに加点するのは厳しすぎるのではないかしら?」
アデレードは驚いて返した。
「そうですか? では、旦那様には注意だけしておきます」
注意って何を? とアデレードは思ったが、にっこり微笑むジェームスから、否を言わせぬ意志が見て取れたので反論はせず、
「ところで、何か私がすべきことはあるかしら?」
と尋ねた。
「はい、結婚祝いの品が届いておりますから礼状と内祝の品を選ばねばなりません。もちろん申しつけて頂ければ私が手配致しますが」
「ザ・妻の務め」みたいな回答が返ってきて意外だった。てっきり何もないと言われるかと思っていた。社交界での繋がりを円滑に築くには、季節折々や祝い事には適宜に贈り物を送らねばならない。母も小まめに礼状を認めていたことをアデレードは思い返した。「他のことはよいけど字だけは美しく書けるように練習しなさい」と口を酸っぱく言われていた。
「いえ、私がやります。でも、勝手がわからないので教えて頂けるかしら?」
答えるとジェームスは目を細めた。
「では、午後から早速作業を始めましょう」
まだ九時前だ。今すぐ始めてよいのだけれど? と思ったが、自分と違ってジェームスには色々予定があるのだろう、と考えて、
「えぇ、よろしく」
とアデレードは素直に返事した。
▼▼▼
ペイトンが逃げた。
信じられない、とジェームスは朝から呆れ返った。
ペイトンは実に几帳面な男で、毎朝七時に起床し、軽く三十分のランニングの後、シャワーを浴びて、朝食を取り、九時に屋敷を出て馬車で二十分の仕事場へ向かう。しかし、今日に限りいつもより一時間も前に出掛けた。自分のペースが乱されるのは嫌いなペイトンが、朝のルーティンを曲げてまで早朝出勤した理由は、急ぎの仕事があるからなどでは断じてない。
ジェームスは、直ぐに追い掛けて連れ戻したい気持ちを抑えて、アデレードが起きてくるのを待った。主人だけでなく、筆頭執事の自分まで不在ではアデレードの心証を悪くする。あくまで急な仕事が入った体でやり過ごそう、と考えたから。だが、食堂で挨拶したアデレードは、ペイトンのことを尋ねたが、今日の天気はどうか、と聞くのと同じくらい容易い感じだった。不在の理由を告げても「そうなんですね」という反応。ただ社交辞令で聞いてみただけで、そもそも興味がなさそうだった。
(奥様は貴方のことなど微塵も気にしておられないですよ)
ジェームスは苦く思った。
しかし、嫁いできたからには妻の務めを果たそうとする気持ちは持っているらしい。礼状の手配を頼んでみたが、命じてくれればこちらがする旨を告げても、自分ですると断った。昨日も傲慢な態度はなかったし、噂に聞き及んだ我儘令嬢ではないな、と改めて思った。
ジェームスは、フォアード家の夫人となる令嬢に関して、何の用意もせず招くわけにはいかないため、アデレードのことをあれこれ調べていた。美男子と評判のリコッタ伯爵家の嫡男に付き纏い迷惑がられている悪評を入手してペイトンの尤も嫌うタイプの令嬢だな、と不穏を感じていた。ペイトンの懸念通り、ペイトンの美貌に執心するのではないか、とも。しかし、実際嫁いできたアデレードは全くペイトンに興味を惹かれる様子はなかったし、白い結婚を白い結婚として遂行しようという意思が見えた。ペイトンが失礼な宣言をしなければ、もっと淡々とした関係を築けたはずだ。今日だって、普通に朝食を共にして、普通に挨拶して出掛ければそれで丸く収まっただろう。
(一年ずっと逃げるつもりじゃないだろうな)
アデレードはペイトンが早朝出勤したことに疑いは抱いていなかったが、屋敷の人間は誰もが変だと思っている。それほどペイトンは自分のスタイルを曲げない男だ。その全てを投げ打ってまで逃げ惑う意味がわからない。女嫌いでも女性恐怖症ではないはずだ。だというのに、昨日から様子がおかしいのも気になる。一体どういうつもりでいるのか白黒はっきりつけさせる必要がある。
午後から礼状の手配を手伝う約束をアデレードと取り交わした後、ジェームスはすぐさまペイトンの元へ向かった。
フォアード家は領地の運営の他、貿易商を営んでいる。優秀な人材は出自に構わず雇用する方針で、様々な階級からのニーズを拾いやすい。卸売りだけではなく小売の店舗も五つ所有している。各店舗ごとに特色を持たせて高級品と日用品は同じ店では販売しない。その為客層は店舗ごとに異なり、貴族から平民まで多くの客を取り込んでいる。
ペイトンの執務室は第一号店である本店にある。三階建のビルで、一階が店舗、二階、三階が事務所となっている。ペイトンは基本的に午前中はこの事務所で仕事をして、午後からは店舗を回ったり、商談に応じたり、会食に出掛けたりする。
「あれ、ジェームスさん、今日は出勤日でした?」
「いや、旦那様に急用だ」
事務所へ上がると受付嬢が疑問を投げかけてくる。ジェームスは貿易商の方の経理事務も担っていて、隔週ごとに事務所へ来る。
「社長は先程出社されましたよ」
受付嬢がにこやかに答える。先程? 二時間前には屋敷をでたのに? と疑問が湧いたがそのままペイトンの執務室へ向かう。ドンドンと扉を叩くが返事がない。
「居るのは分かっているんですよ。入りますよ」
徐に扉を開けると「勝手に入ってくるな」と抗議しながら執務机に突っ伏しているペイトンが見えた。
「急な仕事とは一体なんですか? 奥様に挨拶もせず出社するような案件などないはずですが?」
構わずジェームスが詰め寄ると、ペイトンは机に顔を埋めたままもごもご言った。聞き取れずにジェームスがもう一度尋ねると、
「今準備しているところだ!」
と今度は投げやりに叫ぶ。
「準備って何のですか?」
ジェームスが眉根を寄せるが、机の上に散乱している本の題名を見て何とも言えない気持ちになった。
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また会いたいと思わせる会話術
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見える範囲ではそれだけだが、他にもバラバラと机上に散乱している。これを隠すために机に覆い被さっていたらしい。もう諦めたのか、今は不機嫌に顔を上げている。
「……奥様を好きになっちゃったんですか?」
「馬鹿言うな。契約を遂行するのに必要だから買ったんだ」
いやいや、とジェームスは思った。こんな本を読むくらいなら、ちゃんと朝の挨拶をして一緒に朝食をとれよ、と。まぁ、でも、逃げただけではないことに少し安心した。意外に本人にやる気があることも。
「奥様は旦那様が出掛けたのかお尋ねでしたよ」
興味はなさそうでしたけど、の言葉は呑み込みでジェームスが告げると、
「そうか……何て答えたんだ?」
「出勤した旨をお伝えしました」
「何か言っていたか?」
ペイトンが心許なく尋ねる。何も、とは答えづらくて、
「奥様は、本日は結婚の内祝いの手配をしてくださるそうです」
とジェームスははぐらかして返した。
「そんなことはさせるな」
「妻の務めとしては通常のことかと」
「昨日嫁いできたばかりだろ」
「昨日嫁いできたばかりでも妻は妻です」
「そうじゃなくて!」
ペイトンが語調を強める。てっきり屋敷のことに口を挟ませるな、という意味合いで言ったと思ったが違うらしい。
「奥様がご自身で自分がすると仰いましたので。もちろん私が補佐します」
ジェームスが付け加えるとペイトンは黙った。夫の金で遊び歩く妻、というのはペイトンが一番嫌う構図のはずだ。だが、嫁いできたばかりの自分の妻には、いきなり仕事をさせない思いやりはあるらしい。ジェームスは生温かい気持ちになった。だったら、それを言葉にすれば恋愛指南書を読むよりよっぽど効果的なのではないかとは思わなくもないが。しかし、本を読了後ペイトンがどう動くか非常に気になったので、敢えて何も忠告しないことにした。